痣と不思議な力

(帰ってきてから、お父様は昼食も食べず書斎に籠もってしまった)


 咲耶の頭を、優しく撫でて。

 そのときの恭一郎は、何かを憂うような顔をしていた。

 握っている木刀を振り下ろすも、普段ほど身が入らない。ただ振り上げて下ろしているだけだ。

 これは、咲耶の日課のようなもの。幼い頃から恭一郎より「自分の身を護れるように」と剣術を教わり、素振りは欠かさずやってきた。恭一郎以外とは手合わせをしたことはないが、戦えるようにしっかりと仕込まれたとは思う。

 溜息を吐き、だらりと腕を下ろすと空を見上げた。太陽は今も姿を見せてくれており、自然と口元が綻ぶ。

 今日、神楽殿かぐらでんへ連れて行ってもらえてよかったと思っている。かんなぎが神楽を舞っている姿も見ることができた。太陽が姿を現す瞬間も見ることができた。とても、とても素敵な時間だった。

 されど、恭一郎はそうではなかった──かもしれない。

 あのとき、神楽殿を向いて何を見たのだろうか。何かから逃げるようにして、走って家へと帰ってきた。訊いても話してはくれない。ただ、頭を撫でただけだった。

 胸の内にあるもや。これが晴れない限り、何にも身が入らなさそうだ。今日はもう終わりにしようと、縁側に木刀を立て掛け、腰掛ける。

 咲耶は再び太陽を見上げた。最後に見た、紫色の瞳をした青年。色を持っている彼は帝なのだろう。


(帝……確か、名前は八十神やそがみ紫貴しき様)


 歳は咲耶とそんなに変わらないように見受けられた。

 まだ若いのに、この日本を治めている。それに比べて、自分は。咲耶はゆっくりと後ろへ倒れた。

 女学校を卒業したばかりとはいえ、仕事には就いていない。これも恭一郎に止められたからなのだが、本当にこれでいいのかとどうしても焦ってしまう。香世子は「家のことを手伝ってくれるだけでいい」と言ってくれるが、働きに出ている友人達を見ていると焦りが顔を出す。


(巫様も、お顔はわからないけれど、わたしとそう変わらないと思う。わたしだけが、何もしてない)


 右手を天井に向けて伸ばし、じっと見つめる。

 わかってはいるのだ、両親が気にかけてくれていることを。首の後ろにある痣。そして──。


「咲耶、ちょっといいかしら」

「はい。どうされましたか?」


 香世子に声をかけられ、咲耶は急いで起き上がり姿勢を正す。どうやら何か困っているようだ。


「その……台所、来てくれる?」


 台所へ行くと、夕食の準備がされている途中だった。鍋の中にはぶり、大根。これは、恭一郎の好物、ぶり大根だろう。まだ具材が入っているだけだが、これだけでもおいしそうだとじっと見ていると「こっちよ」と声をかけられ、しゃがみ込む。

 炭も入っている。薪も入っている。だが、かまどには火がついていなかった。


「どうやってもつかなくて。……ごめんね、力は使わないようにと、恭一郎さんから言われているのに」

「……他の人の前で使うわけではありませんから、大丈夫です」


 そう言って、咲耶は目を瞑る。自身の中から火が燃え上がる想像を膨らませると、チリ、と首の後ろに小さな痛みが走った。


(そういえば、神楽殿でもこの痛みがあった。あれは何だったんだろう)


 静かに目を開け、ふう、とかまどに息を吹きかけた。

 途端に薪が燃え始め、パチパチと音を立てる。これでもう大丈夫だろうと香世子を見ると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうね、咲耶。……ふふ、やっぱり綺麗ね、その瞳」


 物心ついた頃から、火を好きなように操ることができる。その間は瞳の色が黒色から金色へと変わっているらしく、香世子はその瞳の色が綺麗だと、先程のようによく褒めてくれていた。


「……でも、この力があるから、わたしは家にしかいられないのですよね」


 瞬きをすると、瞳は元の色に戻った。その瞳を伏せ、咲耶は唇を軽く噛む。

 火を操る以外にも、不思議な力がある。植物の力を借りなければならないが、怪我の治癒などもできるのだ。

 恭一郎からは、家族以外には力を使わないようにと言われている。それでも、極力使わないようにと。

 咲耶の力は、普通の人間にはないもの。力を使わない生活に慣れていたほうがいいと、そう言って。

 恭一郎も香世子も、咲耶のことを気にかけてくれていることはわかっている。わかっているのに──それを窮屈に感じてしまうことが、申し訳ない。


「こんな力、なければ……」

「咲耶、それは言ってはいけないことよ」

「……お母様」

「咲耶の力は、とてもすばらしいの。でも……そうね。咲耶に傷ついてほしくなくて、恭一郎さんも私も、ついつい過保護になってしまう」


 咲耶はもう幼い子どもじゃないのにね、と香世子は寂しそうに笑った。


「……すみません」

「いいのよ。そうだわ、準備を手伝ってくれる? 今日は恭一郎さんの好きなぶり大根と咲耶の好きなだし巻き卵を作ろうかと思って」


 小さく頷き立ち上がると、ぶり大根が入った鍋をかまどに設置し、落とし蓋をする。かまどの火を確認しようと再びしゃがみ込むも、香世子の優しさが心にしみて涙が溢れそうになった。



 * * *



 香世子が夕食の準備ができたと恭一郎を呼びに行くと、すんなりと書斎から出てきた。

が、その顔は暗い。


「今日は咲耶と一緒に作ったんですよ」

「……そうか。いただきます」


 元々、恭一郎はあまり感情を表に出さないが、咲耶が何かをすれば優しい笑みを浮かべて喜んでくれる。その恭一郎が、ほとんど反応を示さなかった。香世子の言葉も、届いているかどうか怪しいほどに。

 いつもの「うまい」という言葉もなく、誰も一言も発さずに夕食の時間が過ぎていく。


(誰も話さなければ、こんなにも静かなんだ)


 普段もそこまで賑やかというわけでもないが、今日は一段と静かだ。昨日までの食卓が恋しい。

 そんなことを思いながら食べ終え、咲耶は「ごちそうさま」と両手を合わせた。食器を台所へ持っていこうと立ち上がったとき、恭一郎が「咲耶」と名を呼んだ。振り向くと、思い詰めたような表情をしている。


「……あとで、話がある」

「待ってください、恭一郎さん。もしかして」

「咲耶も十八歳だ。……話せばわかる」


 ですが、と香世子は食い下がるも、恭一郎の意思は固いようで聞き入れようとしない。何の話をしようとしているのかわからない咲耶は、二人の間で戸惑うばかり。

 結局、香世子が折れ、片付けを終えたあとに話をすることになった。

 使用した食器を綺麗にし、片付けていく。一体、どんな話をしようとしているのか。少しでも知りたくてちらりと香世子を見るも、表情は微かに険しく、話しかけられるような雰囲気ではない。

 それもそうかと、咲耶は小さく息を吐き出した。恭一郎が「話がある」と言ったとき、香世子は反対気味だった。


「さて、終わったわね。戻りましょうか」

「……はい」


 咲耶を不安にさせないように、笑みを浮かべているのだろう。夕食前は香世子の優しさが心にしみたが、今は何だか胸が痛む。

 二人で恭一郎がいる居間へ向かおうとしたとき。ずきりと首の後ろに痛みが走った。

 ほんの一瞬。けれど、その一瞬で脂汗が滲むほどの痛み。

 このような痛みは、今までなかった。力を使うときに僅かに痛むくらいだ。得体の知れない痛みに、首の後ろに手を当てる。

 その状態で恭一郎の前に座ったからか、心配そうな目が向けられた。


「咲耶、どうした?」

「首の後ろが、痛くなって。今は、痛くないのですが」

「今日はもう休みましょう。話は明日にでも。それでいいですよね、恭一郎さん」

「ああ、そうだな。咲耶、何かあったらすぐに起こすんだぞ」


 小さく頷き、咲耶は「おやすみなさい」と二人に告げて自室へと向かった。

 またあの痛みが来たら、と恐怖に怯えつつも寝る支度を整え、布団へ入る。何事もなく早く明日が来てほしい。目を瞑るが──眠れない。すぐに目を開けてしまう。


(何だろう、気分が落ち着かない)


 言いようのない何かが胸の中で渦巻いている。気持ち悪い。これは何なのか。自分のことなのにわからない。

 唇を噛み締めたとき、ぞわりとしたものが首の後ろを這った。

 まさかと手を当てた瞬間、直近のあの痛みなど比ではない痛みが咲耶を襲った。


「あ……あ、あぁぁぁああぁあぁぁぁぁああ!」


 身体を丸めながら叫び声を上げる。

 ずきん、ずきんと、等間隔で痛む首の後ろ。誰かに首を切り落としてほしいと願ってしまうほどの痛みだ。

 咲耶の叫び声を聞いて、恭一郎と香世子が駆けつけてきた。


「咲耶!」

「首の後ろが痛いのね!? な、何か冷やすものを持ってきます!」


 そう言って香世子が持ってきたのは水で濡らした布。冷やせば痛みが少しでも落ち着くかもしれない。あててもらおうと、首の後ろを押さえていた手を離したときだった。

 恭一郎と香世子が、何故か息を呑んだ。


「な、何だ、これは。……」


 そこに、玄関の戸を激しく叩く音が聞こえてきた。

 咲耶の叫び声を聞いて、近所の誰かがやってきたのだろうか。そうだとしても、今はもう夜。出歩くのは危険すぎる。


「誰、が……うあ、ああぁぁああ! 痛い、何、なん、で」

「咲耶、大丈夫よ。私達がついているから」

「今は自分のことだけを考えろ」


 水で濡らした布が首の後ろにあてられる。ひんやりとしていることだけはわかるが、それが痛みを和らげているかはわからない。とにかく痛い、痛いのだ。

 誰も出てこないからか、戸を叩く音は一向に止まない。恭一郎は舌打ちをし、香世子に咲耶を任せて玄関へと向かった。

 ──話し声が聞こえてくるが、痛みが邪魔をして何を話しているかはわからない。叫び声で迷惑をかけてしまったのなら、明日必ず謝罪に行く。だからもう、帰ってほしい。

 今はそれどころではないのだ。首の後ろが痛くて痛くて堪らない。今だって叫びだしたいくらいだ。

 涙を滲ませながら耐えていると、一人の青年が部屋へ入ってきた。


(どうして、この方がここに)


 彼は苦しむ咲耶の姿を見て、その目を大きく開いた。


「……夢では、なかった」


 神楽殿で出会った、紫色の瞳が印象的な青年。

 帝──八十神紫貴は、そう呟いた。

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