第一章

巫と太陽と紫色の瞳の青年

 時は大正。

 日本と西洋の文化が入り交じり、都市は著しく発展。経済も拡大し、華やかな時代を迎えた──はずだった。

 人々の表情は暗く、太陽もまた厚い雲に覆われてその姿を見せることはほとんどない。夜になれば、魑魅魍魎に怯えながら朝を待つ。だが、何事もなく朝を迎えられたところで、人々の憂いが晴れることはない。

 魑魅魍魎が、日本から消えないかぎり。これが、今の日本の姿だ。

 ただ、今朝はそんな人々の顔が少しだけ明るい。それもそのはず。今日は待ちに待った、かんなぎが太陽を司る天照大神へ神楽を捧げる日。太陽の姿が見られる、貴重な日だ。

 家の前を箒で掃いていた藤村ふじむら咲耶さくやはその手を止め、灰色の雲が広がる空を見上げた。

 咲耶が生まれる以前から、巫覡ふげきの者である神森かみもり家や巫が神楽を捧げなければ見られない太陽。今日その姿が見られると、人々の胸が躍るのもわかる。

 でも、と視線を落とし、箒を掴む手の力を強めた。

 物心がついたときから一度も、咲耶は神楽を見たことがない。そして、今回も神楽を見ることは叶わないだろう。

 神楽を捧げる日は、誰もが神森家の神楽殿かぐらでんに集まる。帝や八十神やそがみ家の者もそこへ集まるほど。それだけ、日本にとって大切な日だということが窺える。

 けれど、両親──特に父親である恭一郎が行くことを許さない。母親の香世子も「恭一郎さんがそう言っているから」とやんわりと制する。両親は神楽殿へ行くのに、咲耶が行ってはならない理由は何か。問い質しても「駄目だ」の一点張りで何もわからない。


(……だけど、今日は見に行っておいたほうがいいような、そんな気がする)


 ただの勘。されど、幼い頃からこの勘が何故か当たる。

 その仕組みはよくわかっていないが、ふと脳裏に浮かぶのだ。傘を持って出かけたほうがいいといった日常的なものから、その道を通ると危ないと危険を察知するものまで。両親も咲耶の勘については知っており、必ず当たることから信じてくれている。

 話してみるしかない、と思っていると、香世子が家から出てきた。言うなら、今。


「咲耶、掃除ありがとうね。助かるわ」

「あの、お母様……わたし、今日は神楽殿へ行った方がいいような気がしています」

「……それは、例の勘ね?」


 小さく頷くと、香世子はいつものように制することなく「恭一郎さんにも話してみましょう」と家の中へ入るよう促した。

 箒を仕舞い、香世子に続いて中へ入る。家の中は香世子が掃除を済ませており、隅々まで綺麗になっていた。花瓶に生けていた花も替わっていて、また違う明るさがある。本当に几帳面でまめな人だ。いつか自分も母のようになれたら、そんなことを思いながら居間の前まで来た。

 恭一郎さん、と香世子が名を呼びながら居間へ続く戸を開ける。そこには、縁側に腰掛けて本を読む恭一郎がいた。香世子の声に、恭一郎は静かにこちらを振り向く。


「ああ、もう神楽殿へ行く時間か」

「それもそうなんですけどね。咲耶の例の勘のことでお話が」


 その言葉に僅かだが反応を示す恭一郎。香世子の後ろに立っていた咲耶へ視線を向けられ、緊張から心臓がきゅっと締め付けられる。


「どうした?」

「か……神楽殿へ行った方がいいと、そんな気がしていて」


 重たい空気が流れるも、それはすぐに破られた。


「……そうか、わかった」


 支度をしろ、と恭一郎は立ち上がり、本を机の上に置くと咲耶と香世子の隣を通って居間を出て行った。

 恭一郎も香世子も信じてくれている咲耶の勘。とはいえ、これまで何度頼んでも連れて行ってもらえなかったこともあり、今回も駄目かと思っていた。が、すんなりとあのような返事をもらえるとは。

 驚きから固まっていると、香世子が咲耶の左肩を叩いた。視線を向けると、にこりと微笑まれる。


「行ってもいいそうだから、支度をしましょう。ああ、そうだわ。咲耶に新しいショールを買ったの。せっかくだし、巻いていきましょう」

「あ、ありがとうございます、お母様」


 香世子が出してきたのは、桜のような淡い桃色をしたショール。手触りもよく、気持ちがいい。

 咲耶は首に巻いていた薄紫色のショールを取った。見たことはないが、両親が言うには首の後ろに大きな痣があるそうだ。目立つため、幼い頃からこうして首に布を巻いて隠している。髪を肩の少し下あたりまで伸ばし結ばずにいるのも、このような理由からだ。

 新しいショールはありがたいし、嬉しい。このショールに似合う服を、と浅葱色の着物と深紫色の袴に着替え、茶色のブーツを用意した。女学校を卒業したばかりの咲耶は、今も和洋折衷の装いを好んで身に着けている。いつかはスカートなどの洋服にも挑戦してみたいところだ。

 もらったばかりのショールを巻き、痣が見えていないことを香世子に確認してもらう。


「では行くか」


 帽子を被った恭一郎が声をかけてきた。三人で家を出て、神森家の神楽殿へと向かう。こうして家族揃って出かけることはあるものの、初めて行く神楽殿。初めて見る神楽。咲耶の胸は、高鳴っていた。



 * * *



 神森家の神楽殿には、大勢の人が集まっていた。ここからでは神楽が見えるかどうか怪しい。

 人々の間を縫って、どうにか前に行けないものか。咲耶は一歩踏み出すも、右腕を掴まれて阻まれてしまう。

 振り向くと、掴んでいたのは恭一郎だった。


「それ以上前に行く必要はない」

「でも、初めて見るので、見えるところにいたくて」

「……気持ちはわかるが、俺からは」


 恭一郎の手が離れる。必死の形相でこちらへ手を伸ばしながら何かを言っているが、咲耶の耳には届かない。

 後ろからやってきた一家に押され、人混みに呑まれてしまったためだ。

 両親の元へ戻ろうとするも、少しでも近くで見たい者達の波には逆らえず。気が付けば、神楽殿の近くまでやってきていた。

 父は、恭一郎は、何を言っていたのだろう。あのようなわがままを言うべきではなかったと、胸元で両手を握り締めたとき──シャン、と鈴の音が鳴った。

 続いて、太鼓の音。騒然としていた辺りは静まりかえり、神楽殿を見ている。咲耶もそちらへ視線を向けると、笛の音ともに白衣はくえ緋袴ひばかま千早ちはや、白足袋の装いに身を包んだ女性が姿を現した。

 後ろ髪は首の後ろの紋様が見えるよう切り揃えられ、横の髪はそれよりも少し長く、毛先より少し上の部分で結ばれている。

 これまで、見たことはない。顔の上半分も、赤で目などを縁取られた白の面で隠されている。

 それでも、纏う空気でわかった。


(あの方が……巫様)


 神楽鈴かぐらすずを持ち、シャン、と音を鳴らしながら舞い始める。

 静かに、されど、優雅に。

 なんて美しいのだろうと思った。何より、くるりと回るたびに目に入る紋様。その形までははっきりとは見えないが、神秘的なものを感じる。 

 連れてきてもらえてよかった、見ることができてよかった。咲耶はそう思っていたが、周りでは訝しむ声が聞こえ始めた。


「いつになったら太陽は顔を出すんだ?」


 確かに、太陽は今も厚い雲に覆われていて、その姿を一向に見せない。神楽を舞い続ける巫も、疲れは見せないものの汗が滲み始めている。

 咲耶は胸元で握り締めたままだった両手に僅かに力を込め、目を瞑った。


(……天照大神様。どうか、そのお姿を)


 太陽を司る天照大神に神楽を捧げ続ける巫。一目太陽を見ようと集まった人々。この場にいる誰もが、その姿を見たいと願っている。

 咲耶の祈りでどうにかなるわけではない。わかってはいるが、祈りを捧げる。

 そのときだった。チリ、と首の後ろに微かな熱が走った。

 まるで、祈りに呼応したかのように。

 驚きから目を開け、首の後ろに触れようとしたとき。人々から歓声が上がった。空を見上げると、雲に割れ目ができ、そこから太陽が姿を見せている。

 巫はそこで神楽を止め、姿勢を正すと太陽に向けて深く頭を下げた。帝と八十神家の者達も奥から姿を現し、同じように頭を下げる。全員が濃紺の色をした詰襟制服を身につけているが、八十神家の礼服のようなものだろうか。


(帝や八十神家の方々を直接見るのも初めて。今日は初めて尽くしだわ)


 恭一郎が読んでいる新聞で見かけるくらいだ。今日は初めてのことばかりだと、口元を綻ばせつつ咲耶も太陽に向けて頭を下げる。

 少しして顔を上げたとき、誰かに見られているような、そんな気がした。心配した両親だろうかと辺りを見渡したとき、神楽殿で立っていた一人の青年と目が合った。

 紫がかった艶のある黒髪、透き通るように白い肌。眉目秀麗という言葉がよく似合う。何よりも、日本では見ることがない紫色の瞳が印象的だ。

 そういえば、と咲耶はある話を思い出した。

 、という話だ。あの青年の瞳は紫色。新聞で見たことがあるとはいえ、写真が掲載されていても白黒で鮮明さに欠ける。つまり、彼が──。


「咲耶!」


 後ろから大声で名を呼ばれ、びくりと肩を震わせて振り向くと、そこには焦りを滲ませた恭一郎がいた。ちらりと神楽殿を見ると、咲耶の右腕を掴んで走り出す。


「お父様!?」

「……っ、今日の咲耶の勘は、まさか」

「お父様、どうされたのですか?」

「運命には、抗えないのか」


 恭一郎は咲耶の問いに答えず、独り言のようにそう呟いた。

 その言葉が胸の奥に僅かに引っかかるも、恭一郎の額に滲む見たことのない汗に咲耶は口を閉ざす。

 途中で香世子とも合流し、三人は急ぎ足でこの場を去った。

 その後ろ姿を、紫色の瞳をした青年が見ていたことに気付かずに。

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