第一章
巫と太陽と紫色の瞳の青年
時は大正。
日本と西洋の文化が入り交じり、都市は著しく発展。経済も拡大し、華やかな時代を迎えた──はずだった。
人々の表情は暗く、太陽もまた厚い雲に覆われてその姿を見せることはほとんどない。夜になれば、魑魅魍魎に怯えながら朝を待つ。だが、何事もなく朝を迎えられたところで、人々の憂いが晴れることはない。
魑魅魍魎が、日本から消えないかぎり。これが、今の日本の姿だ。
ただ、今朝はそんな人々の顔が少しだけ明るい。それもそのはず。今日は待ちに待った、
家の前を箒で掃いていた
咲耶が生まれる以前から、
でも、と視線を落とし、箒を掴む手の力を強めた。
物心がついたときから一度も、咲耶は神楽を見たことがない。そして、今回も神楽を見ることは叶わないだろう。
神楽を捧げる日は、誰もが神森家の
けれど、両親──特に父親である恭一郎が行くことを許さない。母親の香世子も「恭一郎さんがそう言っているから」とやんわりと制する。両親は神楽殿へ行くのに、咲耶が行ってはならない理由は何か。問い質しても「駄目だ」の一点張りで何もわからない。
(……だけど、今日は見に行っておいたほうがいいような、そんな気がする)
ただの勘。されど、幼い頃からこの勘が何故か当たる。
その仕組みはよくわかっていないが、ふと脳裏に浮かぶのだ。傘を持って出かけたほうがいいといった日常的なものから、その道を通ると危ないと危険を察知するものまで。両親も咲耶の勘については知っており、必ず当たることから信じてくれている。
話してみるしかない、と思っていると、香世子が家から出てきた。言うなら、今。
「咲耶、掃除ありがとうね。助かるわ」
「あの、お母様……わたし、今日は神楽殿へ行った方がいいような気がしています」
「……それは、例の勘ね?」
小さく頷くと、香世子はいつものように制することなく「恭一郎さんにも話してみましょう」と家の中へ入るよう促した。
箒を仕舞い、香世子に続いて中へ入る。家の中は香世子が掃除を済ませており、隅々まで綺麗になっていた。花瓶に生けていた花も替わっていて、また違う明るさがある。本当に几帳面でまめな人だ。いつか自分も母のようになれたら、そんなことを思いながら居間の前まで来た。
恭一郎さん、と香世子が名を呼びながら居間へ続く戸を開ける。そこには、縁側に腰掛けて本を読む恭一郎がいた。香世子の声に、恭一郎は静かにこちらを振り向く。
「ああ、もう神楽殿へ行く時間か」
「それもそうなんですけどね。咲耶の例の勘のことでお話が」
その言葉に僅かだが反応を示す恭一郎。香世子の後ろに立っていた咲耶へ視線を向けられ、緊張から心臓がきゅっと締め付けられる。
「どうした?」
「か……神楽殿へ行った方がいいと、そんな気がしていて」
重たい空気が流れるも、それはすぐに破られた。
「……そうか、わかった」
支度をしろ、と恭一郎は立ち上がり、本を机の上に置くと咲耶と香世子の隣を通って居間を出て行った。
恭一郎も香世子も信じてくれている咲耶の勘。とはいえ、これまで何度頼んでも連れて行ってもらえなかったこともあり、今回も駄目かと思っていた。が、すんなりとあのような返事をもらえるとは。
驚きから固まっていると、香世子が咲耶の左肩を叩いた。視線を向けると、にこりと微笑まれる。
「行ってもいいそうだから、支度をしましょう。ああ、そうだわ。咲耶に新しいショールを買ったの。せっかくだし、巻いていきましょう」
「あ、ありがとうございます、お母様」
香世子が出してきたのは、桜のような淡い桃色をしたショール。手触りもよく、気持ちがいい。
咲耶は首に巻いていた薄紫色のショールを取った。見たことはないが、両親が言うには首の後ろに大きな痣があるそうだ。目立つため、幼い頃からこうして首に布を巻いて隠している。髪を肩の少し下あたりまで伸ばし結ばずにいるのも、このような理由からだ。
新しいショールはありがたいし、嬉しい。このショールに似合う服を、と浅葱色の着物と深紫色の袴に着替え、茶色のブーツを用意した。女学校を卒業したばかりの咲耶は、今も和洋折衷の装いを好んで身に着けている。いつかはスカートなどの洋服にも挑戦してみたいところだ。
もらったばかりのショールを巻き、痣が見えていないことを香世子に確認してもらう。
「では行くか」
帽子を被った恭一郎が声をかけてきた。三人で家を出て、神森家の神楽殿へと向かう。こうして家族揃って出かけることはあるものの、初めて行く神楽殿。初めて見る神楽。咲耶の胸は、高鳴っていた。
* * *
神森家の神楽殿には、大勢の人が集まっていた。ここからでは神楽が見えるかどうか怪しい。
人々の間を縫って、どうにか前に行けないものか。咲耶は一歩踏み出すも、右腕を掴まれて阻まれてしまう。
振り向くと、掴んでいたのは恭一郎だった。
「それ以上前に行く必要はない」
「でも、初めて見るので、見えるところにいたくて」
「……気持ちはわかるが、俺からは」
恭一郎の手が離れる。必死の形相でこちらへ手を伸ばしながら何かを言っているが、咲耶の耳には届かない。
後ろからやってきた一家に押され、人混みに呑まれてしまったためだ。
両親の元へ戻ろうとするも、少しでも近くで見たい者達の波には逆らえず。気が付けば、神楽殿の近くまでやってきていた。
父は、恭一郎は、何を言っていたのだろう。あのようなわがままを言うべきではなかったと、胸元で両手を握り締めたとき──シャン、と鈴の音が鳴った。
続いて、太鼓の音。騒然としていた辺りは静まりかえり、神楽殿を見ている。咲耶もそちらへ視線を向けると、笛の音ともに
後ろ髪は首の後ろの紋様が見えるよう切り揃えられ、横の髪はそれよりも少し長く、毛先より少し上の部分で結ばれている。
これまで、見たことはない。顔の上半分も、赤で目などを縁取られた白の面で隠されている。
それでも、纏う空気でわかった。
(あの方が……巫様)
静かに、されど、優雅に。
なんて美しいのだろうと思った。何より、くるりと回るたびに目に入る紋様。その形までははっきりとは見えないが、神秘的なものを感じる。
連れてきてもらえてよかった、見ることができてよかった。咲耶はそう思っていたが、周りでは訝しむ声が聞こえ始めた。
「いつになったら太陽は顔を出すんだ?」
確かに、太陽は今も厚い雲に覆われていて、その姿を一向に見せない。神楽を舞い続ける巫も、疲れは見せないものの汗が滲み始めている。
咲耶は胸元で握り締めたままだった両手に僅かに力を込め、目を瞑った。
(……天照大神様。どうか、そのお姿を)
太陽を司る天照大神に神楽を捧げ続ける巫。一目太陽を見ようと集まった人々。この場にいる誰もが、その姿を見たいと願っている。
咲耶の祈りでどうにかなるわけではない。わかってはいるが、祈りを捧げる。
そのときだった。チリ、と首の後ろに微かな熱が走った。
まるで、祈りに呼応したかのように。
驚きから目を開け、首の後ろに触れようとしたとき。人々から歓声が上がった。空を見上げると、雲に割れ目ができ、そこから太陽が姿を見せている。
巫はそこで神楽を止め、姿勢を正すと太陽に向けて深く頭を下げた。帝と八十神家の者達も奥から姿を現し、同じように頭を下げる。全員が濃紺の色をした詰襟制服を身につけているが、八十神家の礼服のようなものだろうか。
(帝や八十神家の方々を直接見るのも初めて。今日は初めて尽くしだわ)
恭一郎が読んでいる新聞で見かけるくらいだ。今日は初めてのことばかりだと、口元を綻ばせつつ咲耶も太陽に向けて頭を下げる。
少しして顔を上げたとき、誰かに見られているような、そんな気がした。心配した両親だろうかと辺りを見渡したとき、神楽殿で立っていた一人の青年と目が合った。
紫がかった艶のある黒髪、透き通るように白い肌。眉目秀麗という言葉がよく似合う。何よりも、日本では見ることがない紫色の瞳が印象的だ。
そういえば、と咲耶はある話を思い出した。
帝は色を持って生まれてくる、という話だ。あの青年の瞳は紫色。新聞で見たことがあるとはいえ、写真が掲載されていても白黒で鮮明さに欠ける。つまり、彼が──。
「咲耶!」
後ろから大声で名を呼ばれ、びくりと肩を震わせて振り向くと、そこには焦りを滲ませた恭一郎がいた。ちらりと神楽殿を見ると、咲耶の右腕を掴んで走り出す。
「お父様!?」
「……っ、今日の咲耶の勘は、まさか」
「お父様、どうされたのですか?」
「運命には、抗えないのか」
恭一郎は咲耶の問いに答えず、独り言のようにそう呟いた。
その言葉が胸の奥に僅かに引っかかるも、恭一郎の額に滲む見たことのない汗に咲耶は口を閉ざす。
途中で香世子とも合流し、三人は急ぎ足でこの場を去った。
その後ろ姿を、紫色の瞳をした青年が見ていたことに気付かずに。
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