託された赤子
──午前二時。帝都にて。
いつもなら重く暗い雲が空を埋め尽くしているのだが、その日は満月がとても綺麗に見えていた。
雲一つない空に浮かび、闇夜を照らす。その姿は神々しく、そこかしこにいる魑魅魍魎も現れないほど。
出番がないかもしれない。帝都の守護に当たっていた者達は、そんな軽口を叩いていた。守護隊長である藤村恭一郎も、今日はその軽口を注意せず笑みを溢す。
そう、それだけ珍しく、静かに夜が更けていく──はずだった。
「何者か!」
静寂を破り、恭一郎の耳に届いたのはたどたどしい足音。辺りに緊張が走り、守護に当たっていた者達は腰に差している剣に触れる。魑魅魍魎かと警戒していると、しばらくして長い黒髪の女性の姿が見えた。
今日は月が綺麗に見えるとは言え、魑魅魍魎が出るかもしれない闇夜。灯り一つ持たず、白い布に包まれた何かを大切に抱いている。長い髪でその顔は見えず、この場にいた誰もが「ついに帝都で亡者が現れた」と青ざめた。
「藤村恭一郎様は、いらっしゃいますか?」
聞こえてきたのは、鈴を転がすような声。けれど、その声は微かに震えていて、助けを求めているようにも思えた。
この女性は、魑魅魍魎でも亡者でもない。そう判断し、恭一郎は剣に触れていた手を下ろすと一歩前へと踏み出す。
「藤村恭一郎は私だ」
「ああ、よかった。お会い、できた」
安心したのか、力が抜けたかのように女性は膝から崩れ落ちてしまった。
恭一郎が駆け寄りその身体を支えるも、鼻につく鉄のにおいに眉を潜める。まさかと地面に視線を落とすと、赤く染まり始めていた。
それは、女性から流れ出た血。今もどこからか出血しているようで、じわじわと地面に拡がっている。
何が魑魅魍魎か。亡者か。あのたどたどしい足音は、怪我をしていたためだった。恭一郎は奥歯を噛み締めると、後ろで様子を窺っていた部下達の方を振り向く。
「怪我をしている! 誰か医者を」
「お待ち、ください」
息も絶え絶えに、女性が恭一郎を制す。このような状態で何故止めるのかと女性を見るも、それは言葉にすることができなかった。
腕の中にいる女性の顔に、驚きを隠せなかったのだ。
「……楓様?」
「はい、神森楓です。本当に、貴方に会えてよかった」
楓はほっとした様子で顔を綻ばせ、目には涙を浮かべた。
神森楓。神々に仕える
それなのに、どうして外に。しかも、このような闇夜の中を。
混乱する恭一郎をよそに、楓は震える手で白い布に包まれている何かを強く抱きしめて顔を埋める。
「恭一郎様、このような勝手をお許しください。ですが、私は……この子も大事なのです」
「楓様、何を」
「この子を、貴方の子として育ててほしいのです」
顔を上げた楓だが、先程までの笑顔はなく、悔しさと悲しさを滲ませていた。
訳がわからないまま、恭一郎は白い布に包まれている何かに触れる。その隙間から見えたのは、生まれたばかりの赤子の顔。
ひゅ、と喉が鳴った。
先程の言葉は、嘘偽りのないものだとはわかる。涙を滲ませる目も真剣そのもの。とはいえ、承諾しかねる。
そもそも、神森家の当主である神森
その紋様は、神を依り憑かせることができる
これから二人で育てていくはずの子。成長すれば、帝と
産後ということもあり、おかしくなっているのかもしれない。恭一郎は諭すように楓へ話しかける。
「楓様、こちらのお方はお世継ぎであり、巫様でしょう」
「この子は間引くようにと、言われたのです」
その言葉に、息を呑んだ。
間引く。この赤子を殺すということ。
忌避意識から残り続ける古くからの風習だ。つまり、生まれてきた女児は──。
「私には、できなかった。忌み子と呼ばれようと、この子も私の娘。大事な、大事な娘なのです」
「……何故、私に」
「帝や八十神家の方々は、このことをご存知ありません。それに、助けを求めたところで……ですから、帝都の守護隊長である貴方しか頼れなかった」
強くて、聡い貴方に。そう言って、楓は震える手で白い布に包まれた赤子を恭一郎に差し出した。
「お願いします。どうか、どうかこの子を育ててください。護って、ください」
自分で育てたかったであろう、護りたかったであろう子を差し出す姿に、胸が締め付けられる。
すう、と小さく息を吸い覚悟を決めると、恭一郎は楓の手ごと赤子を抱えた。触れた手はひどく冷たく、彼女の命が尽きようとしているのがわかる。
この選択は、きっと間違っている。わかってはいるが、母親が命を賭して、危険を冒してまで助けを求めてきたのだ。見捨てることなどできない。
「ありがとう、ございます」
「……この子の名は?」
「私に名を贈る資格はありませんから」
ごめんなさい、と楓は涙腺が崩壊したかのように涙を溢れさせた。いくつもの涙が頬を伝い、ぽたり、ぽたりと落ちていく。
「このような母で、ごめんなさい」
「いいえ、貴女は母としての責務をしっかりと果たされましたよ。この子を生かしたではありませんか」
「……っ、恭一郎様、本当にありがとうございます。どうか、この子を……よろしくお願いいたします」
「ええ。貴女の分まで幸せにすると誓います」
楓の瞳から光が消え始め、ゆっくりと瞼が閉じられていく。
「願わくば、巫としてではなく、一人の女性として……幸せ、に……」
そう言い残すと、身体から力が抜け、赤子を抱いていた手はするりと落ちた。赤子を落とさないようにと抱え直し、楓の身体をそっと地面に寝かせる。
今、恭一郎の心臓は早鐘を打っていた。
震える手で赤子を包んでいる白い布をめくり、首の後ろを見る。ちょうど中央あたりに円があり、その円の下、左上、右上にそれぞれ葉のような紋様があった。
なんて大変なことを引き受けてしまったのだろう。今更ながら、恭一郎は頭を抱えたくなった。
楓から託された子は、忌み子でありながら巫だったのだ。
とはいえ、もう後には引けない。楓の忘れ形見を育てると決めたのは恭一郎自身。彼女の望みどおり、巫ではなく、一人の女性として育てなければ。
──その後、恭一郎は部下達に「埋葬する」と赤子を草むらに隠し、楓の亡骸を抱くと神森家へ虚偽の報告をした。亡くなったのは楓と赤子。楓の望みで、赤子はすでに埋葬した、と。
「間引くのは忌み子だけでよかったというのに……楓よ、何故お前までもが」
春水は、出産直後の楓に赤子を間引くよう言い、外へ放り出していた。
それでよくも楓の死を嘆くことができるものだと恭一郎は思った。無理をさせていたのは、春水自身だと言うのに。赤子については、忌み子だからか、埋葬済みだということに感謝をしていた。
憤りを覚えながら草むらまで戻ってきた恭一郎は、すやすやと眠る赤子を抱きしめる。
古くから続く風習とはいえ、死を父親に喜ばれる可哀想な赤子。楓に代わり、必ず幸せにすると心の中で誓った。
後日、恭一郎は部下達に惜しまれながら守護隊長を辞任。香世子とともに、楓の子を自分達の娘として育てるため。何をおいても、護るために。
そして──あの日から十八年後。
楓から託された子は二人から愛情を惜しみなく注がれ、見目麗しい立派な一人の女性として育っていた。
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