昨日

西堂こう

第1話

 僕は昨日が好きだ。


 たとえどんなにひどい一日でも、昨日になれば「死ななかった日」になる。死ぬかもしれない今日と明日は、嫌いだ。


 なぜ急にそんなことを自分に言い聞かせたかというと、「希望に満ちた明日」という言葉を、今読んでいるこの本の作者は使っていたからだ。きっと、僕みたいな人を配慮してないんだろうな。


 僕はその本を閉じ、体育座りをした。


 僕は死ぬのが怖い。死ぬまでの痛くて苦しい時間はもちろん嫌だ。だが僕が最も恐れていることは、大事に守ってきた唯一の思い出をなくしてしまうことだ。僕はその思い出のおかげでたくさんの時間を乗り越えてきた。その思い出を失ったら、僕は死後の世界で生きていけない。


 僕の思い出は、恋人と青白く光るホタルイカの身投げを見たことだけだ。それ以外の記憶は、モブキャラのようにぼんやりと浮いている。恋人と過ごした日々が思い出になっていない理由は、彼女は僕以外に恋人がいたからだ。そのことは彼女と付き合う前から知っている。だからこそ、彼女が僕の前でそのホタルイカのように自殺したあの日は、思い出として残ってる。きっと、その時までずっと隠れていた彼女への憎しみが、一気に晴れたからだろう。


 僕の思い出の定義は、普通の人と比べて違うかもしれない。ただ、美しい記憶だけでは思い出ではない。また、汚い記憶だけでも思い出ではない。美しくて汚い記憶こそが、僕の思い出である。


 そういえば、彼女の僕ではない彼氏は今頃どうしているのだろうか。実は一度だけ、彼女が亡くなる三日前に、彼と会ったことがある。その頃はまだ僕と彼は大学生であった。僕は理系なので大学の研究で忙しかったが、なんとか頑張って放課後の夜、僕の思いを伝えた。しかし彼は僕のことなんか相手にしてくれなかった。悲しかったが、諦めた。


 さっきまで他の部屋にいた一人の友人が、体育座りをしながら頭の中で自分を振り返っている僕の部屋の近くに来た。彼は僕より三歳年上だ。


「座っているだけで楽しいのか?今野。」


「一番楽しいです。」


「そうか。」


 彼の名前は早川裕大。最近は彼としか話していない気がする。怖そうな見た目だけど、同じ建物で暮らしていたこともあって、僕は彼が優しい人だということを知っている。


「今野は、いつも悲しそうな顔をしているな。」


「今日と明日が怖いからです。」


 早川さんは驚いた顔をした。


「なぜ怖い?」


「死にたくないからです。」


 早川さんは黙った。その後、彼は深呼吸をした。


「そうか。明日が怖いのはよくわかる。だが、今日が怖いとは思わない。もし明日死ぬとして、今日の自分が頑張って生きていたら、それが思い出となり、自分を支えてくれるだろうと私は思う。」


「早川さんにとって、何が思い出になるのですか?」


「私は、初めて体験したことは全て思い出になると考えている。それらの思い出は、私たちが心の中で助けを求めたときに助けてくれる。頑張って生きた思い出は、生きる勇気を与えてくれるはずだ。」


 早川さんの言葉を聞いて、あることに気づいた。僕は常に憂鬱な気持ちでいたから、憂鬱な思い出しか頭になかったことを。

「しかし、思い出は助けを求められないまま長い時間が経ってしまうと、私たちのことを助けてくれなくなってしまう。多分、思い出自身も自分の必要性がわからなくなってしまうからだろう。だからこそ、私たちは思い出を作り続けなければならない。思い出を作れるのは、今日だけだ。」


 僕は心を打たれた。唯一だと思っていたあの思い出も、本当は僕のことを助けようとしてくれていたんだ。思い出は、過去を振り返るためのものではない。未来に向かって進むためのものなんだ。


「早川さん、僕は明日のために今日を生きます。」


 早川さんは声を殺して泣いた。


 僕は驚いた。僕が少し成長しただけで泣くなんて、彼は優しすぎる人だ。


 早川さんが去ってから僕は、途中まで読んだあの本を読むことにした。僕はその本に書かれている「希望に満ちた明日」という表現が嫌いだったが、今はちがう。明日は希望で満ちていると確信している。僕はだいたい半分まで読んだところで就寝時間となり、布団に入った。


 僕は今日読んだ本から、死ぬことは怖くないということを学んだ。その本によると、死んだ後でも記憶や思い出は残ったままであるらしい。つまり、僕が死に対して最も恐れていたあの思い出を失ってしまうということはただの杞憂であったのだ。明日は、早川さんにそのことを教えてあげよう。もしかしたら早川さんも死ぬのが怖くなくなるかもしれない。僕は眠った。



 そのような感じで「昨日の自分の思い出」を走馬灯のように振り返っていた死刑囚の僕は今、目が見えない状態で首にロープを掛けられている。しかし、昨日の思い出のおかげで、僕は落ち着いている。きっと、昨日の僕の思い出が助けてくれているからだろう。今日の僕は死ぬ直前まで生きる希望を持ち続けられる自信がある。刑務官の早川さんは今、何をしているのかな。


 そんな僕に唯一の心残りがあるとすれば、昨日を振り返っているときに一文字だけ、思い出す勇気が出なくて他の文字に置き換えたことだ。なぜならその文字は、僕をこんな状態にさせた原因だからだ。でも、その放火によって彼を殺してしまったということに、そろそろ向き合わなければならないとたった今、少し、感じた。


 苦しい。

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昨日 西堂こう @nishido

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