剣友の絆と塩むすび

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剣友の絆と塩むすび

 静寂な道場には、ひんやりとした空気が漂っていた。

 板張りの床はきれいに磨き上げられており、天井から照明を反射して鏡のように輝いている。木製の柱や梁を淡い黄金色に染め、全体を包み込むような静けさが広がっていた。どこか凛とした雰囲気が漂い、外の世界の音がまるで別の世界のもののように感じられるほど、静かな空間が広がっている。

 そこに一人の少女が居た。

 年齢は15、6歳といったところか。

 装飾も邪心もない心を宿した瞳。

 セミロングに切り揃えられた黒髪。

 髪を留める赤いリボンは未だに、少女心を表しているようでもある。

 身体は華奢だが、それでもどこか芯が入ったような印象があった。

 名前を紅羽くれは瑠奈るなという。

 彼女は、白の道着と白袴に身を包み、腰に居合刀を差していた。その佇まいからは、彼女の武道に対する真摯さが見て取れるようだった。その姿は凜々しくもありながら可憐でもあった。

 瑠奈の目は一点を見据え、心は澄み切った湖面のように落ち着いていた。

 ゆっくりと深く息を吸い込み、瑠奈は体の中心にある力を感じ取る。

 次の瞬間、彼女は静かに鞘に納められた刀に手をかけた。その動きには、無駄な力が一切感じられない。まるで刀と一体化しているかのように、彼女の手が滑るように柄に触れる。

 瑠奈の身体は弓の様なしなりを秘め、鋭い動きで刀を抜き放った。

 彼女の刀が空を切り裂き、その軌跡は見事な曲線を描いていた。

 空を裂く鋭い音が道場に響く。

 瑠奈の動きは無駄なく、一瞬の迷いも感じられない。切先が光を反射し、その冷たい輝きが彼女の目に映る。

 木の床が彼女の足音を吸い込み、踏み締めた足が軋む音さえも聞こえない。

 薄明かりの中で、彼女の動きはまるで一筆書きのように滑らかで、自然と流れるような所作が印象的だった。

 瑠奈の動きは一連の流れの中で淀みなく続いていく。彼女は刀を振り下ろし、まるで見えない敵を正確に切り裂くかのようだった。彼女の剣は、研ぎ澄まされた精神と肉体の結晶であり、そのすべてが型の中に凝縮されている。

 切先が止まった瞬間、道場の空気は一瞬で静寂に戻った。

 瑠奈は軽く息をつきながら、刀を丁寧に鞘に納めた。その動作は、まるで全てが計算されたかのように正確で、緩やかな余韻を残す。

 刀を鞘に収めた後、瑠奈の額には一筋の汗が流れる。

 それは、彼女の緊張と疲労感を映し出していた。身体が重く、肩にかかる疲労がずっしりとのしかかっているようだ。

 瑠奈は肩で息をする。体の中に残るのは、空虚な疲労感だ。

「これじゃダメだ……」

 瑠奈は呟き、拳を握りしめた。

 何かが足りない。彼女の準備には、何か大事なものが欠けていたのだ。

 その答えが、まだ見つからなかった。


 ◆


 大型ショッピングセンターのフードコーナーは、賑やかで活気に満ちていた。

 広々としたスペースには、色とりどりの看板やポスターが所狭しと並び、さまざまな料理の香りが混ざり合って空気を満たしている。人々が行き交う音や、料理を注文する声が絶え間なく聞こえ、テーブルには家族連れや学生などの姿が多く見られた。

 そんな賑やかな光景の中、ブレザー姿の瑠奈がテーブルにもたれかかるように突っ伏していた。

 傍らには居合刀ケースを立てかけている。

 二人掛けのテーブルに置かれたトレーの上には、アイスコーヒーの入ったグラスが置かれていた。

 氷が溶けて、カランと音を立てた。

 瑠奈は、自分で組んだ腕を枕に、ぼんやりとした顔を横に向けていた。その表情には疲れの色が見える。

 すると瑠奈の前に、無遠慮に座る者が居た。

 襟元のボタンを外した学ラン姿の少年だ。

 乱した制服はだらし無さは無く、着崩しているラフさが逆に洒落て見えた。

 高校生くらいであろか。

 長めの前髪を額にかけ、そこにしっかりとした面立ちがあった。

 だが、武骨ではない。

 顔は親から譲り受けたものだが、環境でその面立ちは変わる。

 恵まれた環境ならば、穏やかなものに。

 荒んだ環境ならば、厳しいものに。

 少年の場合は親から譲り受けたもの以上に、環境でできあがった面立ちが感じられた。ガラスのような透明で冷ややかで、浸食を受けつけない不変さを持つ。そんな面立ちだった。

 発育の良い今日日の子供は、中学生くらいでも大人と似た体格から、年齢を見誤ることもあるが、長い年月から見れば人間の2、3年の歳の違いなど取るに足らないことであった。

 だが、少年の長い前髪の奥に存在している眼に宿るものが、切った張ったの世界で生きる者さえも戦慄を憶えるものがあるとしたら、話しは別だ。未成年という青い存在としては片付けられない。

「どうした? 瑠奈」

 少年は素っ気なく言った。

 彼の傍らには、黒く長い包がある。

 細長い様さまは釣り竿のような棒状のものを連想させたが、軽いものではなく、ずっしりとした重さを感じさせた。

 すると瑠奈は、今までだらしない姿を人目にさらしても気に留めた様子も見せなかったが、少年が来たことに驚いたのか顔を上げた。

 そして慌てて姿勢を整え、背筋を伸ばす。心の中では自分の乱れた姿を隠そうとする焦りが駆け巡り、視線が少年の顔を避けて、何度も深呼吸する。

「は、隼人はやと。何よ、着くなら着くって連絡してよね!」

 そう言って瑠奈は、耳にかかった乱れた髪を手櫛で整える。その頬は微かに紅潮しており、内心の動揺を隠しきれていないようだった。

 その笑顔は少しぎこちなく、心からのものではないことが、隠れた気持ちを物語っていた。瑠奈の心の奥底では密かな想いが渦巻いていたが、それを隠すために彼女は平静を装うしかなかった。

 少年――いみな隼人は眉を少しだけひそめた。

 彼は瑠奈の友人であり、剣友だ。

 その為、二人の距離感は近いが、お互いを異性として意識することは少ない。むしろ兄妹に近い感覚であった。

 瑠奈にとっては、気を許せる数少ない友人の一人であり、また彼にとっても同じようであった。

「そんなに驚くとは思わなかった。何か悩み事があるのか?」

 彼の言葉は、心に刺さるような冷たさを持ちながらも、どこか気にかけているようなニュアンスも含まれていた。瑠奈の目には、その言葉の裏に隠された優しさを感じ取り、ますます心の中での動揺が強まった。

「……うん、ちょっとね。私、居合道の対抗試合があるんだけど……。スランプなのかなぁ……」

 そう言うと、瑠奈は居合刀ケースに目を向けた。

 その視線を追うように、隼人の視線も刀に注がれる。

 すると隼人は瑠奈に頼みをした。

「お前の居合刀を少し触らせてくれないか?」

 その言葉に瑠奈は一瞬戸惑う。

 だが、すぐに頷いて了承した。

「いいけど。人目があるわよ」

 瑠奈は自分の居合刀をケースにおけるジッパーの鍵を解除すると、隼人に渡す。

「少し柄に触れるだけだ」

 隼人は居合刀ケースのジッパーを少し開き柄を覗かせる。

 そして、柄に手を置いたまま動かなくなる。まるで居合刀の柄に心が吸い込まれてしまったかのようだ。

 刀の柄には、瑠奈の手の温もりがまだ残っているようだ。

 刀を見ていると、隼人の心にも冷たい風が吹いたような気がした。刀には持ち主である使い手の心が映ると言われている。

 つまり、この刀には今、彼女自身の不安や迷いが映っているのかも知れない。そう思えたのだ。

「なるほど。技に対し身体がついていっていない」

 隼人の言葉に、瑠奈は頷く。

 それは自分でも自覚していることだったからだ。

「……凄い。そんなことが分かるんだ」

 感心したように言う瑠奈に対し、隼人は静かに頷いた。

「まあな」

 その言葉に瑠奈は、思わず笑みを漏らす。

(こういうところは相変わらずなんだから)

 そう思いながらも、彼の観察力の高さには感心するばかりであった。

「実は、最近試合で思うように力が出せなくて。練習でも試合が進むにつれて、体が重くなって、集中力が切れちゃうの」

 瑠奈はストローでアイスコーヒーの氷をつつく。その言葉を聞いて、隼人は真剣な表情に変わった。彼は少し考え込むように視線を下に落とし、やがてゆっくりと口を開いた。

「瑠奈、稽古前や試合前って何を食べてるんだ?」

 訊かれて、瑠奈は顔を上げた。

「いつもって訳じゃないけどスポーツゼリーを飲んでるわ。おいしくて軽いし、すぐにエネルギーに変わるからいいかなって思って……」

 隼人はその言葉を聞いて、少し考え込むが、すぐに納得したように頷いた。

「シャリバテ、かもな」

 隼人の言葉を聞いて、瑠奈は意味が分からず不思議そうな顔をして首を傾げていた。


 ◆


 試合当日、瑠奈は白い道着に身を包み試合会場にいた。

 居合道の試合の形式は、剣道のように相手と戦うのではなく自ら作り出した仮想的と斬り合うのだ。

 模擬刀や真剣を用いて、全日本剣道連盟居合と各流派の形を合わせて5本演武し、6分以内に勝負を決める。審判員は、修業の深さ、礼儀、技の正確さ、心構えなどを評価して勝敗を判定する。

 抜刀から納刀に至るまでを含めた技術を一つの武道と成すのは世界的に見ても特殊である。

 会場内には緊張感がみなぎっている。

 瑠奈は自分の鼓動が激しくなるのを感じた。

 緊張しているのではない。

 武者震いというやつだ。

 朝食は、ご飯を中心に味噌汁と漬物で構成する「一汁一菜」を意識したものだ。汁飯香(和食で大切な三つの食べ物)の和食のスタイルは、単に「粗食」を意味するわけではない。必要な栄養素をしっかりと摂りながらもおいしく、たった3つのメニューに収める食事だ。

 少めの食事量だが、消化吸収を助ける食物繊維の多い野菜を多く取り入れながら、主食に炭水化物を取り入れることで血糖値を上げすぎず脳の働きを維持することができる。

 満腹状態では、食べた物の消化を促す為に胃や腸に血液を流している為に、そのタイミングで運動をすると消化不良を引き起こす原因になる。

 また、体は満腹になると食欲が満たされ副交感神経が優位になる為、体がリラックスした状態になり力が入りにくくなたり、やる気が落ちてしまったりすることもある為、ベストとは言えないのだ。

 瑠奈は、会場に入る前に外のベンチに腰掛けると、小さなランチボックスからラップに包んだ、塩むすびを取り出した。

 海苔の無い簡素な作りは、素朴だ。

 作ったのは瑠奈だ。

 塩むすびを口に運んだ瞬間、瑠奈の口の中に広がるのは、穏やかでありながらも深い味わいだった。

 ほんのりとした塩気が、ふっくらと炊き上がった米一粒一粒の甘さを引き立て、その絶妙なバランスが、自然と心を落ち着かせる。シンプルでありながらも、どこか懐かしさを感じさせる味わいに、思わず目を閉じてしまう。

 米は柔らかすぎず、適度な噛みごたえがあり、噛むたびにお米の旨味がじわりと口の中に染み渡っていく。

 塩むすびは、表面にまぶされた塩の加減が絶妙で、舌の上でじんわりと溶け、まるで海の風味を感じるかのような爽やかさが広がる。それがまた、米の甘さと一緒に口の中で踊り、シンプルな味わいの中にも豊かな深みをもたらしていた。

 瑠奈はその一口一口をゆっくりと噛みしめ、体にじんわりと力がみなぎってくる感覚を味わった。

 塩むすびは、特別な豪華さはないものの、その素朴さが逆に心を満たし、自然の恵みを噛み締めるような満足感を与えてくれる。ふわりと漂う米の香り、塩の風味が調和し、口にするたびに、心の奥にある安心感を呼び覚ますような、そんな優しさが詰まっていた。

 いつもならスポーツゼリーで済ませていた試合前の食事を、塩むすびに変えたのは隼人の言うシャリバテからの教えだ。


【シャリバテ】

 登山用語で「シャリ(飯)が足りなくてバテてしまうこと」を意味する。

 ハンガーノックとも呼ばれ、登山中に栄養を補給せずに歩き続けると、空腹感に襲われ、全身に力が入らなくなり、動けなくなってしまう。糖質が不足して低血糖状態になり、筋肉に力が入りづらくなることが原因で、身体が発信する「危険信号」とされる。


 種目を問わず、スポーツの前での食事は量をセーブすることが肝心となっている。できるだけ少なめにしつつ、途中で空腹になって力が抜けることが無いように工夫する。

 剣術の場合には、稽古や試合前には「おにぎり一個」が最適とされる。

 最近はパック入りプロテインやスポーツゼリー等があり消化吸収が良いが、米の燃費の良さは大したもので、江戸時代などの日本人は、確かに小柄で細身なのにパワーや持久力があった。

 飛脚は江戸~大坂間の約600kmを3日で走り、女性が米俵5俵(300kg)を担いだりした他、武士に至っては15kgという甲冑を身に着けて泳ぐ水術も体得していた。

 幕末、欧米からやってきた外国人は、江戸の男達の体格が、

「足は短いものの、まるで黄金時代のギリシャ彫刻のようだ」

 と驚いた。

 江戸で働く町人の男達は、厚い胸板と逞しい筋肉で、よく陽に焼けて黒光りする肌をし、立派な体をしていた。

 その活動源になったのが米で、1日5合も食べていた。

 明治政府に招かれた、ドイツの医学博士エルウィン・フォン・ベルツ(1849-1913)がいた。日本人の体は西洋人に比べ小さかったため、西洋人のような体格にしたいと考えた政府の招きで来日し、29年間滞在。

 ベルツ博士の日記によると、

『日光東照宮の観光に行くのに、110kmの道のりを、馬だと6回乗り換えて14時間かかりました。2度目は、二人の車夫で運ぶ籠に乗ったところ、交代なしで、馬より30分余分にかかっただけで東照宮に着いてしまった』

 とある。

 車夫が食べてたのは『玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵』だった。

 ベルツ博士が、ドイツ栄養学に基づき、肉食ならもっと凄いだろと肉や生野菜、牛乳、バターを食べさせると、数日で車夫は、

「疲労がたまって走れない、元の食事に戻してくれ」

 と訴えてきた。

 そこで元の食事に戻したところ、以前のように走れるようになったという記録がある。その為「日本人には日本の食事が一番適している」と明治政府に報告したが、納得してもらえなかったという。

 明治以前の日本人の腸には、低タンパク質の質素な食事に対応する為に、体内でタンパク質を作り出すオートファジーという体の機能が活発に働いていた為とされる。

 試合前に、塩おにぎりを口にした瑠奈の体調は万全だ。

 会場の張り詰めた空気の中、瑠奈は腰に差した刀の重さを感じていた。

 普段は感じない重さだが、今日に限っては違う重さを感じる。刀の重さに自分が押しつぶされるのではなく、しっかりと支えられる重みがあった。

 その重みは自分自身を支えるものでもあると感じられるのだ。

 塩むすびのカロリーが、体だけでなく、しっかりと自分の心を整えた。手元の刀を軽く握り直し、その重みを確かめる。今日は特別な日だと、彼女は感じていた。

「今日の私は、ちょっと違うんだから」

 瑠奈は小さく呟く。

 胸の中で静かに燃える自信が、彼女の瞳に力を宿らせた。これまで積み重ねてきた努力と修練が、今この瞬間に結実しようとしている。心は澄み渡り、体は軽やかに、そして確実に自分を支えている。

 審判の声が会場に響き渡る。

 いよいよ瑠奈の出番が来た。 

 彼女はゆっくりと立ち上がり、深呼吸を一つしてから、会場へと歩みを進める。

 観客の視線が集中する中、瑠奈は静かに、しかし力強く試合会場に立った。

 居合刀を前に置き、刀礼を行う。

 刀を腰に差す。

 目を閉じ、仮想敵を心に描く。

 抜刀の一瞬、彼女の動きは鋭く、正確だった。まるで風が吹き抜けたかのように、会場の空気が揺れる。

 観客も審判も、誰もがその瞬間に息を呑んだ。瑠奈の刀さばきは、今までとは一線を画すものだった。

 彼女の心の中にあった不安や恐れは、すべて刀の一振りとともに消え去り、ただ一つの真実がそこに残った。

 それは、自分がやるべきことを、全力でやり遂げるという決意だ。

 瑠奈は今までにない安定感を感じた。

 試合が進むにつれても、体の中にしっかりとした力が残っていることがわかった。集中力も途切れることなく、技が次々と冴えていく。隼人の言葉と塩むすびの力が、彼女を支えてくれたのだ。

 一連の動作を終え、瑠奈は最後に刀を納めた。

 その動きには、確固たる信念と揺るぎない覚悟が込められていた。

 瑠奈が戦う姿は、美しさだ。

 彼女が動くたびに、長い髪が揺れ、しなやかな体からは、ほのかな香りが漂ってくるようだ。凜とした姿勢と研ぎ澄まされた視線は、見る者の心を鷲掴みにした。

 試合は終わった。

 静寂が場内を包み、3人の審判全員が瑠奈に対し旗を上げる。

 次の瞬間、拍手が湧き上がった。

 瑠奈は深々と頭を下げる。

 彼女は今日、自分の力を信じることができた。それは、これからの自分をさらに強くするための大切な一歩だった。

 瑠奈は、ふと目を向けた観客席に、一人の少年の姿を見つけた。

 来て欲しいと求めたにも関わらず、少年は素っ気なく忙しいと断った。冷たいと想いつつも、彼のことを理解しているので仕方がないと諦めていた。

 けれど、少年は来て瑠奈の勇姿を応援してくれていたのだ。

 瑠奈は、嬉しくて自然と顔がほころんでいた。

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