しょっぱくない海

よしなに

しょっぱくない海

 小学校に入る前にとてもしょうもないことであの子と喧嘩して、それが今も心残りだった。

 こうして図書館で本を読んでいるときにも、ふいに記憶が甦ってくる。


 幼稚園で、僕がその子に海の味を話したことがきっかけだ。

「うみってやっぱりしょっぱいんだよ」と言うと、その子が「しょっぱないよ」と答える。

「うみには塩っけがあるんだよ」と言うと「塩っけのないうみもあるよ」と返ってくる。

「それはうみじゃないよ!」と言うと「でもしょっぱくないうみもあるんや!」といよいよ食って掛かってくる。


 僕はムッとしてきていた。

 それまで一緒にセミを捕まえたり、ダンゴムシを丸めたりもした。一緒に図鑑を読んで、一緒に自然に驚いた。

 カエルが跳ねる理由、カモメの行方、ヤゴの正体、駄菓子みたいなガマの穂。

 こんなに大好きなものについて驚きを分け合っていたのに。

 僕がどれほどお前に海の味の不思議を伝えたかったか、知らないくせに。


 つい「バカ!」と悪口が僕の口をついて、いよいよ互いに声を荒げ始めた。酷い言葉を言い合いながらどつきあって、そしてもみくちゃになる。すぐに先生がやってきて、僕とアイツを引っ剥がしたら、ぽろぽろ勝手に涙が出てきて、知らず知らずのうちに一緒に泣いていた。


 ――ただそれだけ。それで仲直りもできないうちに、その子は引っ越してしまった。


 大学で生物や地学を学びたいと思うほどには、まだまだ自然を知り尽くせていない。

 けれど受験を目の前にすると、本当にそこまで知りたいと思っているのか、自信が無くなってくる。

 その時こうして生き物に関する本を読むと、不安が少し和らいだ。

 あの子の「しょっぱくないうみ」が何かはわからない。しょっぱい湖はたくさんある、けどしょっぱくない海は見つからない。とんちを疑って、でもカスピ海もアラル海もしょっぱい湖だ。

 ふと、今読んでいる本に目をやる。文庫名の中に、ある一つの海がある。


 まさか、いきなり答えが見つかるとは思わなくて、そのまま勢いで昼の新幹線に飛び乗った。

 京都から電車に乗り換え、しばらく揺られると、やがて大きな湖のたゆたう水面が現れる。


 浜辺に辿り着いて、僕は思わず笑ってしまう。

 打ち寄せる波に、そう呼ぶにはちょっと粒が大きい砂浜が音を鳴らして、山が近くて、でも遠くには大きな船が浮かんでいる。

 「淡海おうみ」とあの本に謳われた〝うみ〟が、たしかに目の前に広がる。

 僕は手でひと掬いして、一気に飲み干した。

 しょっぱくなかったから、これで誰かと仲違いすることはきっとない。

 その上なんと、海の味をもう一つ手に入れたのだ。


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しょっぱくない海 よしなに @hemu-hemu

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