6. 合理的な家族のカタチ

 天は大きく目を見開いたまま、金魚のように口をパクパクとさせていた。言いたいことは、数えきれないほどあった。それでも全て言葉にならなかった。声にすらならなかった。


「まだ二十代だし、細胞が活発だから仕方ないよね。結論から言う。再発した。治るどころか悪化した。余命は三ヶ月あるかどうかだって」


三ヶ月。天の口から蚊の鳴くような声が漏れて出る。彼の頭は空っぽだった。


「だから兄さんに、母さんを頼みたい。施設に入れるでも良い。ただ、母さんを一人にしないようにして欲しい」


自分が死ぬことを前提に話す弟に対し、グッと天の拳に力が入る。


「お前の方はどうなんだ。金ならある。金なら出せる。最先端の医療を受けてでも、治らないものなのか。長期的になったって良い。海外に行ったって良い。金なら俺が、俺が出す。俺が、全面的に支援してやるから」


冷静を装いながらも焦っているのが目に見えてわかる。冬だというのに、額からは汗を流し、瞳はゆらゆらと陽炎のように揺れている。


「兄さん」


陸は母のような優しい声で兄を呼ぶ。


「もう、長くないんだよ。僕は」


その言葉の重みは、かつてないものだった。鉛を撃ち込まれたかのような痛みと、ゾウに踏み潰されているかのような重みが、胸にかかる。


「僕の心残りはもう母さんだけだ。余命宣告を受けた五年前から、やり残したことがないほど全てやり尽くした。家族との時間も満喫した。妻や生まれてくるはずの子どもには悪いけど、このまま、この世界にさよならしようと思う」


涙も出なかった。すぐそこまで、深い悲しみは込み上げてきている。それでも彼の中の何かがそれを阻んでいた。それを人は、希望と呼ぶ。合理的を好む彼には、初めての体験だった。


「まだだ。まだ、だめだ。諦めるなよ、陸」


いつもは威厳のある兄にしては似合わない、弱々しい訴えだった。それでも。陸は、諦観に満ちた微笑みを絶やすことなく兄の手を取る。


「こうしてまた、兄さんと会えてよかったよ。また兄さんと話ができて、よかった。最後に、僕のわがままを聞き入れてくれてありがとう」


違う、気まぐれだった。なんとなく、行く気になったから来ただけだった。こんなつもりではなかった。こんなつもりではなかった。天は、『行かなかった可能性』を思えば身を震わせずにはいられなかった。赤く、冷たい弟の手が、震える兄の手を包む。ガサついた働き者の手はチクリと痛くて、天はその痛みに苦しんだ。


「ねぇ、兄さん。兄さんは奥さんやお子さんのこと、大事にしなよ。愛する人が悲しむ顔は、その顔にさせることは、死ぬよりもつらいことだよ」


弟の顔を見ることはできなかった。見ることができないまま、天は繰り返す。


「もう一度、病院に行って、生き延びる方法を聞いてみないか」


陸は目を閉じて、ゆっくりと開くと、兄と目を無理にでも合わせて言う。


「僕の命は残り三ヶ月。あと三ヶ月の命の奴に使う時間もお金も、もったいないよ。余命宣告ってそういうものだ。ほんの少し延命したとてたかが数日。諦めた方が利口だ」


昔なら、父が今の弟の立場なら、天はそう父を突き放したかもしれない。否定しようにも返す言葉がなかった。正しいと思ってしまう自分がいる。今の弟の姿は、昔の彼によく似ていた。


「兄さん、合理的に考えようよ」


天の口癖が、弟の口から飛び出す。


「合理的……」



 乾いた風が強くなり、ゴウゴウと低い音が耳障りなほどに吹き荒れる。ガタガタと揺れ出す窓や扉。灰色の雲が太陽を隠し、陰り出す空。外の明かりが失われた、薄暗い静かな部屋には時計の秒針だけが響く。いつまでも、秒針音が止まることはない。


 兄は静かに苦笑した。

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合理的な“家族”のカタチ 葉月 陸公 @hazuki_riku

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