甘雨

夢月七海

甘雨


 #友達から言われた忘れられない一言 で、思い出すのは、小学生三年の時、近所に住んでいたTの言葉だ。

 「ここは雨も甘くないね」……今思い返しても、意味不明な一言だから、これの前後も一緒に説明したいと思う。


 雨がしとしと降る日曜日の午後だった。俺は、母親から頼まれたおつかいを終えて、帰る途中だった。

 公園の真横を通っていると、傘で狭くなった視界の端に、人影が動くのが見えた。朝から雨が降っているのに? と思って確認すると、同じクラスの男子のTが、天に向かって大きく手を広げ、口も開けながら、くるくる回っていた。


 俺はぎょっとして、すぐに公園に入った。Tの名前を何度も読んでも、彼は雨をなめるのに夢中だ。やっとすぐ目の前に来た時に、俺の顔を見て、ビデオの一時停止のように止まった。

 「ああ、K君か」と、Tは無邪気に笑う。何をしていたんだと尋ねると、「雨を飲んでいた」と、普通のことのように返された。


 「ここは雨の甘くないね」と、首を捻りながらTが言う。あまりに自然な言葉だったので、一瞬飴のことかと思った。

 「飲んだらダメだろ、サンセイウかもしれないし」と、社会の授業で習ったことを言ってみると、「君がそう言うなら、やめとくよ」と真面目な顔で返された。


 「てか、傘はどうしたんだよ」「忘れた」「朝から降っているのに?」みたいな会話をして、Tは公園により近い俺の家へ寄ってもらうことにした。傘を貸しながら、家に上がってもらい、タオルも貸すつもりだった。

 俺の両親は店をやっているので、今日も留守だった。うちに入ったTは、まるでここに始めて来るかのようにきょろきょろしている。実際には、もう数えきれないほど訪問していたのに。


 タオルで顔を拭きながら、「何か飲み物ない? 喉乾いて」とTが言う。だから雨を飲んでいたのかと思いつつ、冷蔵庫を開けると、「甘いのがいい!」と注文と付け加えられた。

 しょうがなく、パックの100%オレンジジュースをコップに入れて渡した。Tはそれを一気飲みしたが、まるでゴーヤーを丸かじりしたかのような、苦い顔をする。


 「もっと甘いのはないの?」と、空のコップを突き返してくる。俺はTのわがままに呆れつつ、こんなに甘いのが好きだった気と不思議に思っていた。

 ただ、オレンジジュースよりも甘い飲み物は冷蔵庫にない。だから、さっきのオレンジジュースに、ハチミツをたっぷり入れた。Tは一口だけ飲んで、「さっきよりマシになったけどね」と難癖をつけながら、また飲みだした。


 それなら、アイスのほうがいいんじゃないかと、冷凍庫を開けて、Tから目を離した。セットで箱に入っているチョコの棒アイスがあったので、「これは?」と振り返ると、Tは戸棚を開けていた。

 「勝手に開けるなよ」というと、Tは「こっから甘い匂いがする」なんて言い出す。「あった!」と取り出したのは、小分けにされたガムシロップ入りの袋だった。


 まさかという俺の嫌な予感は当たり、Tはガムシロップを一つ開けると、おちょこのようにグイっと飲み干す。しかも、連続で三個も飲んだ。

 ここまでくるともう、異常性よりもおかしさが勝ってしまい、俺は笑い出していた。「カブトムシみたいだな」と言うと、Tは急に青い顔になり、「あんな怖いものと一緒にしないでよ」と口を尖らせた。


 結局、ガムシロップを十個も飲み干し、髪もいい具合に乾いたので、Tはうちの傘を借りて帰っていった。あの後は、ガムシロップがすごく減ったことに、なんと言い訳しようかとのんきに考えていたのだが……。

 夜、電話が鳴った。それに出た母親が、慌てて俺のところに来る。Tが父親と喧嘩して、家出したらしい。俺は、ガムシロップを旨そうに飲むTを思い出して、嘘だろと呟いた。


 しかし、母親から詳しい話を聞いて、俺も本当の奇妙さに気付いた。Tが父と喧嘩したのは、十二時前の出来事だった。それから、最後に目撃されたのは、その一時間後、うちやあの公園とは反対方向に行くバスだという。

 俺がTと公園であったのは、大体三時前後だ。一度バスに乗ったのに、戻ってきたのか? それとも、あれは本当にTだったのか?


 色んな思いで眠れない俺だったが、日付が変わる頃に、Tは駅前で発見されたと聞かされた。怪我はなかったが、全身びしょぬれで、酷く震えており、熱を出していた。だから、月曜日は学校を休んでいた。

 火曜日に、Tは登校した。見た限り、ちょっと気まずそうだったが、普通の感じだった。クラスメイトも家出のことを知っていたので、Tを質問攻めにしたのだが、彼は「バスに乗って、駅前をうろうろしていただけ」と返していた。


 俺も、一言だけ、「俺の傘は?」と尋ねてみた。彼は、本気で、「何の事?」と眉を潜めていた。

 その後のTは、普段通りだったが、一つだけ変わったところがある。前の夏までは、一緒に蝉とりをしていたのに、虫が大嫌いになったのだ。指先に止まるくらいに小さな虫にさえ、悲鳴を上げていた。


 大人になった今でも、Tとはたまに飲みに行く。ほんの最近のこと、一軒の居酒屋から出て、肩を組みながら、じゃあ、二軒目へ行こうと意気込んでいた時だった。

 Tが突然立ち止まった。俺の肩は自然と外れて、少し進んでから、彼を振り返る。「どうした?」と尋ねると、Tは、何か落とし物に気付いたような、寂しげな笑顔で言った。


 「時々思うんだ。僕はちゃんと、帰ってこられたのかなって」……一瞬で、俺は小学三年の時の、あの日曜日のことを思い出した。だからTを安心させるように「大丈夫だ。ここの雨は甘くない」と、能天気なくらいに笑ってやった。

 Tも、「そうだね」と微笑んで、また夜の街を並んで歩きだした。あの日の話はこれ以上出なかったが、これから何年経とうとも、俺は今のTの言葉を思い出すのだろう。そんな予感があった。

















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甘雨 夢月七海 @yumetuki-773

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