その7

 ホステスの名はルミ子と言った。OLからスナ'ク、そしてサロンに流れてきた女だった。切り替えの時間が来て、「ゆっくりしていって」とルミ子にねだられるまま思郎は金を払って時間を延長した。かなり酔っていた。

「はい、おつり」とルミ子は紙袋をテーブルの上に置いた。そして思郎の膝の上に座って首に手を廻した。思郎は目の下に伸びたルミ子の太腿を撫で、スカートの下に手を人れた。

「これ、返しとくわ」

 ルミ子の指の間に名刺がはさまっていた。思郎はそれを手に取った。定村の名刺だった。金を払ったとき、札と一緒につかみ出したらしい。思郎はふと思いついて、

「見たかい」

「ええ、あなたの名刺? 」

「うん」

「すごいわね。農学博士って書いてあったわよ」

「まあね」

 自分をまじまじと見つめるルミ子の反応を思郎は面白いと思った。

「頭を休めるにはこういう場所が一番いいんだ」                                 

 言いながら 郎はルミ子の胸に手を伸ばした。

「学校の先生は助平というじゃないか。そんなのここにもよく来るんじゃないのか」

 定村の顔が浮かんだ。こういう場所で定村の名刺を目にするのはいかにも異和な感じがあった。しかし、案外定村もけっこうこんな場所に出入りしているのかも知れないと、禿げあがった頭を思い浮かべて思郎はニヤリとした。


 サロンを出て、アパートに帰り着くと九時半だった。レストランは十時閉店なのでまだ終っていない時刻だ。思郎は靴を脱ぐと、部屋の明りもつけないまま、上がり口にある電話に手をかけた。靴脱ぎ場の明りで店のダイャルを回す。 出たのは妻だった。店内で張り合っている姉や義兄でなくてよかったと思郎は思った。

「俺だ、今帰った。今日は収穫があったぞ。まだ終らんのか」

 一息に思郎はしやべった。時間は気にしなくてもいいと言われていたが、そんなに遅くならないで帰ってきたことを自分の堅実さの証しとして思郎は妻に示したかった。

「ああ、そうね。もうちょっとかかるみたい。酔っとるね」

「ああ、二次会に行ったから」                                        

 どこに、と聞かれぬように思郎は急いで、                                「いま忙しいか」                                           「いや、ひまよ」                                                                                                    

「そうか早く帰ってこいよ」

「はい。ガスやストーブは気をつけてね」

 受話器を置いて思郎は微笑した。妻の機嫌が悪くないことが彼を安心させたのだ。

キッチンの明りをつけ、水道の蛇口に口をつけて水を飲んだ。ふう、と一息つくと居間に入り、上着とネクタイをとって電気炬燵に座りこんだ。テレビの上のデジタル時計が九時四十分を示している。まだ早いのだ。もう一度遊びに出るか、と思郎は思ってみた。そう思えること自体が楽しかった。ふらふらと思郎は立ち上がり、浴室に行って風呂釜のガスに点火した。戻ってきてテレビのスイッチを人れ、ドカッと再び炬燵に座りこんだ。


 何でもしてよいという解放感が思郎を包んでいる。酔いがもたらす福徳だ。 「てやんでえ」思郎はテレビの俳優に毒づいた。 「いいケツしてるなあ」とジーンズ姿の女優に言ってみた。そんな放縦が楽しいのだ。思郎はグラリと横になった。目をつむって大きく息を吐いた。いつもならこの時間は店で気を張っている時間だ。店内の人間関係や客の応対などに気疲れしながら動いている自分の姿を思い描いて、不幸、と思郎は感じた。こうして家の炬燵で横になっていられるのは珍らしい、貴重な時間だ。そう思うと思郎はむっくり起きあがり、冷蔵庫からビールを取り出してきて炬燵に座りなおした。


 炬健の上に名刺入れが置いてあった。さっき上着を脱いだ時、胸ポケットから取り出して炬燵の上に投げておいたのだ。グラスにビールを注いで一口飲むと思郎は名刺入れを手に取った。今日もらった名刺を一枚一枚取り出して眺めながらビールを飲み始めた。名刺を見ながら思郎は、この人はこういう人で、と妻に話してきかせる言葉まで頭に浮かばせていた。一通り見終えて思郎は定村の名刺がないことに気づいた。サロンに忘れてきたのだ。頭をガンと殴られたような気がした。脳裏にテープルの上にポンと置かれたままの名刺が浮かんだ。名刺入れに戻さなかったのだと思郎は唇を嘴んだ。あの女ールミ子がそれをつまみあげる。面白半分に店の者に見せる。明りの下に爆された名刺を囲んで、 「あの人農学博士なんだって」とルミ子が自分のことを定村のこととして話している情景が浮かぶ。しまったと思郎は思った。いや、ルミ子は名刺をハンドバックにしまいこみ、自分だけのものにするかも知れない。 そしてまた来てくれと定村に電話をかける。どちらにしても事が定村まで及ぶことを思郎は恐れた。それは今夜の自分の行状を人前に曝す結果になるだろう。定村になりすますなど馬鹿なことをし たものだ、と思郎は舌打ちした。あの店に電話をしようかと思郎は思った。今なら遊びの雰囲気の延長で気楽にルミ子に話せる。―名刺忘れなかったか、実はあれは他人の名刺なんだ、今から取りに行くから持っていてくれないか、ールミ子に話しかけるそんな言葉が思郎の頭の中を流れた。大げさだな、と思郎は思った。たかが名刺一枚だ。忘れたんだな、で向うもすますだろう。それを使ってどうのこうのと考えるのは邪推だ。あの女だってそれなりに世の中を経験してきて いるはずだから名刺一枚に飛びつくなんてことはないだろう。それに俺のウソを見抜いていたんじゃないのか。頭から信じこむとは考えられない。――


 思郎はあれこれ考えた。どう考えても氏名、電話番号の記された名刺が他人の手中にある不安は消えなかった。もし、定村に連絡されたらと思うのだ。酔っているために不安の感情は抑制されず、尾をひく。思郎は立ち上がって部屋の中を歩いた。しかし受話器に手をかけるこ とはできなかった。電話をすればかえって事を起こしそうな気がする。相手に名刺の価値を認識させ、利用しようという気持を起こさせる結果になるかも知れない。


 いつもこうだ、この馬鹿、と思郎は自分を罵った。さっきまでの解放感はあとかたもない。いつものように、ああでもない、こうでもないと内面で蔦藤を起こしている自分がそこにあった。                                                                 


 一晩に一回は通る救急車がアパートの前を通り過ぎた。大きく響く警笛に電話器をぼんやり眺めていた思郎はビクリと体を震わせた。









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名刺 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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