その6
外に出ると雪がちらついていた。一人で来て一人で帰る、やっばりなと思郎は思0た。浮きあがってきた淋しさのような感情を苦笑で突き放した。時計を見るとまだ八時前だった。幹事会会場となった料亭は繁華街の真中にあり、通りに出ると道の両側にきらびやかなネオンが連なっていた。思郎にこのまま帰る気はなかった。こういう機会はめったにないという意識がある。妻には遅くなるかも知れないと言ってあるし、時間は気にしなくてもいいという返事をもらっていた。休日が月に一、二度しかなく、毎夜十一時過ぎまで店に拘束される思郎の境遇では、この時間帯に公然と遊べるということは確かにめったにないことだった。同窓会幹事会のお陰である。それに今日は名刺を一枚残さず配ってしまうという妻に胸を張れる成果を上げた。少しぐらい息抜きをしてもかまわないだろうと思郎は思った。ちらつく雪の中を思郎は大股で歩いた。ネオンの瞬きが思郎の気持ちを駆り立てる。いかにも用事ありげな急ぎ足で、顔も渋面をつくって、人波を次々にすり抜けた。 背後の幹事会出席者の目の届かない距離に早く自分を運んでしまいたい意識も働いていた。
その店の前に立っていた蝶ネクタイの客引きが歩いてくる思郎を見ると近づいてきた。
「遊んでいきませんか」
もちろんそのつもりだ。思郎は答えず、そのまま店の入口に向った。
「ありがとうございます。ご指名ありますか」
後を追ってきた客引きが、背を屈めて耳元で囁くように訊く。
「いや、ない」
「一名様、ご案内!」
客引きはドアを押して中に声をかけた。
暗い店内にはけたたましいほどの音量で曲が流れている。二、三のテープルに客とホステスが寄りそって座っている。ボーイに案内されるまま思郎は奥のテーブルに腰をおろした。目の前の壁に大きなヌード写真が貼ってある。それを眺めて思郎は一息ついた。やってきたんだと思った。間もなくボーイがきてシートの横にしゃがみ、
「前金になっておりますので」
思郎は金を出しながら、「アヤ子いる」と訊いた。迷っていたのだがロに出た。
「アヤ子さんは今日休んでますが」
思郎は内心ホッとした。未知の女と遭遇したかったのだ。本番であればアヤ子よりいい女に当るかも知れない。思郎にはそんな期待があった。しかし口では「馬鹿な奴だ、せっかく来たのに」とこぼしてみせた。ボーイはへらっと笑った。「では本番で。いいコつけますから」、ボーイの言葉に思郎は頷いた。
思郎は三日前にもこの店に来ていた。レストランの営業が終って従業員を送った後、時間がいつもより早かったこともあり、ふと気持が動いて、そのまま車を街へ向けたのだ。思郎はサロンには結始して一年余り行かなかったが、最近はポツンポツンと妻の目を盗んで出かけていた。その日は衝動的に行ったので、いざシートに腰をおろすと家で待つ妻が気になり、車を運転しなければならないことも気持の負担となって三十分そこそこで席を立ったのだ。その時思郎についたアヤ子というホステスは、自分が気に人らないのならナンバーワンのいいコをつけるからもう少しいてくれとせがんだ。時間にならないうちに客に帰られては店から咎められるのだ。それがわかる思郎はアヤ子を突っぱねることもできず、かと言って落着かず、あんたが気に人らないんじゃないが用事があると弁解がましく言いながら、後先のない自分の行為に我ながら腹を立てた。そして自分には寛ぐ時がないと諦念のように思った。アヤ子を振り切って席を立った時、半ばは本気でこの次は指名するからと思郎は言ったのだ。
「いらっしゃいませ」
ホステスがシートの横にしやがんで思郎に会釈した。ミニスカートから半ば出た大腿が思郎の目を刺激した。中肉の顔立ちもまずまずの女だった。悪くないと思郎は思った。
「ああ」
思郎は鷹揚に応えた。今日はゆっくり遊べると思うと嬉しかった。女は横に座るとビール壜を取って、「どうぞ」とグラスにピールを注いだ。 「あんたもいこうか」女の手からビール を取ると思郎は言った。 「すいません」と女は軽く頭を下げ、両手でグラスを持った。思郎は改めて女の顔を見た。ポッチャリした丸顔で目が大きい。 「あんた若いな」
女は嬉しそうに「そう」と言った。 「いくつぐらいに見える」と急にくだける。思郎はちょっと考えて、 「二十一、二か」 「嬉しい」女は手を'パチッと合わせて喜んだ。 「ほう、もっと上」 「二十四」そう言って女は思郎の目を覗きこんだ。顔に似ずこの商売の水にかなり馴染んでいるんだなと思郎は思った。
「お客さん、この店は初めて」
「いや何度も来たよ」
「サロンが好き」 「好きってもんじゃないよ。もう病気だよ」
女はふふっと笑った。
「女を抱いて酒を飲む。これほどいいことがあるものか」
思郎は照れを押して一気に言った。
「この店、前はアリゾナって言ってたろう。その時から来てるよ」
自分をこの店に古くからずっと通っている客のように思郎は言った。そう女に印象づけたかったのだが、実際には最近来始めるまで二年近いプランクがあった。アリゾナは思郎がサロンの遊びを初めて知った店だった。下着に近い着衣の女と飲み戯れる楽しさが思郎をとりこにした。ホステスの体を抱きながら、 この世の歓楽ここに極まると思った一時を思郎は忘れない。それから市中のほとんどのサロンを渉猟して回った。それは秘やかな楽しみだった。閉店間近のレ ストランから興奮に胸を灼かれながら思郎はこっそり抜け出したものだ。帰郷して家業を手伝う生活のもたらした孤独と苦しみをそれはわずかに慰めてくれた。結婚して幾分下火になったとは言え、 サ戸ンへの情動は思郎の中でなお息づいている。三日前の行動はその表出だった。 思郎は自減につながる行為は慎しまねばならないと自戒しつつ、サロンに行くこと自体は遊びとして自分に許し ていた。要は溺れぬことで、その自制はできると考えていた。
女は アリゾナの名を知らなかった。五、六年も前のことだから不思議はなかった。
「あんた 、この店に入ってどのくらいになるの」
「一週間」
「新しいんだな」
思郎は女の胸や腕を眺めた。店に入って間がないことが女の新鮮さを表わしているようで嬉しかった。
「じゃあ、なじみの人がいるんじゃない」
女は思郎をこの店にずっと通っている客だと思っている。
「いや、ここしばらくこなかったからね。二日前に久しぶりに来たん だ」
思郎は咄嗟にうそがつけなかった。女はふーんという顔をした。 「誰がついたの、その時」 「アヤ子と言ったね」 「ああ、あの人」 「知ってる」 「顔と名前だけね」「指名したら今日休んでるってね 」少し言いにくかったが思郎は言った。 「やめたんじゃないの、あの 人」 「そうかね。そんなのが多いね、ここ。指名したらやめてたというのが何度かあったな」思郎は再びこの店に来だしてから二度ほどその経験をしていた。
テープルの横をホステスが歩いていった。ミニ スカートから下半分が覗いているパンテ ィの尻の動きを思郎は目で追った。
「しかし、この店は若いコが多いな。若いコは店をやめるのも早いということか。ここが一番いいよ。他の店はばあさんばっかりだ」
思郎はホステスの肩に手を廻した。女は頭を寄せてきた。 「若い方がいい」 「そりやそうさ、何のために金払ってくるんだい」 「そうね」 「あんた何人男知 っとる ん」ふと情動があり、会話が面倒になって思郎は肩に廻した手を女の尻にすべらせた。 「いやあ、急に」女は橋声をあけて身体をくねらせた。
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