その5

  一昨年の幹事会で思郎が話を交わした医者が来ていた。その時もらった彼の名刺には医学博士という肩書があったことを思郎は思い出した。動務先は地元の国立大学付属病院ではなかったろうか。一昨年もそうだったが今度も医学博士は自分から思郎たちの席へやってきた。思郎は慇懃に挨拶した。半ばは肩書きに似ず高くとまらない彼の人柄に、半ばは医学博士という肩書きに。つきあって損はないという打算が思郎の態度を一層丁重なものにした。今日の彼は濃紺のダブルの背広姿で前の印象からすれば少しくすんで見えた。一昨年はノーネクタイで、ライトブルーのブレザーに白ズボン、胸ポケットからあずき色のハンカチをのぞかせたような格好で、頭もよくて金もあるプレイボーイの印象だった。いい身分だなと思郎は思ったものだ。この前名刺を渡したと思ったが、手は反射的に名刺入れを探り、何度でもよく覚えてもらおうという気持で思郎は名刺を差し出した。医学博士は思郎の名刺を受取ると少し頭を下げ、胸の内ポケットから自分の名刺を出した。名刺には名前の上に医学博上とだけ書いてあった。動務先の表示はなかった。実は裏側に彼が講師を動める、米国の大学を含めた四つほどの大学名が刷りこまれてあったのだが、思郎はその時気づかなかった。彼の姓と同じ産婦人科医院の名が浮かび、あの一族なのだろうと思郎は思った。志賀というその医学博士は思郎の前にいる二十期の幹事たちからも名刺を受取り、名刺を渡した。そして一座に向って何かを言おうとして言葉に詰った。

「たしか病院に勤めていらっしゃったですね」

 思郎がそう言うと、志賀は「ええ、それもやってますが」と言って、少しかしこまって、

「実は政治の世界に乗り出そうかと思っているのです」と一座に向って背筋を伸ばした。思郎はお坊っちゃん育ちを感じさせる黒縁メガネをかけた志賀の顔を眺めた。肉のよくついた丸顔だ。

「というと、市会ですか」

 思郎は槇田の事を頭に浮かべて言った。                                   「いや、とんだ話ですが、衆議院に出ようかと思っています」

「衆議院」

 思郎は唸った。

「僕を推してくれる人がいましてね。いや、ちょっととんだ話ですが、大蔵忠二さんの後を継ぐということで」

 志賀は「とんだ話」を連発した。

 大蔵忠二はこの四区で同じ保守党の田村八介と衆院選で票を争ってきた人物である。二回続けて落選し、最近参議院に鞍替えしていた。大蔵の鞍替えで衆院選の四区は無風になると思われていたのだが、陣営はそうやすやすと撤退する気はないらしい。大丈夫かな、と思郎は思った。田村は現職で閣療だし、保守党内で一つの派閥を形成しつつある実力者だ。

「ここらで政治も若返りをしなければいけないと思うんです。僕も三十六だし、同じ若者として、若者の代表として出ようかと思っています」

 志賀はその場にいる思郎たちを代表して出るような口ぶりをした。その口調には慣れない事をしゃべる気負いがあった。この男には研究や教育の世界の方が合ってるだろうにと思郎は思った。政治というむき出しの利欲の世界でポロポロにされるのではなかろうか、そんな予感を思郎は抱いた。しかし彼の中で燃えている野心だけは伝わってきた。

「それはいいですね。初めから大きな目標を狙うのはいいですよ」

 二十期の幹事の一人が言った。彼等は今年の担当期として席を回っては頭を下げ「よろしくお願いします」を連発している。先輩ではあるが宴が始まると彼等の方から思郎に挨拶し、ビールを注いだ。総会のチケットを幹事たちにできるだけ多く売ってもらわなければならないのだ。ほかにも寄金やパンフレットへの広告掲載依頼など幹事たちの協力を得なければならない事は多い。総会に対しては本部からの資金援助はなく、担当期が独自に資金を作らなければならなかった。そうした事情でその年の担当幹事が幹事会でタイコモチ的存在になるのは例年のパターンのようだった。今の幹事の言葉にもそうした迎合的なニュアンスがあった。             「ちょっととんだ話ですがよろしくお願いします」

 志賀は幹事の言葉に軽く頭をさげた。 「まあどうぞ」と二十期の幹事がグラスにビールを注いだ。志賀はそれを飲むと、 「じゃあ」と言って落着かず腰を上げた。こぶしを握りしめ、肩を張って去る志賀の背広の後姿を見ながら、そうだったのかと思郎は思った。彼の自分から近づいてくる気さくさも衆院選立候補ということで説明がつくようだった。しかし志賀の後姿に、自分の資質に合った生き方を捨てる者の虚ろさを思郎は見るのだった。


 二十期の幹事の中に市内では名の通った書店の息子がいた。彼と知り合えたことが思郎には最大の実際的収獲のように思えた。思郎の属している同人誌を書店に置かせてもらうメドがついたからだ。同じ二十期の幹事に料亭の息子もいた。メガネをかけた剽軽な感じのその男は思郎の名刺を見ると、「似たような家業ですね。合わないでしよう。わかる、わかる」と言った。面白いことを言うなと思郎は男の顔を見直した。「実にそうなんです」とおどけて言い返そうと思ったが、彼はすっと横を向いて、同期の幹事に終ったらどこに飲みに行こうかと話し始めた。遊んでいるのだろう、どこかしまりのない男の顔を見ながら、この男も家業から浮いているんだなと思郎は思った。結婚してから家業のレストラン経営に本腰を人れた思郎は姉夫婦に十年近い遅れを取っていた。親が半ば隠退した形になっている現在、経営の実権は姉夫婦が握っていた。肩書きだけは一応取締役だったが、店の経営のあれこれについて思郎には何の決定権もなかった。肩書きだけをぶらさげて思郎は店内をうろついているにすぎなかった。


 思郎の名刺はなくなり、他人の名刺が名刺入れにたまった。                             


 思郎達の席の脇を人々がつぎつぎに退出していった。座救を見回すと七 割方がすでにひきあげていた。その散会の早さは、高校時代、母校の人間関係に感じていた割り切ったクールさを思郎に想い起こさせた。思郎は藤島を探した。隣りにいないので、どこか挨拶に廻っているのだろうと思っていたのだが、会場に藤島の姿はなかった。帰ったらしい。藤島は名刺を忘れてきていた。思郎が名刺を渡している側で、「あゝ名刺を忘れた」と声をあげた。藤島が早く帰った理由がそれであるような気が思郎はした。思郎にも経験がある。名刺がないと初対面の人には話しかけにくい。あちこちで名刺を渡している自分を一種妬ましいような感情で見ている藤島の目を思郎は想像した。ちょうど人中を派手に泳ぎまわる槇田を見る思郎の目にそんな光があったように。藤島と会が終ったあと一緒に飲んでもいいという気持が思郎にはあった。その彼が声もかけずに帰ったことに思郎は淡い淋しさを覚えた。その程度のつき合いなんだよと言われたような苦い気分だった。   


 思郎の前では相変らず二十期の幹事たちがにぎやかに話し続けていた。広い座敷をもう一度思郎は見回した。知った人間は誰もいない。退き時だなと思郎は思った。                      

「それではこれで」

 思郎はつとめて軽快に言って腰を上げた。「お波れさんでした」と二十期の幹事達が返してきた。                                                  

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