その4
同窓会とは不思議なものだと思郎は思った。面識もないのにまわりの人間への親近感が ふくらんでくる。誰にでも気軽に話しかけられる気持になる。前に座っていた 二十期の幹事達がビール罎を持って挨拶に動きまわるのを見て、思郎は入っ てぎた時会釈だけした担任の定村にやはり挨拶してこようと、ビ ― ル罎を手にして席を立った。思郎の高校時代のクラス担任で来ているのは定村だけだった。
「先生、ごぶさたしております」
思郎は定村の背後にまわって声をかけた。
「おう、三杉君」
定村は額の禿げ上がった、酒のせいで少し赤らんだ艶のいい顔を向けた。昔と変らぬ顔だ。老けないということが定村の生活の資質にあった快適さを語っているように思郎には思えた。名も実もある名門公立高校教論の平穏な生活を思郎は思った。定村は謹巌な学究肌の教師で猪山のような面白味はなかった。思郎も定村に親し んだわけではなかった。定村に限らず、受験勉強に追われた高校時代、思郎には特に親しんだ教師はいなかった。
「先生変りませんね 」
「ここがだいぶ薄くなっただろう」
定村は頭頂まで禿げ上がった頭を撫ぜた。
「いやあ、あんまり変ってないようです。さっき見たんですが体育の瀬戸先生の頭が白くなっているのには驚きました」
瀬戸が会場に人ってくる姿を思郎は見ていた。小太りの体はそのままだが頭髪の大かたが銀色に変っていた。
「どうそ」
思郎は定村のグラスにビールを注いだ。
「どうかね、その後」
「はあ何とか」
思郎はズボンの尻ポゲットをまさぐって名刺入れを出した。定村には総会などで何度か会っていたので改めて名刺を渡すこともなかったのだが、名刺を渡すのがこの場での仕事だという意識が思郎にはあった。彼は一旦思いこむとそれからなかなか自由になれない男だ った。思郎が名刺を渡すと定村もそれで はと いうように背広の内ポケットから名刺を出した。名前の上に農学博士と刷りこまれてあっ た。
「農学博士に なられたんですか」
定村の充実を思郎は羨ましく思った。大学院進学を中途で放棄したことが思われ、学問の世界がやはり 一番向いていたのかも知れないという悔いのような思いが思郎の胸をよぎった 。定村のまわりには顔を知っている教師が何人かおり、思郎は彼等にもビールを注ぎ、二言三言話を交わした。教師たちは皆上機嫌で陽気だった。
それを皮切りに思郎は人に挨拶するたびに名刺を渡し た。独身時代には名刺を持歩く習慣がなかった 。結婚して、仕事先に名刺を持たずに行き、 妻からなじられたことがあ「た。それが常識外れなことと 印象づけられたためか、名刺を渡すという行為自体が抜目なく務めを果しているという安堵感を思郎に与える。それに今夜は自分の顔を広め、店の名前を知ってもらうことを一つの建前として出席しているのだから、店の営業中に宴会に出て酒を飲む後ろめたさを消すためにも、思郎は努めて人に会い名刺を渡そうとした。
店の仕入れで行く卸売市場の野菜屋の主人と思郎はトイレで会った。その主人が先輩だっ たとは思いがけないことで、取引上負い目ができたような気持に思郎はなった。その主人が自分の同期だという弁護士を思郎に引き合せた。
思郎と同じ K大出だというその弁護士は、野菜屋の主人から思郎の紹介をうけると、 K大出は変ったのが多いからと笑った。 K大を出なが ら料飲業に従事しているこ とを言ったのかと思郎は思った。学歴と職業とを並べられるのが思郎は嫌だった。自分の生き方の過失を曝してい る ような気がするのだ。人が洩らす「K大を出て もったいない」という言葉は思郎の自尊心を徴妙に刺激した。意味が よく摑めぬまま、思郎は弁護土に笑顔を返した。弁護士の顔はそれまでの幹事会で何度か見かけていたが、話を交わすのは初めてだった。 四十代半ばぐらいで、白髪混じりの髪は面貌からいっていかにもロマンスグレーという趣きだった。
弁護士 は思郎が文学部を出たと聞くと年一回シルクロードを旅行する話しを始めた。シルクロードが中国からヨーロッパに続く本物のそれと確認すると思郎は思わず嘆声をあげた。 テレビや雑誌でどんな所か知ってはいたが、実際行くとなると話は別だった。弁護士はその地域に取材した作品の多いK 大出の高名な作家の名をあげた。思郎は同人誌に詩や小説を少しばかり書いていた。 文学部を出た自分に合わせて話題を選び親し気に話しかけてくる相手に一定見ある所を示したい気が動いたが、初対面ではあるし、偉ぶるようにもあるし、何よりレストラン経営者として挨拶している自分の立場を考えてただ「はあ、はあ」と相槌を打った。弁護士は少し酔っていて、手を動かした拍子に盃の酒を膝にこぼしたりした。挨拶するだけで長居は適当でないと考えた思郎は、辞去する人が弁護士に挨拶に来たのを機に「よろしく」と頭を下げて座を離れた。
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