第14話 雨上がりの空に
ライブが終わった。
時計の針は一時間半ほど進んでいる。
「えっ、いつの間にそんな時間が過ぎていたの?」
楽しい時間は早く過ぎ去る。その言葉の通り、あたしにときの流れを感じさせることのない、密度が高くて楽しめるひとときだった。
演奏を終えたメンバーがステージを降りた途端、アンコールの声がかかった。
得能くんたちには予想外の出来事みたいで、バタバタしながらもう一度顔を出し、慌てて最初の曲をもう一度演奏した。
あのワタルさんがいるバンドなのに、アンコールのことまで考えていなかったなんて。ここまで盛り上がるとは想像していなかったのかもしれない。
計算し尽くされたものではない手作り感や拙さが垣間見えて、あたしには逆に印象が良かった。
お客さんが帰ったあとのライブ喫茶ジャスティに、あたしと水野先生たちはそのまま残ってテーブルについている。
楽しいライブだったとか、いつも以上に迫力があったなどと語り合いながら、得能くんたちが出てくるのを待っていた。
体に残った熱気のせいで、あたしの顔はずっと火照っている。
「西田、ちょっと待っていろよ」
水野先生がカウンターの上にあったポットに氷水を入れ、人数分のグラスと一緒にテーブルまで運んでくれた。
あたしはハンカチを取り出してグラスにまき、自分の頬に当てる。肌を刺す冷たい感覚が気持ちいい。高まった気持ちも少しずつ落ち着いていく。
「いいライブだっただろ。ワタルは本気でプロを目指しているのがよくわかったぜ。趣味でやっているうちのバンドと比べて、気合いが全然ちがうな」
水野先生の表情にも、軽い高揚感が残っている。
バンドを組んでいたのなら、先生も一度はプロの世界に足を踏み入れようと考えたのかな。それを、得能くんたちを通して見ているのかもしれない。
「趣味であれ本気であれ、みんな自分の目指すものや好きなものに向かって走っているんだよ。おれも、ここにいるやつらもな」
先生は自分の仲間を見た。みんな頷いている。そうか、今でもバンドを続けているのね。
「どうだ? ワタルたちのいる大学を目指してみようって気になったか? 勉強も趣味も本気で取り組んでいる学生がたくさんいて、楽しいところだぜ」
「やだ先生、最後は進路に話を持っていくんですか?」
「いいんだよ。おれは西田に本気を出してくれるなら、なんて言われようともな」
強引なやつめ、と友達に軽くパンチを入れられながらも、先生は優しく微笑んでいる。
学校で女子に人気がある理由がなんとなくわかってきた。ううん、本当は女子だけじゃなくて、男子からも慕われているよね。
あたしは今日見てきた大学を思い出す。
合格すれば、得能くんやワタルさんとあのキャンパスを一緒に歩けるんだ。得意な英語を勉強して、その先につながる何かを見つけられるかもしれない。
魅力的な仲間と一緒に。
数学さえなんとかなれば、夢じゃないんだよね。
今なら間に合う。あたしが手を伸ばせば、差し伸べてくれる人がいる。
本気で目指すなら……。
「わかりました。あたし、挑戦します。水野先生、よろしくお願いしますっ」
「本当? 来年の春、待ってるよ」
背後から声をかけられてふりかえると、手を腰にあててワタルさんが立っていた。得能くんやほかのメンバーも一緒だ。
お疲れ、とか、スッゲー良かったぜ、などと感想を伝える先生たちと、照れたバンドメンバーのようすが微笑ましい。
「西田さん」
不意に得能くんが輪からはずれ、あたしの隣に座った。
「最後まで見てくれてありがとう」
意外なことに、得能くんがあたしに向かって丁寧に頭を下げる。
「え、え? き、急に何があったの?」
お礼を言われるようなことをした覚えなんてないのに。
頭を上げた得能くんは、戸惑うあたしを見て口を開いた。
「正直言うと、西田さんは途中で帰るんじゃないかって心配していたんだ。身内以外で来てくれた数少ない人だから、つまらないと思った時点で、すぐに席を立たれるような気がしていた。だから、絶対に帰らせるもんかって、今日はいつもの対バンより闘志がわいてきたぜ」
「ということは、今日の功労賞は西田だな」
先生はそう言って、あたしの背中をポンッと叩く。
「さあ、明日からはまた、受験勉強でしごいてやるからな。ふたりとも覚悟しとけよ」
「お、お手柔らかに」
あれ、あの得能くんが不安げな表情を浮かべるなんて……あたし、さっきの決意表明は早まったかもしれない。
「沙樹ちゃん、水野サンのしごきがきつかったら、いつでも連絡しておいで。鬼教師とちがって、丁寧に教えてあげるよ」
ワタルさんはナプキンを一枚取り、携帯番号とメルアドを書いて渡してくれた。お返しにあたしはその番号に電話をかけて、着信履歴を残す。
「なんだよ、どさくさに紛れて連絡先の交換? 油断もすきもあったもんじゃない。西田さん、ワタルには気をつけるんだぜ」
「そうだ。受験を控えた大切な教え子に、手を出してもらっちゃ困るなあ」
得能くんと水野先生の嫌味を、ワタルさんは軽く受け流している。あたしは返答に困って、
「じゃああたし、これで失礼します」
と頭を下げた。
得能くんにエスコートされて、あたしは店の外に出た。目に飛びこんだ風景に、思わず声が上がる。
「あ、綺麗な虹!」
いつのまにか雨が上がり、街の空気は冷やされて、さわやかなそよ風が吹いていた。
雨が空気中の不純物を洗い流したのだろう。街路樹の葉についた滴が、沈みかかった日差しを受けてきらめいていた。
澄んだ景色の中で、東の空には虹のアーチがかかっている。
ここまで大きくはっきりとした虹を見るのは、ほんとうに久しぶりだ。
夏の日に庭で作った手の平サイズもいいけれど、空にかかる虹の方がずっと素敵だ。
あたしだけじゃない。たくさんの人がそれぞれの場所から見上げているに違いない。
泣いていた人や怒っていた人のささくれだった気持ちを消してくれるのに、大きな虹に勝るものはない。
ライブで大成功を収めた人の気持ちは、さらに高揚感に包まれる。
あたしの声を聞いたワタルさんたちが店の外に出てきて、一斉に空を見上げた。
「うちのバンドの初ソロライブのあとに、虹が出るなんて。これはきっといいことあるな」
ワタルさんはパチンと指を鳴らしたあとで、スマートフォンで写真を撮り始める。得能くんは何枚も写して、ブログにどれを使おうかなんてひとりごとを言っている。
「ワタル、幸先いいぞ。おまえら、きっとビッグになる!」
水野先生の言う通りだ。あたしにもそんな未来が虹と重なって見える。
「今日は本当に楽しかったです。あたし、ここでライブを見られてよかった。また来ます。今度は同じ大学の学生として」
こんな気持ちになれるなんて、電車を途中下車したときは想像もできなかったことだ。
たくさんもらった元気と感動を胸に、あたしは踏み出した。
不思議だ。今のあたしにはどこからか力がわいてくる。
あたしにもできる何かが、きっと見つかる。
あたしの、あたしだけの大切な、だれにも譲れない夢を捜そう。
「虹の彼方の夢追い人か」
胸に刻みつけるように、あたしは小さくつぶやいた。
雨で冷やされた風は、心地よく頬をなでる。澄んだ空気が、夏の暑さをひととき忘れさせてくれる。
ほんとうに爽やかで、門出にふさわしいこの瞬間に出会えたことを、あたしは自分のことのように誇らしく感じていた。
大空にかかる虹と優しい風が街を飾る。真夏の日暮前、夕立あとの暑さが和らぐひとときだ。
新しいあたしを祝福しているようで、心がはずむ。
今日この瞬間から、あたしも仲間になろう。
虹の彼方に住んでいる、夢追い人たちの仲間に。
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