第9話 和解

 ふたりの表情が一瞬のうちに険しくなる。

 得能くんは視線を落とし、ワタルさんの目つきは鋭くなった。


 そうさせたのはあたしだ。

 最低だ。そんなこと思っていないのに……。

 心が自己嫌悪で一杯になる。


「確かにそのとおりだな。昨日のことは西田さんが怒って当然だ。それは謝るよ。でもそれはおれひとりのことで、ワタルたちとは関係ない。おれの態度だけで、仲間のことまで判断するのはやめてくれないか」

 得能くんの声は必死で感情を抑えている。でも握りしめた拳がわずかに震えている。


 ワタルさんたちが得能くんに無理矢理バンド活動をさせているんじゃない。

 得能くんの考えとやり方で参加し、仲間は受け入れ、見守っているだけだ。

 それはさっきのワタルさんとのやりとりで、十分わかっている。見知らぬ人物なのに尊敬し始めたのは、そういう事実を聞いたからなのに。


 ――あれはなんでも言いすぎだ。


 咄嗟とっさに出てしまった嫌味にも似たものだけど、一度口から出た言葉は消せない。


 でも一方で、今の得能くんのやり方を納得できないあたしがいる。

 進路先も講習会の参加も自分の意志で選んだことだ。それをサボるなら、こっそり逃げて帰るのではなく、自分の口で先生に説明すればいい。

 得能くんはその手間を惜しんで、結果的にあたしに後始末をさせた。


「おれのことを悪く言うのはかまわない。でもこれだけは忘れないでくれ。おれたちは遊びでバンドやっているんでも、流行りに乗ってやっているんでもないんだ。ロックはおれにとって、たったひとつ自分を表現できる手段なんだ。

 いいかげんかどうかは、おれたちの演奏を聴いてから判断してくれよ!」

 雨脚は強くなり、店内まで音が響く。


 たったひとつ、自分を表現できる手段。それがロックという音楽――。


 得能くんにとってバンドという存在は、自分の中からわきあがる何かを表現するための場所なんだ。

 何がそうさせるのだろう。あたしには知ることもできない大きなものがあるにちがいない。


 知らなかったとはいえ、心ない言葉で批判してしまった。

 大切な仲間たちとの活動を。

 心のなかで、あたしの言った言葉が何度も繰り返される。得能くんの話とともに。



「そうだよな。哲哉にとってうちのバンドは、そこまで大切なものなんだ。だったらなおさら、約束は守ってもらおう」

 それまで静観していたワタルさんが、急にあたしと得能くんの間に割りこむ。


「学校の勉強をサボらない。その約束を忘れたわけじゃないだろう?」

 あたしと話していたときのような穏やかな表情はそこにない。

 ああ、そうか。全然気づかなかったけど、さっきの鋭い視線で、ずっとあたしたちの会話を聞いていたのね。


「今やらなきゃいけないこと、見失ってないか? 合格しないと来年、もしかしたらこの先ずっと一緒にバンド活動できないんだぞ」

「でも、今日のライブは特別だろ!」

 得能くんは大声を張り上げる。けれどもワタルさんはまったくひるまない。


「今日に限ったことじゃない。ひとつひとつのライブは、すべて特別なものだよ」


「あっ……」

 その言葉に得能くんは、急に勢いをなくしてしまった。まるで何か大切なことを思い出したように。

 黙ってうなだれている姿を横に、ワタルさんはさらに続ける。


「クビだな」


 え? なんて言ったの?

 あたしは一瞬言葉の意味が理解できなかった。

 それほど衝撃的な一言を、ワタルさんは感情の混じらない淡々とした口調で告げた。


 得能くんは両手のひらでカウンターを叩く。大きな音が店内に響き、窓際にいたグループがこちらに視線を向けるのがわかった。


「っと、それだけは!」

「約束を破ったんだから、当然だろ」

 落ち着いた態度とは裏腹に、ワタルさんには有無を言わせない厳しさがある。


「サボってたことを隠してたのだって許せないね。今はサボる対象が勉強でも、そのうちバンドをサボってほかのことを始めてしまう。

 本気で活動をしていたら、いやになるときや投げ出したくなるときは必ずやってくるよ。そのときになって、今みたいに逃げ道を作っていられては迷惑なんだ」

 ワタルさんは得能くんの言葉に一切耳を貸さない。


 あたしのせいだ。あたしがあんな余計なことを言ったから、得能くんを追いこんでしまった。

 どうしよう。開演までそんなに時間が残ってないのに。

 こんな雰囲気の中で、いい演奏なんてできやしない。今日のライブが失敗に終わったら、バンドはどうなってしまうの? 得能くんの思いやワタルさんたちの活動は、どうなってしまうの?


 あたしは得能くんの想いも知らず、一面だけを見て人柄を決めつけていた。

 非難と嫉妬混じりの目で見ていた自分が情けない。

 だれにも譲れない大切なものを壊してしまった自分が許せない。

 なんとかしなきゃ。なんとかして、ワタルさんに許してもらわないと。


「あ……あの、ワタルさん……」

 あたしは思い切って口を開く。

 口の中が乾いて、絞り出すような声しか出ない。ふたりの視線が集中した。


「得能くんのこと、今回だけは許してください」

 あたしは立ち上がり、体をふたつに折るくらいに頭を下げる。


「た、確かに得能くんは講習会をサボったかもしれないけど……ええと、授業に出なかっただけで、そう、その分はちゃんとカバーしてます。

 あたし、得能くんのノートを見せてもらいました。だからわかるんです。講習会の進度なんて無視して、どんどん先に進んで……ほ、本当に一生懸命やってました」


 逃げてなんかいない。ギリギリのところで踏んばって、がんばっている。楽していい成績をとっているんじゃなくて、見えないところで努力を重ねている。

 今日のあたしは、その一端を見た。それなのにそんな簡単なことに気づいていなかった。いや、気づこうとしなかった。


「勉強はいつでもできるけど、ライブはそういうわけにいかないから……ひとつひとつが特別なものなら、き、今日のだってそうだし。

 得能くんが出られなかったら、それこそ取り返しがつかなくて……勉強をやめて他の道を選ぶかもしれないし……。そうなったらせっかくのバンドメンバーがいなくなって……だから……」

 何を言っているのか自分でもわからなくなってきた。


 おそるおそる顔を上げる。得能くんは困ったような、それでいて感謝するような目であたしを見ている。

「だからお願いします。今回だけは見逃してください!」

 あたしはもう一度頭を下げた。


「ワタル、おれからもお願いします! 二度と約束は破らないからっ」

 あたしたちふたりは、ワタルさんの前でずっと頭を下げていた。



 ワタルさんは何も言わない。

 しばらく沈黙が続く。ほんの数秒だったのかもしれない。でもあたしには、それが何時間にも感じられた。


「……困ったよ。本当は甘い態度を取りたくないんだけどね」

 ワタルさんの声に、あたしは頭を上げた。

 そこにあったのは、親しげな笑顔を浮かべたワタルさんだった。雨宿りをしていたあたしに声をかけてくれたときと同じだ。

 張り詰めた空気が少し緩む。


「沙樹ちゃんにそこまで頼まれたんじゃあ、許さないわけにはいかないか」

「ワタル、じゃあおれ……」

「今回だけ。沙樹ちゃんに免じて許すよ」


 得能くんは、やったー、という弾んだ声とともに右手を握って空高く掲げた。あたしもつられて、一緒に飛び跳ねる。良かったねと声をかけ、得能くんとつい固い握手をした。

 ふふっと笑うワタルさんの声が聞こえる。

 やだ、あたしったらつい興奮して。なんだか恥ずかしい。


「でも次はないからな」

 ワタルさんはすごんでみせたけど、目が笑っている。

「じゃあ、おれの出番はここまで。あとはふたりで決着をつけるんだよ」

 ワタルさんの言葉を聞いたとたん、得能くんは、しまったという顔をした。なぜ?


 いつのまにか仲間らしき人たちが顔を出して、こちらを伺っている。控室の入り口で、なぜかワタルさんとハイタッチしている。

 そして満足したような表情でこちらをチラッと見て、みんなは姿を消した。


 得能くんとバンドのことは解決した。でもあたしには、もうひとつやらなきゃならないことが残っている。

 深呼吸し、気持ちを落ち着ける。冷静になろう。パニックはもうごめんだ。


「得能くん、あたしがさっき言ったことだけど……」

「え、何?」

「いいかげんなバンドなんて失礼なこと言って……本当にごめんなさい」

「いや、それは西田さんが謝ることじゃないよ」

 得能くんはあたしに座るように促し、自分は隣に座った。


「西田さんの言う通りだよ。おれがいいかげんだったら、ほかのみんなも同じように思われてもしかたない。それがグルーブ、仲間ってもんだろ」

 得能くんは頭をかきながら、気まずそうに続ける。

「誤解される原因を作ったのはおれだからな。本当に昨日は、たくさん迷惑かけちまった。こっちこそ、ごめんなさいっ」

 逆に謝られてしまった。ええ……なんだか恐縮するよ。


 でもよかった。得能くん、もう怒ってない。

 ワタルさんがあの場で得能くんをしかったから、あたしは逆に謝りやすくなった。偶然とはいえ、ワタルさんに感謝しなきゃ。


「あーあ、またワタルにやられたよ」

「やられた? 何を?」

「さっきおれを叱っただろ。あれはワタルの作戦だよ。ワタルはおれがサボってたことを知っていたんだ。なんせ、スパイがいるからさ。きっと、注意するタイミングを見計らっていたんだよ。

 でもって偶然にもチャンスを見つけたもんだから、一番効果的なやり方で注意したんだ。おまけに西田さんとのわだかまりまで解決するとはね」


「スパイ? 知っていたって、どういう意味?」

「あ、いや……。スパイはさておき、あの状況じゃ、西田さんはおれの味方につくとわかったんだ。そうなればおれに対する誤解や、言ってしまったことも謝りやすくなる。そこまで計算したんだぜ、あの短い時間で」

「まさか、信じられない」

 あたしの行動まで計算済みだったの? でも、ワタルさんのことをよく知る得能くんが言うんだから、そうなのかもしれない。


「いつも一段高いところから見守られてるって気がするんだ。今のおれと西田さんの心理状態もお見通し。涼しい顔をして全部見透かしているなんて、メンタリストかよ」

 不満を口にしてはいるけど、なんだか楽しそうだ。

「バンドを始めるきっかけも、ワタルに仕組まれたようなものだからなあ。この力関係はずっと続くと思ってあきらめてるよ。

 もっともそのおかげで今のおれがあるから、文句は言えないか」

 そう言うと得能くんは何かを思い出すように、遠い目をする。頬に浮かんだ笑顔は、とてもまぶしくて、学校では見たことのないくらいにきらめいていた。

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