第8話 見つかりたくないのに

 あたしは一瞬、自分の目を疑った。

 控室から出てきた受験生はよく知っている人で、不幸の大元を作った人だ。


 そっくりさんじゃない。得能くん本人だ。

 あたしは慌ててふたりに背を向ける。


「昨日教えたのと同じだろ。まだまだ理解できてないな」

 得能くんが根を上げた問題を、ワタルさんが確認しているようだ。

「ちょっと傾向がちがうんだよ。あのやり方じゃ解けないんだぜ」

「おかしいな、練習問題だからそんなにややこしいはずはないんだが……」

 あの得能くんが悩むなんてどんな問題だろう。それなのにワタルさんはスラスラ解けるわけ?


 あたしは背中でふたりの会話を聞いていた。

 まちがいない。聞き覚えのある声と話し方は、得能くん本人だ。ただ幸いなことに、ワタルさんとの会話に夢中で、今はあたしに気づいてない。


 で、でもまさかこんなところに得能くんがいるなんて。

 これってたちの悪いジョークなの?


 できることなら気づかれる前に立ち去りたい。でもそれは無理だ。

 いきなり席を立ったら、逆に目立ってしまう。

 得能くんが早く問題を解き終わって裏に戻ることを願い、あたしは体を小さくして手元をじっと見つめる。

 心臓の音がワタルさんたちに聞こえるんじゃないかと不安に思いながら、ふたりの会話に耳を澄ませる。


「あっ、ここだ。単純な計算ミスだな。だから式がまとまらなくて、綺麗な形にならなくなったんだな。ミスも実力のうちだぞ。演習量が足りないみたいだな。問題集、まだ一巡してないのか?」

「バレちまったか。実はあと一章分残ってんだ」

「約束を果たせてないな。夏休み前に終わらせる予定だったんだろ?」

「すまない。三日でやり終えるから大目に見てくれ」

「……本当か? 嘘は許さないからな」

 会話の内容は深刻だが、声が明るい。いい雰囲気のバンドなんだろうな。


 あれ? ちょっと待って。

 同じバンドにいるってことは、得能くんはワタルさんたちの大学を受けるつもりだってことだよね。

 あれだけ成績いいんだもん。間違いなく合格するよ。


 唐突に、ワタルさんと得能くん、そしてあたしの三人で、見学してきたばかりのキャンパスを歩いているシーンが浮かんだ。


「えっ、おや……もしかして西田さん?」

 あちゃー、とうとう気づかれてしまった。

 てか、見つからないなんてありえないよね。


「あ、あら、得能くん。お元気?」

「お元気って、昨日も学校で一緒だったじゃないか」

 あたしたちがクラスメートだと知り、ワタルさんは目を丸くして、手にした赤ペンをカウンターに置いた。


「なんだ、ふたりとも知り合いだったのか。沙樹ちゃん、哲哉にライブのこと聞いて、来てくれたんだね」

「西田さんには話した覚えがないんだけど。だれかから聞いた?」

 得能くんは腕組みをして首を傾げる。


 あたしは軽いパニック状態になる。

 ワタルさんから聞かされて、勉強と音楽活動を両立している受験生のことを、尊敬し始めていた。すごい努力家だなって思ったら、あたしもがんばるぞって力がわいてきた。

 元気をもらったような気がしていた。


 なのに、その人物が……よりによって得能くんだったとは。


 昨日から続く不幸と苛立いらだちの発端は、得能くんにある。

 彼がサボらなければ、できもしない問題をあてられて恥をかくこともなかった。それ以前に教科書を覗きこんで大笑いしなかったら、水野先生に呼び出されることもなければ、引きとめ役を押しつけられることはなかったはずだ。

 得能くんさえいなければ、自分の中に嫉妬心というみにくい感情が生まれることもなかったかもしれない。


 その彼と、密かに尊敬しはじめた人物が、同じだったとは。


 言いがかりや逆恨みだってわかっている。でも理性では理解していても、感情は抑えられない。悲しいけれど。

 これ以上、負の感情にふりまわされたくない。あたしは一刻も早くこの場を去りたくて、問題集を乱暴に鞄に放りこみ、席を立った。


「どうしたの?」

 ワタルさんが不思議そうに問いかける。

 ばれるとわかって嘘をつくのは気が引けたが、しかたない。


「すみません。急用を思い出したんです。ワタルさん、数学教えてくださって、ありがとうございました」

 あたしは頭を下げて謝った。顔を上げるとワタルさんは窓越しに天気を確認している。

「雨まだ止んでないけど……傘、貸そうか?」


 嘘に気づいていながら、だまされたふりして傘まで心配してくれるなんて。ワタルさんって、本当にいい人だ。

 悲しいけれど、変に思われているだろうな。こんな去り方をしたら二度と会えないよ。

 あたしはふたりの顔を見ていられなくて、うつむいてしまった。


「なるほどね」

 得能くんがぽつりとつぶやいた。おそるおそる顔を見ると、怒ったような、そして同時に困ったような表情で、あたしを見ている。

「帰る原因はおれだろ。昨日のこと、怒ってんだな」

 つぶやくような声だったが、あたしだけでなくワタルさんにも聞こえたに違いない。

 解っているなら、どうして黙って見送ってくれないの?


 得能くんはあたしから視線を外そうとしない。

 認めない限り解放してくれそうにないつもりのようだ。嘘やごまかしを許さない目に追いつめられたあたしは、パニックのあまり、


「そうよ、昨日あたしが、どれだけ迷惑したと思ってるの? 得能くんみたいないいかげんな人がいるバンドのライブなんて、見たくないんだから!」


 勢いで出た言葉に一番驚いたのはあたしだ。

 ひどい。ワタルさんのことまで否定するなんて、あまりにもひどすぎる言葉だ。


 心にもないことを、口走ってしまった。

 ――本当に、心にも思っていないことなのに……。

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