第2話 沙樹のミッション(二)

 かといって余裕で合格圏内にいるわけではない。これから八カ月弱は勉強中心のハードな日々が予想される。

 でも何かを得るためには何かを犠牲にしなくてはならない。努力もしないで目標達成できるほど世の中は甘くない。今年一年がんばって、春には桜を咲かせてみせる。

 あたしはそう自分に言い聞かせ、くじけそうな気持ちを奮い立たせていた。自分がコツコツ頑張れるような努力家でもなければ、さらっと勉強しただけで優秀な成績をとれるような優等生でもないことは解っている。


「一年のときからずっと志望校に書いていただろ。ところが夏休み前のアンケートで急に変えるとは思わなかったぜ。おまえさえその気なら、補習でもなんでもしてやるんだが」

「いえ……いいです」

 魅力的な話だが、やり遂げるだけの自信がなかった。

「そうか。残念だけど無理強いはできないな」

 水野先生はアメリカ人みたいに肩をすくめたあとで、椅子に座り直した。


「それよりさっきの話だが、得能だけ帰したのは、あいつのことで相談があるからなのさ」

「あたしに、ですか?」

「あいつ、ここ最近講習会をサボってばかりだろ。いくら成績がいいからって、あれでは先々不安なんだ」

 先生はふっとため息をつく。それがあたしとどんな関係があるの?


「おれが何度言っても、得能は逃げ帰ってしまうんだよ。なんとか受けさせたいんだ。西田、学級委員としておまえさんの意見を聞かせてくれないか」

 それって学級委員の仕事なの?

 疑問を感じながら考えを巡らせると、ふとアイディアが浮かんだ。

「帰らないように、休憩時間のうちから目を離さなければいいんじゃないですか?」

「だよな。でもおれは授業の準備やらプリントの作成やらで忙しくて、得能の監視ができないんだよ」


「じゃあ、だれかがその役目を……」


 と言いかけたところで、胃がきりきりと痛んだ。

 良くないことの起きる前触れだ。あたしはおそるおそる先生に視線を移した。


「だろ、だろ。そういう仕事頼めるのは西田だけなんだよ」

「困りますっ。なんであたしがクラスメイトを監視しなきゃいけないんですか」

「そう言うな。これも学級委員の仕事だ」

「無茶言わないでくださいっ!」

 自分のことで手一杯なのに、他人の講習会出席まで気にする余裕はない。

 あたしはなんとかこの仕事を断ろうとしたけれど、先生は手強かった。「学級委員ならクラスメイトの行動くらい責任持て」だのという屁理屈を通され、最後は押し切られてしまった。



 さっきまでのことを思い出してふうっと深いため息をついたとき、講習会開始の予鈴が鳴った。

 上靴の先を見ながら力なく歩き、自分の席に戻る。

 予想通り得能くんは帰り支度をしていた。ぐずぐずしないであのあとすぐに帰ってくれたらよかったのに。


 気は進まなかったが、実績作りに声だけはかけておこう。

「今から数学の講習会よ。センター対策講座だから受けなきゃ」

「そうだね。でも今日は帰るよ」

「これで何回目? 評定に響かない?」

「あれ、西田さん、おれの成績を心配してくれるんだ。うれしいな」

「い、いや、そういうわけではないんだけど……」

 水野先生の頼みだとは言えない。

「何だ、がっかりだな」


 講習会には一定のルールがある。欠席回数に応じてテストの点を引かれるのだ。恐怖のペナルティ。

 あたしにとって数学はただでさえ点の少ない教科なのに、これ以上引かれてはマイナスになってしまう。だから絶対に休めない。

「早く鞄からテキスト出さないと。もうじき水野先生が来るよ」

「やっべー。もうこんな時間か。早いとこふけなきゃ」

 得能くんは今にも教室を飛び出そうとした。


「だめっ」

 あたしはとっさに鞄のひもをつかむ。動きを止められた得能くんは、あたしを見返した。

勘弁かんべんしてくれよ。今日と明日はどうしても抜けられない用があるんだ」

「抜けられないって、講習会のあとじゃだめなの?」

「講習会のあとか」

 得能くんは腕時計を見ながら、時間の計算を始める。


「だめだ、それじゃ間に合わない。遅れるとみんなに迷惑かけるから」

「そんなこと言ってちゃ……」

 評定に響くよ、と言いかけてあたしは口ごもる。

 数学の得意な得能くんには関係ない話だ。数学だけじゃない。全国模試で上位に名前が載るような人は、軽く実力で合格するのだろう。


「それともおれが帰ると、西田さんが困ることでもあるってのか?」

「実はそうなの。得能くん、今日くらい演習問題当たるころでしょ。なのにいなかったら、隣の席ってだけで、あたしが当てられるかもしれないでしょ」


 水野先生ならあり得る。帰られると本気で困る。

 ミッションクリアできなかったときの罰ゲームは、演習問題の板書以外考えられない。

「そのときはこれを使いなよ」

 得能くんは鞄を開き、一冊のノートを取り出した。

「これなに?」

「演習問題の答だよ」

「え? 本当? あ、ありがと……」


 あたしは勢いに押されてノートを受け取った。

 ページをめくると、今日の宿題分だけじゃなく、来週の分、いやもっとたくさん解いてある。講習会の進度に関係なく、自主的に進めているのね。夏休み前だというのに、テキストはほとんど終わっている。

 よく見ると、できなかった問題には別のきれいな筆跡で丁寧な解説が入っている。もしかして家庭教師に教わっているの?


「早いじゃない、もうここまでやって……」

 感心して顔を上げたとき、得能くんの姿は消えていた。

 数学の成績だけじゃなく、逃げることも超一流ときた。

 予想通りの結末だ。先生が注意しても帰る得能くんを、学級委員のあたしが引き止められるわけがない。

 来週も再来週も、いやこの先もずっと、こんなことをしなくてはいけないの?

 先のことを考えると、あたしは数学の講習会がますます憂鬱になった。

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