虹の彼方に

須賀マサキ

第1話 沙樹のミッション(一)

 まぶしい青空に白い雲が伸びる。飛行機だ。

 どこから来てどこに行くのだろう。

 あたしは額に手をかざしながら、目を細めて空を見上げていた。


 夏休み直前の土曜日の昼下がりに、何がうれしくて学校の廊下から外を眺めているのかと自問自答する。

 本当はここから抜け出して、夏をエンジョイしたい。だがこのあと始まる数学の講習会は、大学進学を希望している生徒は必修の講座だ。

 気持ちのいい天気なのに、苦手な教科に二時間も取り組まねばならない。

 それだけでも憂鬱ゆううつだというのに、さらに気の重くなる出来事がつい先ほど起きた。あたしはため息をつきながら四時間目の授業を思い返す。



 あれも数学だった。

 こんな勉強が大人になって役立つのかと疑問を感じつつ教科書を見ていたら、「ω」が目についた。顔文字によく使われる記号なので、何気なくドットと括弧かっこを書き足す。すると訳のわからない数式が急にかわいく見えてきた。

 数学も捨てたものではないと思った瞬間、隣の席からプッと噴き出す声が聞こえた。


 驚いて振り返ると、得能くんがあたしの教科書を横目で見ながら笑いをこらえている。

 そして黒板の前では、水野みずの先生がチョークを動かす手を止めて、肩越しにこちらをにらんでいた。

西田にしだ得能とくのう。おまえらあとで生徒指導室に来い」


 授業終了後、あたしたちは指導室に足を運んだ。そんなに悪いことをしたのかとあせるあたしとは対照的に、得能くんは動じるどころか涼しい顔をして、元気に扉を開けた。

「失礼しまーすっ」

 あまりの能天気さにあたしはひやひやしながら中をのぞいた。

 案の定、水野先生は威圧するように、眉間にしわを寄せ腕組みして座っている。あたしは一瞬にして金縛り状態になった。

 ところが得能くんは大きな声で「すみませんでしたっ」と深々と頭を下げる。あたしもつられてわびの言葉を言った。


 悪びれるようすのない得能くんの態度に、水野先生の仏頂面ぶっちょうづらがほころぶ。

 これはすぐに解放される。瞬間的にそう思った。

 だけど期待は簡単に裏切られ、笑った得能くんは無罪放免ほうめん、あたしだけが残された。

 どうして?


 得能くんが去った生徒指導室で、あたしは先生と向かいあって座る。

「西田沙樹さきくん。学級委員でありながら、担任の教科である数学の教科書に落書きするとは、たいした度胸だな」

 水野先生はあたしの教科書を開き、落書きされた部分をさした。怖い顔をしているけど、笑いをこらえているのは見え見えだ。

 あれ? 注意するのが目的じゃないの?


「すみません」

 今度は肩をすぼめて頭を下げる。でも先生は相変わらず笑いをこらえたままだ。

 あたしは訳が解らないのが嫌で、こちらから質問することにした。

「どうしてあたしだけが残されたんですか? 授業中断させたのは得能くんも同じなのに」

 すると先生は真顔になり、あたしの顔をじっと見つめた。


「おれは西田に大事な話があったんだ」

 と真剣な目をしたあとで、

「得能がいると邪魔になる」


 先生はあたしの耳元に顔をよせてささやいた。

 心臓が急にドキドキし、顔が熱くなった。

「あ、あの……」


 水野先生は教師になってまだ数年で、スーツを着ていても保護者には生徒にまちがわれる。評価の厳しい女生徒の中で、高得点の教師だ。

 放課後のマンツーマン指導を目的にわざと不合格点を取る女子もいる中で、あたしは本当に点が取れなくて呼び出されていた。

 年齢イコール彼氏いない歴のあたしは、こういうシチュエーションに免疫がない。


 先生は耳元で続ける。

「おれは、西田のこと、す……」

 あたしは体を左に傾けて先生から距離を取り、口元を歪めながら横顔を見た。

 先生は横目でちらっとこちら見て、にやりと笑った。

 えっ? にやり……?


「数学に対する情熱が、足りないと思っているんだっ」

「は、はい?」


 二、三度瞬きをして頭の中を整理する。

「す」は「好き」の「す」じゃなくて「数学」の「す」だった。

 モテるのをいいことに普段からこんなことをしているのだろうか。

 あたしは軽い頭痛を覚えた。


「そんなことが言いたくて、わざわざ呼び出したんですか」

「なんだよう。クールな反応しかしないんだな」

 時間の無駄だ。英単語を覚えていたほうがよかったじゃないの。

「情熱も何も、三角関数や微積分ができなくても、生活に困りませんから」

「直接は役に立たないかもしれないが、数学は大切なんだぞ。論理的な考え方を身につけるためにも、数学が……」

 数学オタクの演説が始まった。あたしは窓の外に目をやって、先生がしゃべり終えるのを待つことにした。


 エアコンの効いた生徒指導室にも、ガラスの向こうからせみの鳴き声が響いてくる。

 昨日梅雨明け宣言されただけあって、空の青まで真夏の到来を主張している。ビーチに行ってひと泳ぎしたら夏を楽しめるだろうな。一緒に行く彼氏はいないけど……などと、ぼんやり空想する。

 先生はあたしがろくに話を聞いてないのに気づき、途中で演説をやめた。


「それが西田の、数学への情熱か」

 情熱が足りないって言ったのは先生なのに。忘れたのかな。

「おまえの成績だが、数学さえなんとかなれば四月に出した第一志望も夢じゃないんだよ」

 それは自分が一番解っている。そこに行きたくて頑張った時期もあったが、あと一歩届かない。

 憧れと現実のはざまで迷い続け、志望校のランクをひとつ落とした。

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