第3話 小さな嫉妬心

 そのときあたしは、得能くんのノートをめくりながらいろいろなことを考えていた。

 水野先生からのミッションはクリアできなかったけど、どうでもいい。あれは学級委員じゃなくて教師の仕事だもの。


 それよりも気になったのは、得能くんが帰った理由だ。

 学校の授業より、もっと大切なことってなんだろう。先週も先々週もサボったのは、それが原因?

 何が得能くんをそこまで駆り立てるのかな。

 考えをめぐらせているうちに、あたしは得能くんの大切な用が気になってきた。


 ふと窓の外を見ると、野球部の姿が目に入った。

 地区予選優勝を目標に一生懸命練習している。もちろん遊びたいときだってあるだろう。暑い最中の練習なんて、だれだって嫌だ。それでも練習に打ち込むのは、甲子園に行きたいからだ。


 結局みんな同じだ。目標があるなら、ほかのものを我慢するのが当たり前。やりたいことすべてができるわけじゃない。

 あたしだっていろんなことを犠牲にしている。それなのに得能くんは、特進コースに在籍していることも忘れて、好きなことを優先させている。

 この時期に、大学に合格するよりも大切な何かを持っているってことなの?


 うらやましいな。


 ふと、そんな感情がわいてくる。

 うらやましい? 遊んでいても成績がいいことが? 受験の時期でも打ち込めるものを持っているってことが?


 あたしの中で小さな嫉妬心が芽生える。

 サボっていても成績がいい得能くん。生まれつき頭の出来がちがうんだ。いくらがんばってもあと少し目標に届かないあたしとちがい、ちょっと勉強するだけで抜群の成績を取っている。


 神様は不公平だ。

 得能くんみたいに能力を与えられている人を創るなんて。そんな人をあたしの近くにおいて、劣等感と嫉妬心を覚えさせるなんて。


 野球部員のかけ声と蝉の鳴き声が、教室まで響く。

 夏真っ盛りの土曜の昼下がり。青空はどこまでも高く澄み渡り、遠くに入道雲が見える。照りつける陽射しで気温が上がり、不快指数も上昇する、湿度の高い日本の夏。


 イライラする。


 当たり前の夏の光景に、どうしようもなくイライラさせられた。なぜこんな日にまで、勉強勉強で追い立てられなきゃならないんだろう。

 エアコンの効いた教室はそれなりに快適に過ごせるけれど、所詮しょせん、壁で囲まれた別世界にすぎない。外にいる人たちは夏を謳歌おうかしているのに、中にいるあたしたちは、季節と切り離されたままだなんて。


 もういやだ。遊びたい。飛行機に乗って遠くまで行きたい。

 こんな狭い教室に閉じ込められたくない。


 不満が爆発寸前になってもう少しで叫びそうになったときだ。あたしの机に人影が落ちた。

「で、西田クン。さっきから何回呼んだら、おれに笑顔を向けてくれるのかな」

 頭上からの声で我に返り、あたしは慌てて立ち上がる。


「え、いや、はいっ」

 大きな音をたてて椅子が倒れた。

 一瞬の沈黙。ひと呼吸おいて、教室は笑いに包まれる。

 ……あたしはいたたまれなくなって、足元に視線を落とした。


「わざわざ起立していただかなくても結構だよ」

 苦笑する水野先生に肩を軽く叩かれて、うつむいたままゆっくりと着席する。

「得能は?」

 引き止め作戦が失敗したことを解って訊いてくるなんて。意地悪。

 素直に答える気になれなくて、得能くんをかばうことにした。ノートのお礼もあるしね。


「あの、得能くんは……気分が……そう、頭痛がするからって帰りました」

 水野先生は笑うのを止め、意外そうな表情であたしをじっと見た。そしてあごに手を当ててあたしの顔をチラッと見ると、

「そうか。体調不良ならしかたないな」

 先生はいたずらっ子のような笑みを口元に浮かべた。


「じゃあ西田。かばったついでに、代わりにこの問題解いてみろ」

 ほぉら、予想通りの反応だ。お生憎あいにくさま。今のあたしには得能ノートという強い味方があるんだから。

 緩む口元を見られないように手で隠しながら、当てられた問題を見た。

 夕べ遅くまでがんばったけど、どうしても解けなかったやつだ。でもノートのおかげで、何が来ても平気だもん。


 ところが水野先生は、いきなり得能ノートを取り上げた。

「おお、見事に先の方まで解いてるじゃないか。これだけできるなら、ノートを見なくても解けるだろう。てことで、これはおれが預かっておく」

「……えっ?」

 茫然ぼうぜんとして取り上げられたノートを眺めていると、先生は表紙に書かれた名前を読んで、右の眉だけをひそめた。


「ほう、得能のノートか。西田、おまえこれで取り引きしたな」

 していない。

 いや、したも同じか。


「問題は自分で解いて、初めて実力になるんだ。人に頼ってどうする」

「そんなこと言っても、こんな難問、あたしにはとても……」

「情けない顔をせずに、解けるところまででいいから板書しろ」

「初めから、全然解りません!」

「戦う前から白旗掲げてどうするんだ」

「だって、数学はあたしの天敵だから……」

「なら積極的に解いて、味方になってもらうんだな。十五ページの例題と同じ解き方だぞ。黒板の前で少しは悩んでみろ」

「そんなこと言われても……」

「さっさと板書するっ」


 ひどい。あたしの慌てよう見て楽しんでいるなんて。サド教師じゃない。

 水野先生が人気者だなんて、信じられない。みんなマゾなの?


 絶望的な気持ちを抱いたあたしは、重い体を引きずるようにして歩き、やっとのことで黒板の前にたどりついた。

 当てられた人たちは淀むことなく答えを書いている。チョークを持って固まっているのは、あたしだけだ。


 あたしの脳内で得能くんは悪魔の格好をして、これまた悪魔の衣装を着た水野先生とともに、鎌の代わりに手にした問題集でねちねちと攻めてくる。

 あたしは胃がキリキリ痛むだけじゃなくて、ひどい頭痛まで始まった。

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