私の家と隣の家
泡盛草
私の家と隣の家
隣の家からは、今日も賑やかな生活音がした。洗濯が終わったことを知らせる軽やかなメロディ、掃除機をかける音、わんちゃんの鳴き声、女の子が奏でる可愛らしいピアノ。それはもう様々だ。勉強に飽きた私は、そんな雑音に耳を傾けていた。
隣の家のサイトウさんは、三年前に引っ越してきた。綺麗でスマートなお母さんと、細身で優しそうなお父さん、そして小学一年生の可愛らしい女の子りりかちゃんの三人家族だ。サイトウさん一家が挨拶に来たときは、こんな完璧とも言える家族が存在するのかと、私はパチパチと瞬きをした。
実際、サイトウさんはとても幸せそうな家族だった。すれ違えばいつも笑顔で挨拶してくれるし、時々家の中から楽しそうな声が聞こえた。
私はそれが、羨ましくて仕方なかった。
いや、私だって世間から見れば幸せな女子高生だ。だが、私は本当に幸せなのだろうか。父も母も仕事が忙しく、私はいつもひとりぼっち。父と母は私が寝た後に帰ってきて、起きる頃にはもう仕事に出かけている。そして休日は二人とも疲れ切って寝ている。毎日手紙のやり取りをしているとはいえ、そんな生活にだんだん気持ちもすれ違っていくような気がして不安だった。うちの家族は、いつか空中分解してしまうのではないかと。
シャーペンをくるくると回しながら、私は頬杖をついた。
そうだ、どこかへ旅行することを提案してみてはどうか。隣のサイトウさんだって、先月旅行に行ったらしいじゃないか。りりかちゃんが「おみやげ」と言ってキーホルダーをくれた。
私は勉強を中断し、早速スマホでおすすめの旅行先を調べ始めた。ふんふん、近場で東京観光、思い切って北海道に温泉旅行、いやいや歴史好きな母のために京都に行くか? それともテーマパーク? ハイキング? たくさんのサイトをスクロールしながら考える。
やがて候補を三つに絞った私は、机の引き出しからレターセットを取り出した。候補地のおすすめスポット、グルメ、泊まる場所を書き出し、一番最後に「旅行に行きませんか」と書いた。
よし、これを机の上に置いておけば父も母も見てくれるだろう。
その夜、私はウキウキとしていた。開けっぱなしの窓から、今日も隣のサイトウさん家族の楽しそうな笑い声が聞こえる。旅行に行けば、私たちだってこんな風に楽しく談笑できるだろう。仕事を頑張るのも偉いが、家族団欒の時間だって必要なのだ。私は期待しながら布団に入った。
次の日、机の上には
「いいね! 行ってみよう!」
「最近あまり家族で過ごせてなかったから、良い提案だね!」
と書かれた付箋が付いていた。
「やった!」
私は何度も飛び跳ねた。
その時だった。
窓の向こうの、隣のサイトウさんの家から
「ガシャン!」
と大きな音がした。
「何の音⁉︎」
私は慌てて窓に駆け寄った。隣の家から怒鳴り声が聞こえてくる。
「なぜ皿を割った!」
「手が滑って……! ごめんなさい!」
りりかちゃんの声だ。
「違う、今のはわざとだ!俺とあいつのケンカに腹を立てたんだろう!」
「違うよパパ!」
「そうよ! 今のはりりかがお皿を運んでくれただけ。私たちのケンカのせいにしないで!」
「あぁ、もう! 毎日毎日ケンカばかり! 俺たちは離れて暮らしたほうがいいな!」
いつもは優しそうなりりかちゃんのお父さんの、激しい怒鳴り声が聞こえた。バタンと大きくドアが閉まる音が響く。どうやらりりかちゃんのお父さんは家を出て行ってしまったらしい。後から、お母さんの泣き声が聞こえてくる。
「もう、こんなの嫌! あんな人だとは思わなかった。知ってたら結婚しなかったのに……!」
「ママ、泣かないで……」
りりかちゃんがお母さんを慰めながら、戸惑っている。
私はいたたまれず、窓を閉めた。嫌なものを聞いてしまった。隣の家の事情を盗み聞きしたも同然となってしまったことに、ひどく罪悪感を覚えた。
羨ましいと思っていた、「完璧な」家族。その生活は、実際はどんなものだったのだろう。
その後、私は家族みんなでの旅行が叶った。旅行はとても楽しく、家族の仲が深まった。すれ違っていると思った家族は、本当はそんなことはなく、お互いのことを常に思いやっていたということがわかった。「私たちは、あなたのことをとても大切に思っているよ。いつもあまりゆっくり過ごす時間が取れなくてごめんね」と言われたときは、涙が出た。父と母は旅行後も数日お休みを取ってくれて、穏やかに過ごした。
だからこそ、隣のサイトウさん家族のことが気になった。一体、あの後どうなったのだろう。サイトウさん家族はバラバラになってしまったのだろうか。
後日、近所で噂話をしていたおばさんたちから話が聞こえてきた。サイトウさんのお父さんとお母さんは、結局離婚まではいかないものの、修復不可能な仲になってしまったらしい。言葉にしてしまえばあっさりとしているが、私は大きな衝撃を受けた。あんなに仲が良さそうだった家族が……と。聞けば、りりかちゃんは二年前から病を患っていたらしい。どんな病かはわからないが、きっと大変だったのだろう。それから、りりかちゃんの病状や治療方針でかなり揉めたらしい。りりかちゃんも、自分が原因ということにとても心を痛め、元気がなくなってしまったそうだ。その後もケンカの日々が続き、ついに限界が来たのが先日、ということらしかった。
完璧で幸せそうな家族だと思っていたが、本当は違った。時々聞こえてきた笑い声も、テレビから流れるものだったようだ。そういえば、りりかちゃんが前にくれた「お土産」のキーホルダーも、どこでも買えるものだった。りりかちゃんはあの時、どんな気持ちで笑っていたのだろう。
そう考えると、私たち家族の方が何倍も幸せだと言える。
私はこのとき初めて「この生活が良い」と思った。
私は今、とても幸せだ。
私の家と隣の家 泡盛草 @Astilbe
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます