第27話 私に残る高田さんの痕

 大変なことを。


 大変なことをしてしまった……


 小気味いい音を立てて、黒板に数式が綴られていく。でも、私の板書をする手はさっきから止まったままだ。


 数学が苦手な私は、いつも機械的に板書をしているだけ。いまはそれすらできないでいる。先生の言葉は、私の耳を右から左に素通りしていく。



「安芸さん、聞いているの?」


 よそ見をしていたら、名指しで注意されてしまった。


 起立させられると、クラスの視線が一瞬私に集中する。イヤだな、この感じ。


 罰なのか、すこし難しめの質問をされる。私は答えることはできない。



「分からないの? 先週やったばかりですよ」


 ネチネチと嫌味を言われる。まあ仕方ない。怒られるのはこれが初めてじゃない。先週から数えて三回目だ。


 それにしても、なんとも憂うつな時間だ。


 数式とおなじように、先生の言葉は私の耳を素通りするなか、私の耳が拾ったのはたった一つの単語だ。



 先週――。


 高田さんの息遣い。


 高田さんの体温。


 高田さんの仄かな甘い香り。



 思い出すのはそんなことばっかりだ。私の頭の中は、高田さんで埋まってしまっている。


 時間が経てば記憶は薄れてくれると思ってた。


 でも、実際は逆だった。時間が経てば経つほど、記憶はより鮮明になっていく。


 当然だ。


 あんなこと、したのは初めてだった。


 あんな、恋人同士がするようなこと。


 正直、動揺しきりだ。平静を装うのでやっと。ろくに目を合わせることさえかなわなかった。



 高田さんは私に、そういう〝お願い〟をしたことはない。


 セックスはもちろん、キスだって。


 にもかかわらず、私たちはキスをした。ああいう結果になったのは、本当に偶然だと思う。


 私がノートを忘れなかったら。高田さんが私を誘わなかったら。雰囲気に流されなかったら。


 どれか一つでもかけていたら、きっとあんな結果にはならなかったに違いない。



 考え事をしていたら、憮然としていると思われたらしい。先生の口調は、さらに厳しいものになる。


 けれど、そうなっても、私の頭を支配しているのは高田さんだけだ。


 その彼女は、私のほうは見ずに、板書を続けていた。




「安芸、今日も怒られてたね。なんかすっかり先生に目をつけられた感じ」


 休み時間がやってくると鈴木もやってきて、からかうように言った。


「寝不足なの。仕方ないでしょ」


「最近そればっかり言ってる。マジなら病院行ったほうがいいって」


 呆れたような言葉。でも、同時に心配もしてくれているらしい。



 これはべつにウソじゃない。最近は、眠ると高田さんの夢を見てしまうから。


 高校の教室はそれほど広くない。だから探すまでもなく、高田さんの姿は目に入る。


 当然のことだ。これは仕方のないことなんだ。私が意図したわけではないから。



「ほんと気をつけなよ。じゃないと職員室に呼び出されるかもよ」


「それは分かってるんだけど……」


「安芸って意外と不真面目だよね。見た目は優等生なのに」


 失礼な。ていうか、似たようなこと高田さんにも言われたっけ。


 私、人からはそういうふうに見られてるんだ。



「そういえばさ」


 急に声を潜めた鈴木。なんだろうと思っていると、ちょっと身を乗り出してくる。


「キスマークって、いつまで残るのかな?」


 思わぬ単語にドキリとする。私は一呼吸おいて尋ね返す。


「急になんの話?」


「じつはさ……」



 ビックリして声を出しそうになった。


 塾でカレシができた鈴木は、キスをしたらしい。成り行きでそのさきにまで進んで、初体験まですませた。その過程でキスマークをつけられた……


 カレシができたっていうのは聞いてたけど、そこまで関係が進んだなんて。なんかすごい。さきに大人になられたような感覚だ。



「どれくらい残ってるのかなぁ? 着替えのときとかやだなぁ」


 結局のところ、カレシのことを話したい気持ちもあるらしい。


 鈴木の言葉には、懸命に押し殺しているにもかかわらず、一種の自慢めいた響きがあった。


「どうなんだろうね? 私もよく分かんないや」



 知らず知らずのうちに、私の手はブラウスの上から胸元に触れる。


 鈴木とおなじだ。


 私の胸元には、まだ高田さんがつけたキスマークが残っている。



「どうしたの? 最近、よく胸元押さえるよね。ケガでもしてるの?」


「なんでもない。気にしないで」


 そう言いつつも、私の手は胸元を離れない。誤魔化すようにネクタイをいじくりつつ訊ねる。


「それよりも、カレシ……坂下さかしたくんだっけ? どういう人なの?」


「えー、知りたい? あのねあのね……」


 どことなくうれしそうに、鈴木は話し始めた。



 鈴木と坂下くんは恋人同士。


 でも私と高田さんは恋人じゃない。それなのにキスをした。恋人同士がするように。


 期待しそうになる。高田さんとのことを。


 たぶん、あのキスに深い意味はない。いつもとおなじ、高田さんの気まぐれだ。



 鈴木の話を聞きつつも、私の目はふたたび高田さんを捉える。


 彼女は、どうしてキスしたのだろう? どうして胸元にキスマークをつけたのだろう?


 くすぐったくて、生暖かい……


 体がゾクリとしたけれど、なぜかイヤではなかった。それはやっぱり、私が高田さんを好きだからなのだろうか?



 分からない。


 高田さんの気持ちも。


 自分の気持ちさえ、ぐにゃりと渦を巻いて、闇の中に消えていくようだった。



 ふたたび胸元に触れる。


 あのときの感触が、蘇った気がした。

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