第24話 私は安芸と触れ合いたい

 安芸の家に行くまえに買い物をするのは、いまでは普通のことになっている。


 けど、その買い物に安芸が同行しているというのは普通のことではない。


 通算二回目。以前タコパをしたとき以来だ。


 そもそも、私たちは基本的にいっしょには帰らない。別々に帰って、そのあと家で合流するのがパターンだ。私は恵理子たちと予定があるし、安芸は鈴木と帰ってしまうから。


 いっしょに帰る今日のほうが珍しい。それに今日行くのは安芸の家じゃない。私の家だ。



「ねえ、今日カレーでもいい?」


「いいけど……私、甘口しか食べないよ」


「いいよ。じゃあ甘口で」


 お金は出してもらえるからといって無駄遣いはできない。


 私は値札とにらめっこしつつ、すこしでもいい物をと商品とにらめっこしつつ、かごに入れていく。



 買い物をして、カレーを作る間、安芸はずっと無言だった。


 仕方なく、食べ始めたときに私から口を開く。



「うん、我ながらおいしい。安芸はどう?」


「おいしいけど……高田さんも? 甘口なのに」


「まあ、カレーだし。普通においしいよ。でもやっぱり私は辛口派だなぁ」


「じゃあ、どうして甘口にしたの?」


「だって安芸はお客さんだし。優先しなきゃでしょ」


 安芸は私をジッとうかがうように見た。けれど、なにも言わずに食事を続ける。



 甘口のカレーなんて、ちいさいとき以来だ。いつもと違う味は、なんだか物足りない感じがする。


 ふと視線を落とすと、お皿を押さえる安芸の手が目に入った。


 ちいさい。それにあまり外に出ないのか色が白い。


 触れてみる。



「なにっ?」


 安芸はビックリした様子で私の手を振り払った。


「まえにケガしたとこ、もう治ってるかなって」


「とっくに治ってるよ。結構まえの話だし」


 食事を続けて私の部屋へ、適当にくつろいでて、とクッションを勧めると、



「いい。ノート返してくれる?」


「なんか、一刻もはやく帰りたいみたい」


「そういうわけじゃないけど……」


 はい、とノートを差し出す。安芸の手がそれをとろうとしたとき、私はノートを引っ込めた。



「なにしてるの?」


「返すまえに私の質問に答えてくれる?」


「高田さん、なんかズルい」


「ズルいのは安芸のほうでしょ」


 安芸はあきらめたようにため息をついて、「なに?」と目顔で訊いてくる。



「昨日のこと」


 それで分かるはずだ。これ以上言う必要はない。


 沈黙。


 部屋には時計の秒針の音だけが響く。


 何分にも感じられたけど、実際は数秒だったかもしれない。なにかを言おうと、安芸が息を吸う音が聞こえた。



「〝お願い〟ってこと? なにしたらいいの?」


「分かるでしょ?」


「分からない。ちゃんと言って」


「言わせたいんだ」


「そういうわけじゃないけど」


 安芸は私から視線を外して、なにやら体をよじるように動かした。


 反射的に、安芸の手をつかむ。今度は振り払われることもなく、かといって握り返すこともなく、黙ってその場にとどまっていた。



「……キス」


 これからすることは、私一人で決められることじゃない。


 かといって、安芸一人に責任を負わせるようなことはしたくない。


「しようよ。二人で、いっしょに」


 安芸は軽くあごを引いた。私にはうなづいたように見えた。



 互いに体を寄せる。


 安芸の頬に触れ、髪をすく。


 私とは違う長い黒髪はサラサラしていて、絹みたいだと思った。


 一方の手で安芸の手を握ったまま、もう一方の手は頬に添える。すると、安芸の手に力が入った。つまり、私の手を握り返してくれたのだ。


 お互いの距離が、どんどん縮まっていく。さっきは外れた視線が、ふたたび重なった。



「……目、閉じないの?」


「高田さんこそ」


 このままじゃ押し問答になりそうだ。素直に目を閉じる。安芸もそうしたかは分からない。


 それでも、私は目を閉じたままにした。



 緊張は、思ったよりもしていない。


 安芸はどうなんだろう? 分からない。目を閉じているから、安芸の表情はうかがえない。


 吐息は安定しているのが分かる。距離が近くなっていくのも、しっかりと感じる。



 そして、安芸と私の唇が重なった。


 やわらかくて、それに温かい。


 さっき食べたカレーの味とか、そのあとに食べたアイスの味とか、どっちもしなかった。


 ただ、安芸という人間をいままでにないほど身近に感じて、それに満たされた気持ちになった。



 唇が離れる。


 目を開くと安芸と視線が合った。けれど、彼女はサッと視線を逸らしてしまう。


 もう一度したい。


 そう思って体を引き寄せると、押し返されてしまった。



「も、もう十分でしょっ。おしまいっ」


 耳まで真っ赤に染めた安芸が、そっぽをむいて言った。


「ケチ」


「うるさい」


「じゃあ、イヤだった?」


「そういうの訊くの? 雰囲気台無し」


 今度は不貞腐れたように言った。けれど、顔が真っ赤なままなのでいまいち締まらない。



 そもそも、私たちの間に雰囲気があったか怪しいものだ。


 なかったと思う。私もいっぱいいっぱいだったし、そんなこと考える余裕はなかった。



「どうしてもダメ?」


 すると、安芸は迷ったように私を見た。けれど、結局すぐに視線を逸らしてしまう。


「ダメ。今日はもうおしまい」


「今日は、なんだ?」


「高田さん、揚げ足とらないで」


 怒ったような、照れたような、まんざらでもないような。


 複雑な感情の混じった安芸の言葉。それが妙におかしくて、うれしくて、私はクスリと笑ってしまった。



「どうかしたの?」


「なんでもない。もっとゆっくりしていくでしょ? まだ時間はやいし」


「……じゃあ、お言葉に甘えて」


 安芸がこの間読んでいた読みかけのマンガを持ってくる。


 彼女は「ありがとう」と言って手を伸ばし、それを読み始めた。



 初めてのキスの感想は……じつはよく分からない。まだまとまっていない部分があるから。


 分かったのは、安芸が私を受け入れてくれたこと。それは、私を憎からず思っているということだ。


 それは私もおなじことだ。安芸が、安芸とのこの時間が、自分でも思っていた以上に気に入っているらしい。


 でも、それを言うタイミングは逃してしまった。ていうか言えるわけがない。なんか恥ずかしいし。ただ……



 この時間が、すこしでも長く続いてほしい。


 安芸にもそう思っていてほしいって思う。

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