第23話 安芸のあんな顔見たくなかった

 やってしまった。


 安芸がいなくなって一人になった部屋のなか、私は茫然としていた。



 え……だって、え?


 私がなにをしようとしていたのか、安芸は分かっていたはずだ。


 さきにしてきたのは安芸なんだから、逃げる権利はないはずだ。ましてや、泣くだなんて。


 これじゃ、私が悪いことをしたみたいじゃないか。



 ……いや、したのか。しちゃったのかな。


 泣いたってことは、逃げられたってことは、そういうことだよね。


 いや、どうしてだ。


 私はいままで、そういう〝お願い〟をしたことはない。だって、私たちはそういう関係じゃないから。



 私たちは友達っていえるかどうもか微妙な関係だ。


 それでも、悪くはない関係だったはずだ。すくなくとも、私は良好な関係を築けていると思っている。


 私の〝お願い〟を安芸は聞いてくれた。目をつむって、私に身を任せようとしてくれた。



 安芸は、私を受け入れてくれると思ったんだけどな……


 自分で思っている以上にショックを受けていることに、自分で驚いた。



 ……いや、なんでだ。


 拒絶される意味が分からない。


 だって、安芸は私にキスをした。それなのに、私のほうからするのはダメってこと? そんな勝手な話ってある?


 場所がいけなかったんだろうか。安芸は頬にしてきたけど、私はべつの場所にしようとした。


 もっと、特別な場所に……



 分からない。


 安芸の考えていることが私には分からない。


 ショックを受けたと同時に、私はなんだかムカムカしてきた。


 どうしてこうなるんだ。さきにキスしたのは安芸のほうなのに。


 きっと勉強のせいだ。宿題をやったせい。


 私はもともと勉強がキライだ。必要なことだから、仕方なくやっているだけだ。それでイライラしているんだ。そうに違いない。



 とにかく安芸と話さなきゃ。でも……


 明日から、なんとなく避けられそうな気がする。


 関係ない。


 なんとかチャンスを見つけて、話さなきゃ。そうしないと、全部終わってしまう気がするから。



 しかし、私の心配は杞憂に終わった。


 運は私に味方した。私たちは、また日直になったのだ。


 いっしょに黒板を消して教材を運んで。


 そんな他愛もない仕事をする。


 安芸は私を避けるかと思ったけど、そんなことはなかった。


 それどころか、普通に接してくる。まるで何事もなかったかのように。



「高田さん、どうかしたの? なんだかよく見てくるけど」


 放課後。日誌をつけているとき、安芸が怪訝そうに訊いてきた。


 ……ちょっと踏み込んでみよう。



「昨日、だれかが泣いたのを見た気がしたんだけど、夢だったのかな?」


 イジワルな言いかたかなと思って、言ってから後悔した。でも……


「うん。気のせいだよ、きっと」


 とくに気にした様子もなく安芸は言った。クスリと笑ってふたたび日誌を書き込んでいく。


 このままにするつもりなんだろうか。


 このまま、全部なかったことにするつもりなんだろうか。



 そんなのってない。


 安芸との関係がこれで終わってしまうなんて、絶対にイヤだ。


 もう一歩。


 もう一歩踏み込まなくちゃ。



「安芸。昨日のことなんだけど」


 しかし、安芸は目立った反応は見せなかった。


「ノート、うちに忘れていったでしょ。取りにおいでよ」


 ピタリとペンが止まる。でもそれは一瞬のことで、すぐにまた動き出す。



「いいよ、べつに。あげる」


 予想外の言葉に、思わず「えっ」と声を上げてしまった。


「いやいや、ノートなくちゃ困るでしょ?」


「もうほとんど使い切ってたし、平気」


 そういう問題じゃないでしょ。と思ったが、安芸は大丈夫と言い張り、



「じゃあ、明日学校に持って来て。それでいいでしょ」


 安芸がなんだか強情だ。そういう態度をとられると、私まで意固地になっていく。


「ダメ。取りに来てよ。私のお願い、今日は聞いてくれないの?」


「高田さん、なんかズルい」


「安芸が強情だからだよ」


「強情なのは高田さんでしょ」


 べつにケンカをしているわけじゃない。


 これはいつもとおなじ、軽口だ。そう、いつかやった、卵焼き論争のような。


 顔色を窺わずにすむ気楽な関係。この関係を、私は続けたがっているんだ。



「どうしてそんなに部屋に呼びたがるの?」


「分かってるくせに」


 この期に及んでとぼけようとするなんて。ちょっと往生際が悪い。


 安芸は私をジッと見てくる。しかし、やがて視線を外すと、ため息をついて肩を落とした。

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