第5話 安芸といると安心するなんて気のせいだ

 朝、学校へ行くまえの時間はいつも憂うつな気分になる。


 学校がキライなわけじゃない。ただ朝が苦手なだけだ。


 でも、今日はいつも以上に憂うつだ。洗面所の鏡のまえで、私はため息をつく。



 前髪が邪魔になってきたので切ったら、思ったより短く切ってしまった。


 引っ張ったところでもちろん意味はない。私はもう一度ため息をつくしかなかった。


 恵理子には絶対指摘されるな。それも憂うつだ。安芸なら、きっとなにも言わないんだろうけど。



 夏休みも終わって、今日から新学期。


 結局、夏休み中、安芸とは一度も会わなかったな。私からは連絡しなかったからっていうのもあるけど、むこうからも連絡は一度もなかった。


 私は恵理子たちとカラオケに行ったり、海に行ったり、夏祭りに行ったりしたけど、安芸も出かけたりしたのかな? まえに出不精って言ってたけど……



 恵理子たちとの雑談中、私はふと安芸へと視線を送る。彼女はいつも通り、自分の席で本を読んでいた。いつも話をしている友達……鈴木すずきは、まだ来ていないみたいだ。


 私たちは、学校ではほとんど話さない。ていうか、安芸が鈴木以外と話しているところをあまり見たことがない。


 だから、鈴木がいないと安芸はいつも一人でいる。


 さみしくはないんだろうか? むなしかったりしないんだろうか?



「美玖ってさ、最近、気づけば安芸さんのこと見てるよね」


 恵理子はスマホをいじりつつ、あまり興味なさそうに言った。


「だれかをそんなに気にするなんて、いままでなかったじゃん。らしくないよ」


「うん。そうだよね……」


 私らしくない、か。


 私らしさって、いったいなんだろう……



 私は昔から人に合わせたり、空気を読んだりすることが得意だった。


 私が恵理子に気に入られている理由は、たぶんそこにあるんだろう。私はいつでも、彼女が望んでいることを察しての言動をするから。


 正直、億劫に感じることもある。けれど、それで私たちの関係がうまくいくのであれば十分な結果だ。



 だから、これは気のせいだ。


 安芸となら、そんなことはしなくていい。気楽に付き合える。いっしょにいて楽しいと思ってしまうのも。


 きっと、気のせいだ……




 ――いまから家に行ってもいい?


 放課後。私と恵理子を含めた男女混合グループでボーリングに行った帰り。


 二次会のカラオケに行くというのを用事があるからと断って、私は安芸にメッセージを送った。


 待つほどもなく、返事が来る。



 ――いいよ。


 そっけない返事。なぜだかそれが心地いい。


 時間を確認すると、結構いい時間だった。安芸の家でゴロゴロしていたら、あっという間に夕食の時間になりそう。


 いままでにも何度かごちそうになったことはある。


 安芸の家は共働きで、夜遅くにならないと両親は返ってこないらしい。だから私も、とくに気を遣うことなくごちそうになれた……


 ていうのはウソ。やっぱり人の家でとる食事はちょっと気になってしまう。たとえインスタント食品だとしても。


 帰るって言っても、私がいっしょに食べたいからと言って、彼女は夕食を分けてくれた。



 いつもそうなるっていうのは、さすがに気が引ける……


 そうだ、夕食の材料を買って行って、私が作ろう。それなら気兼ねする必要もない。


 私は「じゃあいまから行く」と送ってから、近くのスーパーにむかった。




「はい、これ。冷蔵庫入れといて」


「? なにこれ」


「ハンバーグの材料。今日の夕食は私が作るよ。二人分」


「え、いいよ。なんだか悪いし」


「いいからいいから」


 スーパーの袋を半ば強引に安芸に押しつける。彼女はしぶしぶ受け取り、それを冷蔵庫に入れた。



「宮原さんたちといたの? どこ行ったの?」


「ボーリング。なんだか疲れちゃった。横になりたい気分」


「人の家でくつろげるタイプなんだ?」


 クスリと、安芸がからかうように言う。


 それからのんびりとした時間を過ごして、いい感じにお腹もすいてきた。



「じゃあ、そろそろ作りますか」


「私も手伝う。見てるだけじゃ暇だし」


 安芸の申し出に、しかし私はえっと口ごもる。


「なにその反応?」


「いや、だって……」


 卵焼きも作れない人間に、果たしてハンバーグが作れるのだろうか?


 まあ、いっか。せっかくやる気みたいだし。



「じゃあ、ニンジン切ってくれる? 付け合わせにするから」


「分かった」


 と自信満々な安芸。でも私はすぐに悟った。


 彼女は、包丁を持ってはいけないタイプの人間なんだと。



「ちょっと安芸! 手、手! 猫の手にしなきゃ! ていうか皮もむいてないでしょ!」


「猫の手? 皮?」


 なんのこと? とでも言いたげに首をかしげる安芸。ウソでしょ。


「やっぱり私がやるよ」


「いいの。私がやるから」


 強情なやつめ。仕方ない。


「じゃあ、いっしょにやろ」



 結局私が根負け。皮をむいて、それから改めてニンジンを切ることに。


「じゃあ、行くよ」


「う、うん……」


「手は、こうして猫の手にして、切るものを押さえるの」


 調理実習で習ったことを、そのまま安芸に伝える。



 私は安芸の後ろから、彼女の手に自分の手を重ね、包丁もいっしょに握って、ゆっくりとニンジンを切っていく。


「こうしないと、指切っちゃうかもでしょ? だから気をつけなきゃ」


「なるほど」


 納得した様子で言った。ていうか、安芸も習ったはずなんだけどな。忘れてるのか聞いていなかったのか。



「そういえば……」


「え、なに?」


 不思議そうな安芸の声。


「いや、なんでも。まえに読んだ少女マンガ思い出して。ヒロインが指を切ったら、それを舐めてもらうってシチュがあってさ」


「……高田さん。私の指舐めたかったの?」


「そんなわけないでしょ! ちゃんと話聞いて!」



 そんなこんなで作り終わり、私たちは二人合わせて「いただきます」を唱和。食事を始める。


 うん、おいしい。作ろうと思ってた、ふわっとしたハンバーグだ。上に乗せたチーズもいい感じ。



「どう?」


「おいしい。高田さんて本当に料理うまいんだ?」


「ひどっ。信じてなかったの? 卵焼きもおいしかったでしょ」


「まあ、私の好きな甘口だったし」


 なんて言いながら、目玉焼きを乗せたハンバーグを一口食べている。


 好みは半熟。そこも私とは逆だ。私はパリッとした固めのが好きだから。


 とりとめのない会話をしながら、私たちは食事を続ける。たまに挟まれる沈黙すら心地いいと思えるようになった。


 やっぱり、私はこの時間が好きだ。


 なんてこと、もちろん口には出さないけど。そんな感じで、安芸との時間を過ごして、



「ただいま」


 今日も今日とて、お帰りが返ってこない家。その中は真っ暗だった。


 お母さんは、仕事で忙しくてほとんど家にはいない。お父さんは、そんなお母さんに愛想をつかして外に女の人を作って出て行った。


 だから私は、家では独りぼっちだ。兄妹もいないし。


 リビングの電気をつけると、テーブルの上になにかが置いてあるのが見えた。



 手紙と五千円札。


 夕食はこれですませてください、と簡素な文が書いてあった。


 それには触れることはせず、私はバッグをソファーに投げ出した。


 そして、それからシャワーを浴びに浴室へむかった。

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