1. 理由

「K子、本当に行くのね」

 小綺麗な玄関先でスニーカ-の紐を結んでいると、後ろから母が話しかけてきました。外が暗いからでしょう、玄関扉のすりガラスに私と母のような人影が映っているのが見えます。

「うん」

 そう短く応答した私に、母は小さくため息を漏らしました。

「結局、何が不満だったわけ?」

 冷静な声色とは裏腹に、明確に怒気を含んだ言葉遣いと、トントンとスリッパがフローリングを叩く音。

「特に、何も」

 私はまたも短く返して、黒くて小さなキャリーケースの取っ手を伸ばしました。トントン、という音は次第に大きくなっていきます。私は、母のこういうところが大嫌いでした。

 「じゃあ、また会ったら」

 私は母に一瞥いちべつもくれず、片開きの玄関扉を押して家を出ます。夏の生暖かい夜風が、むわっと顔を撫でました。最後にまた何か言われるのかな、怒られなければいいな、なんて考えていましたが、結局母は何も言いませんでした。玄関前の階段を下りて、駅へと向かいます。トン、トン、と私の靴が階段を叩く音が、先ほどの母を思わせていやな気分になりました。遠くに目をやると、深夜だというのに、まだ明かりがいくつも残る高層ビル群が見えます。

「清々する」

 ぽつりとつぶやいて、足を速めました。明日からは真っ黒い山が見えるだけになるだろうな、なんて考えていました。


 今まで住んでいた東京から何処か田舎に移住しよう、と決意したのは、実際のところ「ただ何となく」というのが本心だったりします。穏やかで大好きだった父が亡くなったからとか、それで元々口うるさかった母がヒステリーを起こすようになったからとか、バイト先のコンビニの店長がハラスメント気質で気持ち悪いとか。もっともらしい理由を挙げようとすればできなくはありませんが、どれもそれだけのせいで家出するとは少し言いづらいような理由に思われて、何となくってことで自分では納得しているのです。ただ考え始めたきっかけはあって。昨年の12月、私の誕生日でのことです。その前の月に父が亡くなっていて、母は気が立っていたのでしょうか。豪勢なお寿司が目の前に並んでテンションの上がっていた私に、母はにこやかな表情で言いました。

「K子。最近外に出ていることが多いようだけど、どこに行ってるの?ハローワーク?結婚相談所かな。K子が一番よくわかってるっていうのはお母さんも分かってるんだけど、もう25歳になるんだから。来年もフリーターのままなんてこと、ないわよね?」

 全身が震えました。今までは母の小言なんて、なんとも思わなかったんです。どんなに嫌味なことを言われても、父がいればすぐにフォローしてくれましたし。でもこの時は無性に腹が立ってしまって、母と口論になりました。もう優しかった父はいないんだ、ってそこで気づいてしまったからかもしれません。

 その日以降、私は何となく母がいる居間にいづらくなって、自室にこもるようになりました。元々本を読むのが好きだった私は、ネットで無料公開されている小説、特にホラー調の作品にどっぷりとハマってしまって、バイトから帰ってきてからは新作ホラーを読み漁る毎日でした。大学時代にオカルト研究会に所属していたらしい友人にも連絡を取って、おすすめの作品を教えてもらったりもしました。良い作品に数多く出会う中で、特に私の興味を引いたのは、『暗川あんかわメイ』という作者の書く民族ホラーでした。あまり有名な作家さんではありませんが、私好みの「田舎」にフォーカスした古典的な幽霊譚ゆうれいたんを多く書かれており、すぐにファンになりました。一番のお気に入りは「芋虫とろくろ首」というタイトルで、M町という田舎町で起こる怪現象を筆者が調査し、真相究明を行う様を描いたノンフィクションライクな作品です。都会生まれの私にとって、「田舎で起こる怪現象」というものがどこか異世界的な、非現実的な印象を持って感じられて、実はこの事件は本当に起こったことなんじゃないか?M町は実在するのでは?という怪しい期待を抱いてしまったのです。私は何度も、「芋虫とろくろ首」を読み返しました。それこそ作品で描かれたM町の風景が、どこか実感を伴ったなつかしさと一緒に頭の中で反芻されるくらいに。

 ある退屈な夕暮れ時、私は何とはなしに、小説投稿サイトのコメント機能を使って「芋虫とろくろ首」にコメントをつけました。ずっと聞いてみたいな、と思っていたことでした。


 暗川先生、素晴らしい作品をありがとうございます。私が今まで読んだホラー作品の中で、一番引き込まれてしまいました。いや、引き込まれすぎてしまっていて、「M町」が実際にあるんじゃないか、なんて思ってしまっているんです。特に神社の掃除をしている主人公が、遠くに幽霊を見つけるシーン。あそこのリアリティが凄くて......。そこで暗川先生、一つ質問させてください。M町は実在しますか?


 勢いで打った文章を、恥ずかしくならないうちに投稿します。なんて突飛な質問だろう、って自分でも思っていましたから。やっぱり送った直後から段々と恥ずかしくなってきて、いたたまれなくなった私は近くに敷いていた布団にスマホを放り投げてしまいました。


 ピロンッ


 即座に鳴った通知音に、私はビクッとしました。カーテンを閉め切って少し薄暗い室内で、スマホ画面だけが煌々と光を放っています。暗川先生が返信をくれた?それにしては早すぎる気がする。そんなことを考えながらスマホを拾い、内容を確認します。暗川メイ。そう書かれた送り主の欄を見て、私の鼓動は早くなりました。どこか恐る恐る見た画面には、大きな余白が残るコメント欄に一言だけ


 はい。お越しになりますか?


 と書かれていました。妙に真に迫った文章に思われました。ぞわっと総毛立ち、背筋に冷たいものが走ります。それと同時に、私はひどく興奮してしまいました。憧れの作家さんから返信をもらえたこと、実在するという設定なのでしょうが、M町の存在を肯定してもらえたこと、幽霊が実在するかもしれないこと、そんな強迫観念にも似た思い込みの全てが私をたかぶらせたのです。私ははやる気持ちに任せて、地図アプリを開きました。M町のイメージに近い田舎を探すためです。幸い、M町の設定はすべて頭に入っていました。数多ある情報から精査した結果、条件は次の3つにしました。1. 周囲を山に囲まれた海岸線沿いの町であること、2. 100段以上ある長い階段が特徴の神社が存在すること、3. 幽霊が登場するうわさ、怪異譚が存在すること。条件がばらけており調べるのに難儀するかと思いましたが、1つ目、2つ目の条件だけでも意外と絞れてくるもので、2時間程度スマホに張り付いた結果、最終的に3つの町が候補となりました。宮城県K町、新潟県O村、富山県U町。ただ、3つ目の条件。予想はできていたことですが、これが曲者でした。各地域の名前で画像検索をしても、特産品の画像やお祭りの写真が出てくるだけで、無難な心霊スポットの画像すらヒットしないのです。それからしばらくは、暇なときに軽く調べて画像を眺める日々を送ることになりました。「○○ 森」「○○ トンネル」「○○ 妖怪」などの不穏な単語を中心に、「○○ レジャー」「○○ 公園」など楽し気な単語も加えてたくさん調べました。そんなことをしばらく続けていると、段々各地域に詳しくなってきて、どこもいいとこだな、食べ物もおいしそうだし住んでみたいな、なんて考えるようになっていったのです。この頃は母との関係性もより悪化してきていて(ずっと部屋にこもっているからでしょうけど)、本気で移住を考え始めていました。実家にいること自体がストレスになっていたんです。そんなある日のこと、新潟県O村について調べている時です。その日はゴールデンウイークの真ん中あたりで、近くのホールで人気バンドのライブをやっていたからか、バイト先のお客さんが多くてすごく疲れていました。部屋の明かりを全部消して布団に包まって、ぼーっと「新潟県O村 風景」で画像検索をしていると、一枚の写真が目に留まりました。それは小さな神社の写真でした。人一人がくぐれる程度の大きさの赤鳥居の両脇には石製のお稲荷様がおり、奥に小さな神社が映っています。鳥居の上部に刻まれた文字から、それが「御稲神社」という場所であることがわかりました。神社の周りは林のようになっていて、昼間だろうと思われるにも関わらず、木々が日光を遮ってなんだか薄暗い、ぼんやりとした印象を抱かせます。でも、これだけではただの神社の写真です。私の目に留まったのは神社の左側、林間にいる人影でした。ボーダーのTシャツにジーパンのカジュアルな服装で、体つきから女性であることが窺い知れます。両腕はだらんと垂れて、全身が弛緩しているような印象を抱きました。なんでこの人は隠れるように写っているんだろう、そう考えながら視線を上に移して、私は気づきました。その人、顔がないんです。いや、正確に言うと、Tシャツの襟元から白くぼやけた首がすぅーっと伸びて、そのまま枝葉に飲まれてしまっているのです。顎があるはずの場所には先細る首が映っているだけで、顔が全く写っていないんです。


 ろくろ首だ。


 私は真っ先にそう思いました。どくん、どくん。脈が早鐘のようにうって、額から汗が出てきます。M町のモデル、ここかもしれない。私は安易にもそう考えました。何かに取り憑かれたようになっていたのだと思います。実際、この写真も木漏れ日が心霊写真に見えるよううまく差し込んできたとか、地元の学生のいたずら写真であるとか、そんな可能性はいくらだってあるわけです。「ろくろ首」という怪異にしても、特段奇をてらったものでもなく、だれでも知っているような有名なお化けですから、最もいたずらの種として用いられやすい怪異の一つと言っていいでしょう。ですがこれまでの奇妙な符合が妄想を駆り立てて、私はひどく恐ろしくなってきました。手の中の心霊写真からろくろ首がいなくなって、いつの間にか枕元に立った”それ”が青白く長い首をくねらせて覗き込んできたら、どうしよう。今振り返って、暗い窓の下から生首がすーっと出てきていたら?......がばっ。私はそんな妄想、恐怖、不安と一緒に掛け布団をはねのけて、起き上がりました。きっ、と窓の方を睨みつけましたが、青白い月明かりが差し込んでいるだけで、何もありません。よかった.......水でも飲もう。そう考えて自室から出ようとドアノブに手をかけると、ドアについたすりガラスの向こうにすっと黒い頭のようなものが映りました。


「K子?」


「うわぁぁぁっ!!」


 私は飛びのいて、布団の上に尻餅をつきました。がくがく、と足が震えているのがわかります。ドアがキイッと開いて、寝間着姿の母が顔を覗かせました。


「何やってんの?」


 怪訝そうに言う母。私は安堵と羞恥心、少しの怒りがごちゃまぜになって、


「別に。......おやすみ」


 と言うことしかできませんでした。母は眉をひそめながらも、その夜は機嫌が良かったのか、「そ、おやすみ」と言ってドアを閉めました。いつもなら「そんなに大げさに離れちゃって、嫌いですアピール?」なんて嫌味を言ってくるくせに。私はグッと拳を握りこんでから、いそいそと布団に潜りました。ドキドキ、と鼓動はまだ止んでいませんでした。その夜はワイヤレスイヤホンから響く大音量の深夜ラジオと共に、更けてゆきました。


 それから数か月が経ち、私は結局、新潟県O村についてしか調べなくなっていました。心霊写真はあれ以来探していません。代わりに、新しいバイト先の候補や住まいの情報、食材が安いスーパーのチラシなんかのスクリーンショットが増えていました。でも、あの時見つけた心霊写真はスマホのカメラロールの中にちゃんと残っていて、妙な重みをスマホに与え続けています。移住のための費用は、あと少しで貯まります。「もうすぐ梅雨明けです」、そう告げるニュースの声が、居間の方から聞こえてきました。とても蒸し暑い夏でした。




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いなだく 憂類 @yurung13

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