1. 理由
「K子、本当に行くのね」
小綺麗な玄関先でスニーカ-の紐を結んでいると、後ろから母が話しかけてきました。外が暗いからでしょう、玄関扉のすりガラスに私と母のような人影が映っているのが見えます。
「うん」
そう短く応答した私に、母は小さくため息を漏らしました。
「結局、何が不満だったわけ?」
冷静な声色とは裏腹に、明確に怒気を含んだ言葉遣いと、トントンとスリッパがフローリングを叩く音。
「特に、何も」
私はまたも短く返して、黒くて小さなキャリーケースの取っ手を伸ばしました。トントン、という音は次第に大きくなっていきます。私は、母のこういうところが大嫌いでした。
「じゃあ、また会ったら」
私は母に
「清々する」
ぽつりとつぶやいて、足を速めました。明日からは真っ黒い山が見えるだけになるだろうな、なんて考えていました。
今まで住んでいた東京から何処か田舎に移住しよう、と決意したのは、実際のところ「ただ何となく」というのが本心だったりします。穏やかで大好きだった父が亡くなったからとか、それで元々口うるさかった母がヒステリーを起こすようになったからとか、バイト先のコンビニの店長がハラスメント気質で気持ち悪いとか。もっともらしい理由を挙げようとすればできなくはありませんが、どれもそれだけのせいで家出するとは少し言いづらいような理由に思われて、何となくってことで自分では納得しているのです。ただ考え始めたきっかけはあって。昨年の12月、私の誕生日でのことです。その前の月に父が亡くなっていて、母は気が立っていたのでしょうか。豪勢なお寿司が目の前に並んでテンションの上がっていた私に、母はにこやかな表情で言いました。
「K子。最近外に出ていることが多いようだけど、どこに行ってるの?ハローワーク?結婚相談所かな。K子が一番よくわかってるっていうのはお母さんも分かってるんだけど、もう25歳になるんだから。来年もフリーターのままなんてこと、ないわよね?」
全身が震えました。今までは母の小言なんて、なんとも思わなかったんです。どんなに嫌味なことを言われても、父がいればすぐにフォローしてくれましたし。でもこの時は無性に腹が立ってしまって、母と口論になりました。もう優しかった父はいないんだ、ってそこで気づいてしまったからかもしれません。
その日以降、私は何となく母がいる居間にいづらくなって、自室にこもるようになりました。元々本を読むのが好きだった私は、ネットで無料公開されている小説、特にホラー調の作品にどっぷりとハマってしまって、バイトから帰ってきてからは新作ホラーを読み漁る毎日でした。大学時代にオカルト研究会に所属していたらしい友人にも連絡を取って、おすすめの作品を教えてもらったりもしました。良い作品に数多く出会う中で、特に私の興味を引いたのは、『
ある退屈な夕暮れ時、私は何とはなしに、小説投稿サイトのコメント機能を使って「芋虫とろくろ首」にコメントをつけました。ずっと聞いてみたいな、と思っていたことでした。
暗川先生、素晴らしい作品をありがとうございます。私が今まで読んだホラー作品の中で、一番引き込まれてしまいました。いや、引き込まれすぎてしまっていて、「M町」が実際にあるんじゃないか、なんて思ってしまっているんです。特に神社の掃除をしている主人公が、遠くに幽霊を見つけるシーン。あそこのリアリティが凄くて......。そこで暗川先生、一つ質問させてください。M町は実在しますか?
勢いで打った文章を、恥ずかしくならないうちに投稿します。なんて突飛な質問だろう、って自分でも思っていましたから。やっぱり送った直後から段々と恥ずかしくなってきて、いたたまれなくなった私は近くに敷いていた布団にスマホを放り投げてしまいました。
ピロンッ
即座に鳴った通知音に、私はビクッとしました。カーテンを閉め切って少し薄暗い室内で、スマホ画面だけが煌々と光を放っています。暗川先生が返信をくれた?それにしては早すぎる気がする。そんなことを考えながらスマホを拾い、内容を確認します。暗川メイ。そう書かれた送り主の欄を見て、私の鼓動は早くなりました。どこか恐る恐る見た画面には、大きな余白が残るコメント欄に一言だけ
はい。お越しになりますか?
と書かれていました。妙に真に迫った文章に思われました。ぞわっと総毛立ち、背筋に冷たいものが走ります。それと同時に、私はひどく興奮してしまいました。憧れの作家さんから返信をもらえたこと、実在するという設定なのでしょうが、M町の存在を肯定してもらえたこと、幽霊が実在するかもしれないこと、そんな強迫観念にも似た思い込みの全てが私を
ろくろ首だ。
私は真っ先にそう思いました。どくん、どくん。脈が早鐘のようにうって、額から汗が出てきます。M町のモデル、ここかもしれない。私は安易にもそう考えました。何かに取り憑かれたようになっていたのだと思います。実際、この写真も木漏れ日が心霊写真に見えるよううまく差し込んできたとか、地元の学生のいたずら写真であるとか、そんな可能性はいくらだってあるわけです。「ろくろ首」という怪異にしても、特段奇をてらったものでもなく、だれでも知っているような有名なお化けですから、最もいたずらの種として用いられやすい怪異の一つと言っていいでしょう。ですがこれまでの奇妙な符合が妄想を駆り立てて、私はひどく恐ろしくなってきました。手の中の心霊写真からろくろ首がいなくなって、いつの間にか枕元に立った”それ”が青白く長い首をくねらせて覗き込んできたら、どうしよう。今振り返って、暗い窓の下から生首がすーっと出てきていたら?......がばっ。私はそんな妄想、恐怖、不安と一緒に掛け布団をはねのけて、起き上がりました。きっ、と窓の方を睨みつけましたが、青白い月明かりが差し込んでいるだけで、何もありません。よかった.......水でも飲もう。そう考えて自室から出ようとドアノブに手をかけると、ドアについたすりガラスの向こうにすっと黒い頭のようなものが映りました。
「K子?」
「うわぁぁぁっ!!」
私は飛びのいて、布団の上に尻餅をつきました。がくがく、と足が震えているのがわかります。ドアがキイッと開いて、寝間着姿の母が顔を覗かせました。
「何やってんの?」
怪訝そうに言う母。私は安堵と羞恥心、少しの怒りがごちゃまぜになって、
「別に。......おやすみ」
と言うことしかできませんでした。母は眉をひそめながらも、その夜は機嫌が良かったのか、「そ、おやすみ」と言ってドアを閉めました。いつもなら「そんなに大げさに離れちゃって、嫌いですアピール?」なんて嫌味を言ってくるくせに。私はグッと拳を握りこんでから、いそいそと布団に潜りました。ドキドキ、と鼓動はまだ止んでいませんでした。その夜はワイヤレスイヤホンから響く大音量の深夜ラジオと共に、更けてゆきました。
それから数か月が経ち、私は結局、新潟県O村についてしか調べなくなっていました。心霊写真はあれ以来探していません。代わりに、新しいバイト先の候補や住まいの情報、食材が安いスーパーのチラシなんかのスクリーンショットが増えていました。でも、あの時見つけた心霊写真はスマホのカメラロールの中にちゃんと残っていて、妙な重みをスマホに与え続けています。移住のための費用は、あと少しで貯まります。「もうすぐ梅雨明けです」、そう告げるニュースの声が、居間の方から聞こえてきました。とても蒸し暑い夏でした。
いなだく 憂類 @yurung13
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