第2話 死後でごめんあそばせ
扉を抜けると、そこはだだっ広い白い空間だった。
すぐ後ろにいたはずの死神の姿は無く、
周りを見渡しても、人影どころか、
通ってきたはずの扉さえ無かったが、
不思議と焦りはなかった。
先ほどまで感じていた様々な恐怖、不安、心配といった感情が
すっかり抜け落ちてしまったかのような安心感があった。
「ん、これが死後の世界って訳ね。」
蘭子はとりあえず伸びと深呼吸をしてみた。
40を過ぎてからの長い付き合いの肩こりも無く、
それどころかまるで子供の頃みたいに腕がクルクル回る。
身体の可動域の限界や制約から解放されたみたいに
自由に動く体の感覚が面白く、心地よい。
好きに動く体と、目の前に広がる白くてだだっ広い空間。
とくれば、蘭子が走り出す理由は他には要らなかった。
「よーし、行くわよ〜!」
軽やかにステップを踏んで走り出した。
足は地面を踏めば踏むほど体を前に押し出し、
腕は振れば振るほど、また足に勢いをつけた。
周りが遠近感がない白い空間なのが惜しまれるほど、
顔に風を浴びながらグングンと進んでも、
息は切れることなく、疲れを一切感じなかった。
懐かしい感覚だ。
まるで女学校でお転婆アリスと呼ばれていた頃の自分に戻ったようだ。
目を閉じると、思い出す。あの女学校の廊下を。
しばらく目を閉じ、女学校の景色に思いを馳せながら走っていた。
目を開けると、不思議なことに走っても走っても代わり映えの無かった白い空間は、
あの頃の女学校の廊下になっていた。
軋む板目の床に、年季の入った柱。
壁には学級新聞の貼ってある掲示板、
端には誰かが置き忘れた雑巾まで、あの頃のままだった。
ゆっくり減速して、立ち止まる。
目の前には、かつて自分が学んだ教室の扉があった。
開かなくても分かる。この扉の向こうには、
かつて青春を共に過ごした旧友たちが楽しげに暮らしている。
扉に近づいたその時、後ろから誰かに呼び止められた。
「探したよ。随分遠くまで来たんだね。」
振り返ると、くたびれた白衣にチョークの粉が付いたセーター
くせ毛に黒ぶちのメガネ、頼りない笑みを浮かべる若い男性。
女学校時代の恩師である長谷川先生の姿があった。
しかし、それが長谷川先生本人でないことは直感的に理解していた。
「普通は、死んだ後っていうのは落ち込んでその場にうなだれてたり、その辺をうろうろするくらいなんだけど・・・お転婆っぷりは、相変わらずみたいだね。」
「あら、どちら様かしら。」
蘭子の問いかけに対して、長谷川先生の姿をした何かは
ゆっくりと微笑みながら答える。
「アリス、大方キミが想像している通りだと思うがね。」
ふむ、と言われたことを噛み砕きながら、
蘭子は相手を値踏みするように見た。
「あら、長谷川先生のことはお慕いしていたけれど、神様とまでは思っていなくてよ。」
蘭子は、あごに手を当ててとぼけた様子で答えた。
神様は、クスッと笑った。
「そうだね。それは、よく知っているよ。アリス。
私のこの姿は、この風景に引っ張られた感じかな。」
神様は廊下の壁にゆっくり近づいて壁に手を当てる。
「死後の世界は、キミが最も心を許した場所であり、キミの心のふるさとみたいな場所になるんだよ。死後の安息を感じてほしいからね。僕のこの姿は、それに合わせて変わるんだ。」
説明を落ち着いた様子で聞き入る蘭子の姿に、神様はニコッと微笑む。
「さて、私はキミにちょっと話をしないとけないんだ。」
神様はおもむろに手を少しあげると、パチっと指を鳴らしてみせた。
すると、周りの風景は女学校の廊下から、誰もいない生徒指導室にパッと変わった。
指導室の真ん中には、机と椅子が1組ずつ、向かい合わせに置いてあった。
神様はその椅子をギっと引いて座る。
「どうぞ。」
向かいの椅子に手をやった。
「どうも。」
蘭子は、椅子に座り周りを見渡す。
この指導室も、向かいに座る先生の姿も、女学校時代に何度も見た景色だ。
「懐かしいでしょ。キミは、問題児だったからね。」
神様は机に肘をついて手を組みながら、
蘭子の姿を眺めてニコニコしている。
「あら、神様って何でも知っていると思ってたいけれど、お間違いになることもあるんですのね。」
蘭子は身に覚えは有り余るほどあったが、
ツーンとそっぽを向いってとぼけて見せた。
「ははは、知っているさ。特にキミのことはね、アリス。
キミは僕のお気に入りの一人だったからね。」
神様は爽やかに笑う。
「あら、そんな事言ってもよろしいの?神様というのは人を平等に愛しているのではないのかしら?」
蘭子は顔色ひとつ変えずにあしらった。
それに対して神様は気まずそうにポリポリと頭をかきながら答える。
「まぁ、神様といえど心はあるからね、悪い子のことはあんまり好きじゃないし、良い子のことはついつい贔屓したくなるものさ。」
「だからこそ、これからキミに話さなきゃいけないのは、すごく辛いんだよ。」
神様は手を組み直すと、先ほどより真剣な目で話を続けた。
「アリス、キミは死神に嘘をついてこっちに来たね。」
蘭子は心の中で、やっぱりそれか、と思った。
指導室に呼ばれたときはいつだってそうだ。
大体何で怒られるのかを自分自身で分かっていたものだった。
そしていつも同じ、自分が正しいと思ってやったことだ。
悪びれることなく、堂々と認めるのだ。
「ええ、そうですわ。だってあんなに優しい子が若くして死ぬなんて許せないもの。神様だってご存じでしょう?私が目の前であんな子を死なせる訳がないって。」
堂々と答える蘭子の姿を見て、思わず笑みがこぼれる神様。
「うん、そうだね。だから僕はキミが好きなんだ。」
「だけど、死神を騙してここに来た以上、この死後の世界で永遠の安息を与える訳にはいかないんだよ。本当に、残念だけどね。」
蘭子は先ほどの教室の扉を思い出した。
あの扉の向こうのみんなには会えないのか、と。
寂しい気持ちはするが、後悔はない。
蘭子は背すじをピンと張って神様の目を真っ直ぐ見た。
「わかりました。では、私は地獄に行くのかしら。」
神様は蘭子の目を見て、うんうんと頷いた。
「キミの覚悟は分かっているよ。キミはそういう子だからね。」
「だけど、実はそういう話ではないんだ。」
蘭子はキョトンとして首を傾げた。
「と、いうと?」
神様はまた、ポリポリと頭をかきながら答える。
「彼女、ユウリはね、異世界に転生するはずだったんだよ、彼女の望み通りね。」
蘭子は呆気に取られた。
まさか、ユウリが言っていたことが本当になるなんて、
いや、本当になっていたはずだったなんて。
「そ、そうでしたの・・・。」
神様は気まずそうに続ける。
「彼女は良い子だから、もちろん私も気をかけていてね、病で死んでしまった後のこともちゃんと用意してたのさ、それをキミが・・・。」
「あら・・・では、私のお節介が過ぎてしまって・・・」
どうやら余計なことをしてしまったことに気づいた蘭子は愕然とした。
「転生先の世界の神とも話をつけていたからね、一人は向こうに送らないといけないんだよ。」
「そこで、ほら・・・キミは死後の世界には入れないだろ?だから・・・」
神様は歯切れが悪くなる。
「向こうの世界の神と話し合った結果、キミをその、異世界に転移することになったんだ・・・。」
蘭子は開いた口が塞がらなかった。
「え、あの、私が、異世界に・・・?」
神様は慌ててフォローする
「まぁ、あの・・・幸いユウリから異世界モノの知識は少し得ているし、キミは社交的だし、多分あちらの世界の神も何かしらの恩恵を与えてくれるはずだし、きっと上手く行くはずだよ、多分・・・。」
「あの、私ってその、転生でなくて転移・・・ですのよね?その差についてはユウリから沢山聞いた来たから分かっていましてよ。」
「私、もう60歳を超えていますけど、この状態で異世界に転移しますの!?」
「うん。なんか、その・・・そうなった・・・。」
二人ともズーンとして俯く。
「まぁ、そういうことだから・・・もうあっちの世界に行ってもらう事になるけど・・・。」
こうなったからには考えても仕方がない。
死後の世界にいられる訳ではないし、
人生最後の親友、ユウリの夢を受け継ぐと思えば、悪くはない話だ。
「ところで、ユウリは?彼女はこの後どうなりますの?」
神様はこんな状況でもユウリを心配する蘭子を見て、
やっぱりね、といった様子で微笑んだ。
「彼女は、生きるよ。あの日死ぬべき運命を乗り越えたんだ。病を乗り越えて、現代日本でこれからも生きていく。キミよりも長く生きるよ。」
そうか、それは何より嬉しい報告だ。
「そうですの、ではもうこの世界に、思い残すことはありませんわ。」
ニコッと笑った蘭子の目には、死後の世界に来て初めて涙が溢れていた。
「もう、準備はいいかい?」
神様は名残惜しそうに語りかける。
「ええ、よろしくってよ。」
涙を拭って、シャキッと居直った蘭子は神様を真っ直ぐ見つめて答える。
「それでは、さようなら。アリス!よき旅を!!」
神様は再度パチンと指を鳴らした。
蘭子の体が光に包まれる。
蘭子は椅子からスッと立ち上がり、
スカートを捲って神様に深々とおじぎをしてみせた。
「ええ、ごめんあそばせ。」
光に包まれ、まるで体が光の粒になったような感覚だった。
長い時間をかけてどこかにすごい速さで移動しているのが分かった。
私は今、異世界に転移しているのだ。
こうして、日本の貴婦人
有栖川 蘭子は、異世界に転移したのだった。
「異世界マダム」〜お転BBAでごめんあそばせ〜 六六-B @66-B
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