あの日の憧憬

 八十歳程度生きるとして二十歳になったとき、感じられる人生の時間はいくらになっているだろうか。


 ジャネーの計算式によると、もうその時点で半分以上過ぎているそうだ。また産まれてから八十になるまでの時間は、日数だと約三万、週間だと約四千、月だと大きく見積もってもたった約千カ月程度。数字にしてみると意外と短い。


 どっかの哲学者も『人生は何もしないにしては長すぎて、何かやるにしたら短すぎる』と人生の長さについて語っている。


 こんな事を書いている自分も、もう四半世紀以上生きてみて、まだそんな歳かと人生の長さに驚かされる反面、もうその歳になっているのに彼女どころかリアルで新しい友達がい何のかと嘆く側面もある。最もな話、学生時代には喋り倒せる友人がいたが今や思い出の中の存在で、いつぞや連絡を入れたときには随分と忙しくしているようだった。


 気持ち的には寂しいところあったし、もう一度あの時のような会話をしたいとながっても今じゃ夢のまた夢だ。まだ両親も親戚も血の分けた兄もいるとはいえ、何時かそういうものが消えてしまうと分かっていても、どこか遠い世界の話のように思えて現実味がない。


 でも、無くなる一方だと知ったとき、何も見つける必要はない、何かを得ない人生を歩んでいくことに恐怖……にしてはピリつきは無いから多分違う。孤独への畏怖といった方がいいのだろうか。一人で生きることには大して苦ではない、ただ誰にその生きた証、姿を憶えていて欲しいという欲求と、恥ずかしいところを見られることを忌避したがる想いの板挟みであることが辛いのだろう。


 人として良いところをたくさん見てもらい尊敬されて、自分の顔や声、発言が出てくるだけで笑顔になってくれる……後者は個人の願望だな。前者は人のあるべき概念。それはちょっと大げさかな。


 ともかく、あの世に旅立ったときに「やっと逝きやがった」と笑われる人間でありたい。もっと言えば、自分のことを思い出していっぱい泣いて欲しい。寂しいから泣くんじゃない、あんなバカだったとか、あの時のことが忘れられない。最もは不躾意に「アイツが遺したものは、歴史に残る茶番劇だった」と泣き嘲りをしてもらいたいものだ。


 いくら一人で逝くにしても、見送りがないことはきっと死に切れないことだ。だと思う。別の本音を言えば、誰にも見送られなくとも良いと思っている自分がいる。去る世界よりもあの世に逝った時、どんな顔で先の人に迎えられるか。そっちの方が重要に思えている自分がいる。なんだか薄情だな。遺した者よりも何処に行くかを気にするとは……。


 きっと現段階では何も遺すものもないし、勝手に自分が閃いたアイデアを利用して大金持ちになっても、その人に「おめでとう」くらいしか言えないと思う。


 でも、自分にしか書けないものがあると高慢にも意地を張っている。いや、そうであってほしいという強がりだな。その強がりを無くしたとき何が残る?何も残らないにしても、これから人生は続く。ただお金稼ぎ回すだけの人生で良いのか?それとも何か偉業を為して一生社会への奉仕をやり続けるんか……。正直答えは出ない。


 撤退するにも、行く当てがない。あるとすれば『憧れ』だけ。その道を選べばいつか道を開けるのだろうか?解からない。


 けど、捨てたところできっとまた帰ってくる。


 なら、一ミリでも良いから食らい付くまでだな。まだ時間はある。憧れの時間はもう終わりだ。その憧憬を殺すために今日も進むしかないな。変わらない状況でも。



 

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息抜きの小ネタ 冬夜ミア(ふるやミアさん) @396neia

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