自分が愛したい人に成れているか?

 自分が愛したい人間に成れてるだろうか?この質問に何の意味があると思う。無いならそれでいいが、この度だけでも考えて欲しい。


 一つ導線として引いておくが、愛せる自分というのは大体『理想の自分』かどうかに関わってくる。人間不完全ではあると理解しつつも、自分の理想像を持っているものだ。偏見として無いとして見ても、他者にその理想像を依存していることがしばしばある。少なからず良いというものを知っているからだ。


 だけど、現実として『今の自分の姿を見てどう思う?』。適ってないのが多くを占めているはずだ。いや、適ってないときの方がデフォルトだ。仮に「夢を叶えてその状態です」胸を張ってい言える者もいるだろうが、少なからずや地震に不備がある。無いと言ってもそれはただ単にその点を無視していることに過ぎない。


 いくら報酬をもらっていても、いくら良い待遇にいたとしても、底なしの欲望と疑いを持つ生き物だ。どこか不足して言うのではないか?本当にここは安全なのかと無駄に勘繰ってしまうことはおかしな事ではない。


 もっともな話『理想の自分というのは常に変化している』存在だ。かつての自分からしたら理想の自分に成れているかも知れない。けど、その地に立ったときその存在はもう既に目の前におらず『次の理想の自分へ』と舵を切っている。


 それが気付けるなら優秀だが、多くの勇士たちはそのことに気付かずにかつての幻想を追い求め続ける。もう既にその幻想は己の血肉に成っていることに目もくれず。


 その度に『新たな理想の設定』正確には『その力で何をするか?』を思い出すことが必要になる。


 世の中壁ばかりではない。地面がぬかるんでいたり、同じ道を歩む者に蹴りを入れられたりすることもあるかもしれない。どう足掻いても『理想』と呼べる代物だ、他の誰かも良いものだと判断する。良いところには悪いこともつきものだ。


 もし同じ道の複数人の要望を叶えたくばやり方は二種ある。一つは奪い合い、二つは全員の椅子を用意することだ。後者は現代の理想だ。余計な争いは全体にとって不利益だからだ。困ったときは支え合える。


 しかし、世の中には誰もいない道を進んで新規開拓をしてみたものの、誰も来てくれずにそのまま飢え死にをしてしまう者。またはその開けた土地を乗っ取る者もいる。これは一見、理不尽に思えるが『理想を求めた結果』だ。理想の下には常に誰かの屍の肥料で出来ている。そこでもし咲くことができれば、導きに感謝をすべきだ。


 先に逝った者もそれで報われる。


 思い思いにここまで書いてみたが、結局『理想の自分に成れた』としてもずっとその場にいるわけではない。表現として、当時の理想を踏み台と言っても良いし、次に咲くための土壌と言ってもさしつかえはない。


 精々、こんなところまで来てしまったんだ。何かを遺して逝こうじゃないか。

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