年下腹黒男子の愛は重い

花端ルミ子

第1話 こんなつもりじゃ!?

「お世話してくれるっていうのは、こういうことも込みってことだよな?」


 ソファに押し倒され、見上げるのは濡れた髪を掻き上げた青年。

 不敵な笑み、タオルを首からかけただけの体、その男性らしい筋肉の起伏に、思わずどきりと胸が高鳴った。


 ──私、一体どうなっちゃうの!?


 立花葵(たちばな・あおい)、三十一歳。

 青年の両腕の中で小さく肩を縮こまらせて、彼女はベタな恋愛マンガのように心の中で叫んでいた。


 *


 アイランドキッチンの上には、色とりどりの食材にバット、ボウルなどの調理器具がところ狭しと並んでいる。二口コンロには鍋とフライパンが火にかけられていて、タイマーが鳴りっぱなしだ。

 シンクを挟んだダイニングでは、一人の女性が慌ただしく動き回っていた。


「よしっ、メインは出来た……あとはつけ合わせと盛りつけだけ!」


 ホームパーティーでも開くのかといった様子の彼女・葵の仕事は、食品会社の企画部門だ。元々料理が好きだった彼女は、会社の打ち出す食品を利用した自宅マンションでのメニュー開発に日々勤しんでいる。


「よしっ、完成!」


 大皿の縁にエディブルフラワーを散らし、完成した料理を並べて撮影タイムだ。キッチンの汚れ物は流し場へ追いやると、報告の資料用にさまざまな画角でシャッターを切る。

 ひとしきり撮影を終えた頃、部屋のインターホンが来客を知らせた。葵はボタンを押して応答する。


「はーい」

<どうも、サガミ急便です!>


 スピーカーからは聞き慣れた声。モニターで姿を確認すると、そこには馴染みの宅配員が立っていた。

 玄関へ向かい、ドアの鍵を開ける。葵が出ると、宅配員は額に汗を浮かべたまま爽やかに笑った。


「いつもありがとうございます!」

「ど、どうも……お疲れさまです」


 その笑顔の眩しさに、葵は思わず目を細めた。若さってすごい。

 葵から見て、年齢はハタチそこそこといったところか。身長が高いこともあり、正直かなり見栄えがする。


 レシピ開発に使う会社の試作商品をはじめ、食材は量が多いため基本的に宅配を利用している。

 そこで宅配員とも顔を合わせる機会が多くなるのだが、会社が委託した業者で葵の区域を担当しているのが、この青年らしい。

 伝票かなにかで見た名字は、菅原だったか。


「お荷物、今日は結構重いですよ。中に運んじゃいましょうか」

「いいえ! ここに置いてもらえれば大丈夫です」

「そうですか、分かりました」


 他愛ないやりとりが終わってしまいそうになるところで、葵は思い切って声をかけた。


「あの、ちょっと待っててもらえますか」

「はい?」


 そう言うと、葵はキッチンへ引き返して、冷蔵庫から冷やしておいたミネラルウォーターを取り出す。そしてすぐに玄関へ戻ると、葵はそれを青年に差し出した。


「これ、よかったら……あっ、規則的にダメとかだったら全然大丈夫なんですけど! 毎日暑いので」


 葵の行動に、青年は一瞬目を瞬かせると、すぐに目を細めて笑った。


「ありがとうございます! すっごい助かります、いただきますね!」


 葵はほっと息をついて、青年が会釈をした後、エレベーターに乗るまでの間もこっそり見送っていた。

 荷物を運び入れて玄関のドアを閉める。ちょうど料理の粗熱がとれるところだった。とても葵が一度に食べ切れる量では無いので、タッパーに詰めていく。

 慣れた作業に自然と手を動かしながら、葵は先程の青年のことを思い出していた。


 ほぼ在宅勤務でミーティングもリモート、買い物も大抵は宅配で済む。となると、外に出ることはほとんどなく、必然的に人と顔を合わせる機会もなくなる。

 一人で黙々と作業に打ち込むスタイルは自分に合っていると葵は感じる。しかしあまりにも外部と断絶されていると、人との話し方を忘れてしまうのではないかと不安になるときがある。

 そんな中で、宅配員の青年とのやりとりは、ささやかながらも葵にとって貴重な人との交流だ。その上あの爽やかスマイルとくれば、葵でなくともぐっと来てしまうだろう。


「っと、もういい時間」


 ひとしきり作業を終えると、時間は六時を回っていた。今日は葵にとって数少ない、人と会う機会だ。

 冷蔵庫にワインを冷やし、適当なつまみを準備しておく。すると、ほどなくインターホンが鳴った。


「やっほー、おつかれ葵」

「お疲れさま! どうぞどうぞ、入って」


 葵の部屋を訪れたのは、大学の同期の美沙である。

 パラリーガルとして働く彼女は、月に一度ほど葵の部屋を訪れ、葵の料理を食べたりワインを開けたりする。


「ストレス社会に生きる胃に葵のごはんがしみる……嫁に欲しい……」

「私も人に食べてもらえるのうれしいよ。ごはんもおかずもまだあるからね」


 料理も酒も進んだ頃、だいぶ出来上がった様子の美沙がグラスに酒を注ぎながら口を開いた。


「最近どう?」

「どうって……まあ、やっと慣れてきたかなって感じ。部署の人もいい人ばっかりだし」

「そーじゃなくて私生活の方。いい人いないの?」


 咄嗟に葵が思い浮かべたのは、サガミの制服姿で笑って見せる青年の姿だった。


「い……いないよ、ほとんど在宅ワークだし、接点ないもん」

「そう? 葵がいいならいいんだけどさ」


 美沙はグラスをくっと傾けた。

 葵はバツイチだ。以前の夫は新卒の頃からの上司だった。相手の不倫が発覚したとき、美沙は献身的に葵の力になってくれた。

 しばらくは離婚調停や部署の移動などで忙しかったが、今は在宅でのメニュー開発担当に落ち着いた。色々あったが、葵は今の仕事にもやりがいを感じている。


「葵にはさぁ、幸せになってほしいのよ。世の中に男なんてごまんといるんだからさぁ、前よりよっぽどいい人だっているはずじゃない」


 この頃の美沙は、酔いが回ってくると決まってこんな話をする。自分はバリバリ仕事に生きているというのに、案外ロマンチストなところがある。


「私、今幸せだよ。仕事も楽しいし、こうやって美沙も会いにきてくれるし」

「それは私が好きでやってることだからさぁ〜」


 くだを巻き始める美沙の手からグラスを取り上げ、水を取りに立つ。

 美沙への言葉は建前ではない。今でも十分幸せだと、葵は心から思っている。元夫とのマンションを引き払い、キッチンの広いこの部屋へ越してきて、生活は充実していると言える。


 けれど何か、自分の生活をがらりと変えてくれるような、そんな出来事が起きてくれないだろうか。

 心の隅でそう思うのも、葵にとってはまた事実だった。


 *


<どうも、サガミ急便です!>


 待っているだけでは変わらない。

 ささやかでも、まずは行動あるのみだ。


 モニターで見慣れた立ち姿を確認して、葵は心の中で気合を入れた。

 玄関脇には冷えたミネラルウォーターのボトルが準備してある。前回の差し入れが厄介ではなかったか確認したら、また差し入れをしよう。仕事の合間に一瞬だけでも、彼のまた違う表情が見てみたい。

 あの青年がエレベーターを上ってくるまでの猶予に息を整えて、葵はドアを開けた。


「こんにちはー! お荷物、ここに置いちゃって大丈夫ですか?」

「はっ、はい!」


 いつも通りに手際よく、重たい荷物を玄関先におて伝票のやりとりをする。

 早く切り出さなければ、葵が口を開きかけたとき。


「あっ、あの」

「ああ、この間はありがとうございました! お水、すっごい助かりました」


 青年が顔を上げ、いつもの笑みを葵に向けた。その眩しさに、葵は思わず頬が熱くなるのを感じた。


「いえそんな、大したことじゃ……」


 そのとき、青年の視線が葵を通り過ぎて、廊下の奥に投げられた。それに釣られて葵が振り向くと、


「ワンッ!!」


 いつからいたのか、そこにいたのは巨大な犬だ。葵は犬種には詳しくないが、大きな耳が垂れていて、小学生の子供くらいには大きいだろうか。迷い犬らしく、体に泥や葉っぱをくっつけている。

 一声吠えて、その巨体が、廊下の向こうから勢いをつけてこちらへやってくる。

 そして、葵は犬が大の苦手だった。


「わ、わ──っ!?」

「大丈夫ですか……と、うわっ!?」


 その場でよろめいた葵の体を、青年の腕が受け止めた。

 あ、体温高い、などと葵が思ったのも束の間。

 後ずさった青年が足をもつれさせたらしく、角部屋である葵の部屋のその奥は、階下に続く階段だった。


 襲い来る衝撃に備えて葵は目をつむり、ややあって恐る恐る開く。すると、目の前にサガミ急便のシャツがあった。

 慌てて飛び退くと、葵の下敷きになる形で青年が倒れていた。青年は葵を受け止めたまま、階段を滑り落ちて踊り場で止まったらしい。


「だ、大丈夫ですか!?」

「あ……いえ、大丈夫っ……!」


 葵の呼びかけには答えたものの、起き上がろうと床に片手をついて顔を歪めた。どうやら、葵の下敷きになった際に痛めたらしい。

 犬は階段の上でぐるぐる回り続けていて、騒ぎを聞いたらしい人たちが廊下に出てきている。

 一一九を済ませると、葵は改めて青年に向き合った。


「あ、あの……本当にすみません、私のせいで……」


 間抜けにも葵がそう繰り返すと、腕を抑えて俯いていた青年が顔を上げた。


「全くだ」

「へっ?」


 ずいっと体ごと葵に近づいたその顔は、いつもの爽やかスマイルとは程遠い。口元こそ笑ってはいるが、その奥で確かに怒気をはらんでいるのが分かる。


「どう責任取ってくれるんだ、アンタ?」

「は、はひ……!?」


 色んな表情が見たいとは言ったけど──さすがに様子が違いすぎませんか!?

 葵は思わずそう心の中で叫んだのだった。

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