セミネの座礁

泉田聖

セミネの座礁

 蝉の寿命を伸ばす研究をしている学者がいるのなら、貯金の全てを注ぎ込んででも支援したい。


 思いながら僕は、一〇と六万円しかない給料を口座からおろした。

 二万と五千円は食費に。二万を光熱費に。一万円を携帯料金に。一万円を実家への仕送りに。二万円を大学に通っている姉への仕送りに。五万円を貯金に回す。

 すると不思議なことに手元に残るのは二万と五千円だけになって、それが一か月後の給料日までに唯一僕が自由に使えるお金だった。


「あ~とざぃあした」


 自宅のアパートから最寄りのコンビニで夕飯を買って、いつもいる店員の雑な挨拶を背中に浴びながら店を後にした。


 レジ袋の中身に視線を落とす。入っているのは見切り品の弁当二つと、缶ビール。

 十九歳の僕が何故一度も年齢確認をされていないのか、勿論店員に聞いたことは一度もない。だがそれはきっと、いつもの店員ががさつな人柄であるのと僕が年齢にそぐわないやつれた顔をしているのが原因なのだろう。夜道に紛れるような暗い顔をして、納得することにした。


 八月半ば。夜は更けても、未だ蝉の鳴き声が聞こえるようなべたつく暑さが肌を湿らせる。シャツのボタンを外し、我慢できずにレジ袋の中から缶ビールを手に取って近くの公園に足を運んだ。


 夜の公園は苦手だった。

 人のいないブランコが揺れたり、シーソーが独りでに踊りだしたり、給水器が水を噴き出したり……そんなオカルトは信じない主義だから苦手なのではない。


「……また死んでる」


 腰を下ろしたベンチの影に、一匹の蝉の亡骸が転がっていた。

 オレンジ色のお腹を天に向けているそれはクマゼミで、「ワシワシワシワシ」と自己主張の激しい鳴き方が特徴的な蝉だ。一度家の網戸に張り付かれて鳴かれたのを今でも恨んでいるが、一族単位で恨んでやるのもお門違いだろう。

 お悔やみ申し上げます。

 念じながらビールを煽って、転がっていた蝉を見つめていた。

 すると、


「あの……大丈夫ですか?」


 若い女性の声が眼前から向けられた。

 きっと普通の人間ならば、こんな真夜中に薄暗い公園で女性に声をかけられたら驚いて逃げ出すのだろう。決して見下しているのではない。

 それが真っ当な人間の反応だと思うし、そうできない自分のことを僕は薄々感情の鈍い人間だと嫌悪している節があった。

 ゆっくりと。躊躇うように顔を上げた。


「はい? どうかしましたか?」


「あっ、いえ。あの……こんな真夜中に独りで蝉さんのご遺体見てられたので、すごい疲れてるのかなぁと思って、つい」


 言う女性の顔は、長い金髪のせいでろくに見えない。ちらり、と覗いた双眸は真夏の空のような硝子色で丸い目と長いまつ毛が愛らしい。

 一見気弱そうなくせに上着はタンクトップの上に薄いジャケットを羽織っただけというラフさで、おへそは出ているしホットパンツから太ももは露出しているし。要は十九歳童貞の僕には、目のやり場に困る格好をしていた。


「やめてくださいよ。僕が変人みたいになっちゃうじゃないですか」


「ご、ごめんなさい……! そんなつもりは全然なくって……」


 言って、女性は足元のクマゼミを見下ろす。

 前髪の隙間から覗いた視線は蝉の亡骸をどこか羨んでいるようだった。しばらく沈黙が流れて、女性が言う。


「蝉さん。埋めてあげないとですね」


 言うと女性は躊躇なくクマゼミの亡骸を手に取って、ベンチの影を手で掘ってクマゼミを埋めて木の枝を膨らんだ土の上に立てていた。妙に手際が良かったのが印象的で、つい合掌している彼女に訊ねてしまった。


「慣れてるんですね。こういうの」


「……はい。蝉さんは一週間しか生きられないので。見かけたときはできるだけしっかりお見送りしたくて。今日だけでもう六匹目です」


 見れば、彼女の指には赤い擦り傷が無数にあった。

 今日だけという言い草から察するに、毎日のようにこんなことをしているのだろう。指にはいくつも絆創膏が貼られていて、どれもここ数日の怪我らしかった。

 ふと気になって重ねて訊ねた。


「こんな時間に何をしてたんですか。まさか蝉を供養するために公園に居たわけでもないですよね」


 問うと、蝉の墓に手を合わせていた女性がこちらを見やった。


「どうしてそう思ったんですか?」


 前髪の下で目を点にしているようだった。腰を下ろして前傾姿勢になっているせいで、胸元が圧迫されてタンクトップが窮屈そうにしていた。

 握っていた缶ビールをもう一度煽って、答える。


「誰だってそう思いますよ。こんな夜遅くに貴女みたいな人が独りで公園にいるなんておかしいでしょう。彼氏を待ってる様子でもないですし」


「……名探偵さんですか?」


「残念ながら工場勤務のしがない会社員です」


 返すと女性があどけなく笑った。

 どこか虚ろで、何かをひた隠すような口角をつり上げただけの笑み。目は、笑っていない。彼女は心の底から笑えていない。

 思って、今度は彼女の目を見つめて問いかけた。


「まさかとは思いますけど、帰る家がないとか」


 問い詰めると、彼女は前髪からはみ出てしまいそうなほど目を見開いていた。

 どうやら完全に図星だったようだ。

 返す言葉を探して、蝉の墓を見つめていた。すると、


 ぎゅるる、と。

 彼女の細いお腹には似合わない豪快な音が蝉の鳴き声の代わりに響いて、彼女は顔を真っ赤にしてお腹を抑えていた。


「ご、ごめんなさいっ! 朝から何も食べてなくて……! 気がついたらこの公園に居たので、どうしていいか分からなくて……! お金もないし、ずっとこの公園にいて……!」


 やけに早口に語る彼女を横目に、弁当箱が二つ入った茶色いレジ袋を一瞥した。

 独りで食べきれる量ではないし、そもそも安月給なのでほとんどおかずは自炊して作り置きしているので必要なかった。

 今日弁当を二つも買ったのは、今日が金曜日だからだった。金曜日になると、何故か無性にお金を使いたくなる。

 彼女には帰る家もないようだし、幸いにもこれ以上ない空腹状態らしい。華奢な体をしているとはいえ、弁当のひとつくらいは簡単に平らげてくれそうだった。


「あの良かったら、うちに来ます? 狭いですけど、大人二人っくらいなら寝泊まりできますし今日は弁当たまたま二つ買ってるので」


「い、いいんですか……⁉」


「そちらさえ良ければですけど」


「ぜ、ぜひ! お邪魔させてくださいっ!」


 ———


 そして公園から徒歩一分。

 終電まで電車の音のよく聞こえるアパートの一室に、僕は彼女を連れて帰宅した。

 玄関と呼ぶには狭すぎる入り口から入ると、左手には既にキッチンがある。冷蔵庫がその奥にあって、電子レンジがその上に危なっかしく乗っている。六畳一間の部屋の奥には毛布が乱暴に置かれた布団があって、部屋の真ん中にはローテーブルがひとつ。テレビはなく、ましてゲーム機のひとつもない。

 六畳一間の牢獄。それが僕の自宅だった。


「お邪魔します……」


 彼女が遠慮がちに上がる。

 置かれていたスリッパを履いて、彼女は部屋のなかをキョロキョロ見回しながら落ち着かない様子だった。

 そうしている間にチキン南蛮弁当を電子レンジに放り込む。ハンバーグ弁当のどちらが好みか彼女に道中訊ねると、チキン南蛮弁当で即決だった。

 シンクに浅く腰かけて携帯で一日分のニュースを追いながら、彼女に問いかけた。


「そういえば名前、まだ聞いてませんでしたね」


「そうでした。わたし、セミネって言います。ヒグラシセミネです」


「カナカナ煩そうな名前ですね」


「そっ、そんなことありませんよ……⁉ 日向さんだって、日向夏樹って暑苦しそうな名前じゃないですか……!」


「僕がそんな人間に見えますか? ……あれ、名前いつ教えましたっけ」


 問うと、彼女は靴が乱雑に並んだ玄関を見やった。

 なるほど表札を見ていたのか。

 納得して、ちょうど止まった電子レンジからチキン南蛮弁当を取り出してローテーブルに置いた。割り箸はもらわない主義なのでキッチンから二人分の箸をローテーブルに置き、コップも二人分用意する。

 淡々と遅めの夕飯の支度を進めていると、セミネに問いかけられた。


「……もしかして、お付き合いしてる人いますか?」


 ドッ、と。

 心臓が大きく跳ねて、コップに注いでいた麦茶が床に数滴零れた。


 何故、と視線だけで問い返す。

 セミネは蓋を開きかけていた弁当を置き手を付けるのを躊躇う。何かが胸の奥で、緩やかにだが着実に腑に落ちた様子だった。

 戸が開いたままの洗面所を見やり、


「歯ブラシは二つ。お箸も二つ。お皿も、コップも、タオルも、枕も、スリッパも、クッションも。全部二つ。それに……」


 言って彼女が見つめていたのは、ユニットバスのカーテンレールに干された洗濯物だった。男物の下着の後ろには、はっきり女性ものの下着が干してあった。

 それを認めた途端にセミネの表情は陰って、彼女は弁当を開けることもないまま下ろしていた腰を持ち上げた。


「ごめんなさい……! 迷惑ですよね……! あの、わたしは大丈夫ですから……! このお弁当、きっとこれから彼女さん帰って来るんですよね……! も、もう出ていきます……! ありがとうございま——」



「死んだんです。彼女は今朝」



 電子レンジのなかに弁当を入れながら呟いた。

 その一言でセミネの言葉が止まっていた。不意に鳴き止む蝉のように。静けさが熱帯夜の湿度に混じって部屋に充満した。


「現代医療では治らない不治の病。最後一週間だけをこのアパートで一緒に過ごしたんです。せめて思い出になればと思って」


「……お葬式は」


「行ってません。実はまだ生きてる気がして、彼女が死んだ実感が薄いので」


「……」


 ピピッ、と。

 電子レンジの停止音が残忍に鳴った。

 ハンバーグ弁当をローテーブルに置き、腰を下ろす。「いただきます」言わなければ天国の彼女に起こられる気がして、小さく言ってから蓋を開けた。

 立ち尽くしたままのセミネを他所にハンバーグに箸を通す。

 肉厚なハンバーグの感触は箸を入れただけでも伝わってきて、割ったひと欠片を口に放り込んだ。オニオンソースの塩加減と肉汁が口の中で上手く絡まり、食欲にアクセルがかかる。

 僕が恋人の死など気にも留めていない様子だったのが彼女には異常に見えたのだろう。恐る恐るチキン南蛮弁当の前にもう一度腰を下ろすと、セミネはぎこちなく問いかけてきた。


「寂しくないんですか」


「どうでしょう。余命はわかりきっていたのでその覚悟はありましたから」


「……一週間って短いですね」


「人間的な感覚ならそうかもしれませんね。僕は彼女とここで暮らすと決めた時から蝉がうちに座礁してきたものだと思ってたので、存外長く感じましたよ」

 ハンバーグにかぶりつく。

 一方でセミネはチキン南蛮には手をつけることができていないようで、何か言葉を口のなかでまごまご咀嚼していた。

 ややあって、彼女は言った。



「わたし、実は記憶がないんです。今朝まで自分がどこで何をしていたのか、全く覚えていないんです」



 箸を止めることなく耳を傾ける。


「自分のことで覚えているのはわたしがヒグラシセミネっていう女性だってことと、わたしが奇病にかかっているっていうことだけで……その奇病のことすら、わたし自身の実はよく覚えていなくて」


 奇病。

 彼女の口から放たれた言葉を耳にしても尚、僕は箸を止めなかった。もう何度も耳にした言葉だから。耳が慣れてしまって驚くことも出来なくなっていた。


「だったら、しばらくうちに居ますか」


「えっ? でも……」


「遠慮はいらないですよ。どうせ僕昼間は仕事でいませんし」


「……じゃ、じゃあお言葉に甘えても?」


 そうして僕たちの六畳一間の狭いアパートで共に暮らすことになった。


 ———


 翌朝。

 ぱちぱちと油の弾ける音と香ばしいソーセージの匂いに僕は起こされた。

 布団からキッチンを見やると、見慣れた彼女の背中があった。


 そのまた翌朝。

 目を覚ますと彼女はカレンダーに書かれていた『印』を気にしていたようだった。

 金曜日は残業で遅くなりやすいことを伝えると納得していて「ならばその日は夕飯を作っておきます」とできない約束をしてくれた。


 月曜日。

 仕事を終えて帰ると、以前の「彼女」が着ていたワンピースを着てセミネが近くのスーパーから出てくるのが見えた。

 その日の夕飯は彼女の得意のナポリタンだった。


 火曜日。

 昼食に彼女の手製の弁当を持っていくと、職場の同僚に「彼女」のことを褒められて何故か僕の方が嬉しくなった。いつも入っているチリソースを和えたチキンナゲットは絶品で同期の友人がアパートに遊びに行かせろとせがまれたが、丁寧に断った。


 水曜日。

 帰ると彼女が洗濯物を畳みながら居眠りしていた。

 つい「彼女」とは出会って間もないことを忘れて隣で眠っていると、起きた彼女は動揺してローテーブルの上にあったコップを落として割ってしまった。


 木曜日。

 帰ると彼女が泣いていた。

 玄関先に蝉が死んでいたようで、何かが琴線に触れてしまったようだった。

 僕はもう「彼女」が長くないことを知りながら、彼女を抱き寄せて眠りについた。


 金曜日。

 朝目覚めると、「彼女」は家にいなかった。


 玄関先には昨日死んでいた蝉の亡骸がまだ残っていて、彼女がそれに気づかないまま家を出ていってしまったことが胸に深く爪を立てられた気分がした。

 その金曜日は偶然祝日で仕事はなく、僕は早朝から「彼女」の痕跡を消すように部屋の片づけを始めた。



 そうしているうちに夕方になり、蝉の鳴き声がしんと静まる夜が来た。


 近所のコンビニへと足を運び、いつものように弁当を二つとビールを買って店を後にする。

 不文律とも言えるだろう。

 公園でビールを煽っていると、聞き慣れた声が僕を呼んだ。


「そこのお兄さん。公園でお酒って、子供の教育に悪くない?」


 注がれた声に視線を寄越すと、そこにはフリルの揺れるスカートと妖艶な赤いワンピースに身を包んだ「彼女」がいた。

 髪は相変わらずの金髪だが、前髪は留められて大きな双眸は僕を迷いなく真っすぐ見つめていた。


「……今朝、彼女が死んだんです。放っておいてください」


 零すと彼女は目を見張って、僕の隣に腰を下ろした。

 隣で「彼女」が僕に励ましの言葉をかけてくれるが、もう聞こえていなかった。


 「彼女」は死んだ。

 一週間前の「ヒグラシセミネ」はもうどこにもいない。

 それより前の彼女も、もうこの世のどこにもいない。


 男勝りだった「彼女」は春先に死んで、勤勉だった「彼女」は梅雨明けと同時に姿を消して、写真好きだった「彼女」は思い出と共に蝉時雨のなかに溶けていった。

 一週間前の気弱な「彼女」も玄関先で事切れた蝉のように、突然僕の中から鳴き止んで消えてしまった。



「ねぇ、お兄さん。あたし泊まるところないから、泊めてよ。その……彼女さんの話、いっぱい聞くからさ。ね?」



 そうしてまた僕の下に彼女が一人、座礁する。


 蝉の寿命を伸ばすことができるのなら、僕は何を捧げたっていい。


 思いながら、「彼女」を連れて僕はあの狭いアパートに戻った。

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