君こそが真実

増田朋美

君こそが真実

その日も暑い日であった。暑い日も寒い日も、母親業というものはいつの時代も変わらないものである。だけど、それが少しずつ、時代によって変わってきているような気がする。それはなんというか、劣化しているというか、レベルが落ちているというか、なんと言えば良いのやら。よくわからないけれど、一人の力だけでは、どうにもならない時代になってきているというのは確かである。

ときには、それで、ものすごい落ち込んでしまうこともあって、問題を抱えた子ども以上に、多くの問題を持っているというケースも珍しいことではなくなっている。そうなると、彼女を、癒やしていくということから、始めないといけないこともある。そういう母親のケースが、どんどん増えてしまっているのは、なぜなんだろうか。

その日、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べてもらおうと、奮戦力投しているところ、ガラッと製鉄所の玄関の引き戸が開いた。製鉄所と言っても、鉄を作るところではない。居場所の無い若い人たちに、勉強や仕事をする場を提供している福祉施設だ。水穂さんは、そこで間借りしている。大体の利用者は、毎日だったり、都合がいいときに、通所するような形で製鉄所を利用しているのである。みんな、心とか体とかやんでいたり、事情を抱えている女性たちばかりである。ときには、今日のように、誰かが問題のある人物を連れてくることもある。

「失礼いたします。右城先生はいらっしゃいますでしょうか。」

製鉄所の建物内に入ってきたのは桂浩二くんだった。それと同時に、こんにちはと小さな女の子の声も聞こえてきて、

「すみません、お世話になります。」

と言いながら、若い女性も一緒に入ってきた。多分、小さな女の子の母親だと思われる。

「右城先生、ちょっと相談したいことがありまして、こさせていただきました。こちらの方は、うちのピアノ教室で、レッスンを受けている、浜崎美保ちゃんです。こちらは、お母さんの浜崎一恵さん。よろしくお願いします。」

浩二くんはそう言って、小さな女の子と、お母さんを紹介した。お母さんのほうが、水穂さんに向かって、

「あの、これつまらないものですが、どうぞ受け取ってださい。」

と、お菓子の箱を取り出して、彼に渡した。

「はあ、中身は何かな?」

杉ちゃんがいうと、

「大したお菓子ではございませんが、高名なピアニストの先生ということで、持ってまいりました。」

と一恵さんはいうのだった。水穂さんではなく、杉ちゃんが一恵さんの箱を受け取って、どこかへ持っていってしまった。一恵さんはそれを見て、驚いているようであったが、

「いいえ、杉ちゃんは悪い人ではありません。彼は確かに、言葉は乱暴かもしれませんが、とても優しくて親切です。」

と、水穂さんが言ったので、そうなんですかと一恵さんは変な目つきで言った。

「それより相談とは何でしょうか。まずそれを教えていただかないと。」

水穂さんがそう言うと、

「はい、実はですね。彼女、浜崎美保ちゃんについてなんです。」

浩二くんは話し始めた。

「なにかあったんだですか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ。実はですね。彼女のレッスンについてです。実は、彼女にショパンのマズルカ2番をレッスンしているのですが、彼女に、いくらヘンレ出版社の楽譜を持ってくるなと注意をしても、いつまでも持ってくるので、それでなんとかできないかと、思いまして、相談にこさせていただきました。」

と、浩二くんは言った。確かに、美保ちゃんの持っているカバンの中には、青い表紙の分厚い楽譜が入っている。水穂さんが、それを出してみてくれと言うと、美保ちゃんはそれを出して見せてくれた。確かに、アルファベットでヘンレ出版社と書いてある。中身を調べてみると、確かに、原典版らしく、見やすい音符で書いてくれてあるのであるが、やはり強弱記号など、小さな子どもさんには、省略しすぎていてわからないと言われても仕方ない楽譜である。

「確かに、ショパンを初心者や小さな子どもさんにやらせるのであれば、ヘンレ版よりも、ミクリ版とか、コルトー版とか、そっちを使うはずです。」

と、水穂さんが言った。

「そうでしょう。だから、そっちのほうが、もっと詳しく載っているから、わかりやすくて良いよって、さんざん言ってるんですけど、美保ちゃんは聞いてくださらないのです。何回言っても、イヤダイヤダって言って。」

浩二くんは困った顔をしている。

「本人に、理由は聞いてみたんですか?」

水穂さんは浩二くんに聞いた。

「はい。それが、僕も聞いてみましたけれど、わからないっていうんです。」

浩二くんは、困った顔で言った。

「わからない。」

水穂さんはそう繰り返す。

「それこそ、彼女のお話を本当だと思わせる点ですね。」

「申し訳ありません!母親の私も、何度もやめさせようとしているんですけれども、どうしても、ヘンレ版を持っていかないと納得しないみたいなんです。それでは、行けないって、何度も言い聞かせましたけれども、それでも、嫌だ嫌だしか言わなくて。新しい楽譜を買いにいかせようとしましたが、それも嫌がりました。きっとどこかこの子、おかしいんだと思われます。治療をしてちゃんと、レッスンに行かせる様にしますから、どうか、ピアノを辞めさせないでください。」

お母さんの一恵さんが、申し訳無さそうに水穂さんに頭を下げた。

「ちょっとまってください。もしかしたら、別の理由があるのかもしれません。そういうことなら、本人に聞いてみましょう。浜崎美保ちゃんとおっしゃっていましたね。年はいくつなの?」

水穂さんは、美保ちゃんに優しくきいた。

「六歳。」

美保ちゃんはそう答えた。

「六歳。じゃあ、小学校1年生だね。その年で、マズルカ弾くなんて、かなり優秀ですね。先ほど、ピアノの先生も言っていたけど、ヘンレ版の楽譜をずっと使い続けているようだけど、どうしてそんなにヘンレ版にこだわるのかな?」

と、水穂さんは優しく聞いた。

「わかんない。」

美保ちゃんは真面目な顔で小さい声で答える。

「美保!ちゃんと答えなさい。高名な先生が聞いていらっしゃるのよ!」

一恵さんはそう言っているのであるが、

「わかんないものはわかんないよ!」

と美保ちゃんも負けないくらいに言った。

「それでは、ミクリ版とか、そっちの方を使おうっていう気持ちにはならないんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「なりません。」

と美保ちゃんは言った。

「申し訳ありません。使わせたことはあるんですが、一度もひこうとしてくれ無いのです。ヘンレ版でなければ、何も弾けないって、言ってしまう。なんでこんなに、ヘンレ版にこだわるのか、私も見当がつかないんですよ。あの、発達障害とかあると、そういう強いこだわりが出るって、聞いたことがありまして。それならなんとか治療しなければならないと思いますが、それなのにこの子ったら、、、。」

一恵さんは、何度も頭を下げている。

「では、発達障害であったら、どうなさるおつもりですか?」

水穂さんはすぐに聞いた。一恵さんは、それを言われたら、どうしようかと思ってしまっていたらしく、ごめんなさいと言うだけであった。

「何だあこの箱の中身は饅頭じゃないか。しかもその辺に売っている饅頭だった。もう、過剰包装だぜ。どうせ僕らに相談しても、無駄だとか、考えていたんだろう?」

杉ちゃんがでかい声でそう言いながら、四畳半に戻ってきた。幸いこの四畳半は、縁側につながっているため、縁側に、大勢の人が集まれるようになっている。

「そういうことなら、天童先生を呼ぼう。こういうときはだな。餅は餅屋よ。饅頭屋が餅を作ったって餅にならないのとおんなじでしょ。彼女にヒプノセラピーして上げて、癒やしてあげるほうが良いよ。」

「そうですね。そうしたほうが良いかもしれない。それなら、お願いしましょう。」

と、水穂さんもそういった。一恵さんが、ヒプノセラピーって何ですかと聞くと、杉ちゃんは催眠療法だと答えた。

「それって、催眠術とか、そういうものでしょうか?それでは、なにか、言いたくないことを無理やり言わせたり、いきなり意思を変えさせたりされるものでしょうか?」

一恵さんは、困った顔で言うのであるが、

「ええ。そういうことも十分ありえます。ですがそれは、病気を治すためには必要なことです。そうすることによって、人間は癒やされていくこともあるんです。だから何も怖いことはありません。素直に受けてくれれば良いのです。」

と、水穂さんが説明した。

「じゃあ、それなら、やってみよう。僕が天童先生に電話してみる。最近は、文字が読めなくても、アイコンを押せば電話ができるアプリがあるから、便利だねえ。」

杉ちゃんはそう言って、電話をかけてしまった。多分、ラインで電話をかけてしまったのだろう。二言三言交わすと、

「すぐ来てくれるって!良かったね!」

とにこやかに言った。お母さんの一恵さんの方は、まだ心配そうであるが、

「大丈夫です。操り人形のようになってしまうとか、ロボットにされてしまうとか、そういうことは起こりませんから。」

水穂さんは優しく言った。

「こんにちは、天童です。」

製鉄所の玄関ドアが開いて、天童あさ子先生がやってきた。

「ああ、天童先生ですか。こいつを大急ぎでセラピーしてやってくれないか。あの、ヘンレ版の楽譜にこだわり続ける理由を聞き出してくれ。」

杉ちゃんがそう言って、美保ちゃんを顎で示した。天童先生は、

「わかりました。じゃあ、暑いけど、縁側に来てくれるかな?」

と美保ちゃんに言った。とても優しそうなおばちゃんが、にこやかに、そう言ってくれているのが嬉しかったのか、美保ちゃんは天童先生の指示に従った。浩二くんが用意した座布団の上に寝てもらって、目をつぶってもらう。

「じゃあねえ、美保ちゃん。それでは、まず初めに、ここは美保ちゃんの意思でなんでも変えられる場所です。ここでは美保ちゃんが何を言っても、怒られることはないし、笑われることも無い。それでは、そういう静かな場所をイメージしてみてください。」

と、天童先生は、静かに美保ちゃんを誘導していった。

「じゃあ、今見えている場所はどこですか?」

天童先生が聞くと、

「あたしが、よく遊びに行ったところ。」

美保ちゃんは言った。

「それはどこにありますか?それとも、過去にあったとか?」

天童先生が聞く。

「はい、おばあちゃんの家です。今は取り壊してしまって無いけど。」

美保ちゃんは静かに答えた。お母さんの一恵さんは、変な顔で、それを眺めていた。

「ああ。ああいうセラピーにかかると、嘘がつけないんだ。心で思ったことを、すぐに口に出してしまう。」

と、杉ちゃんは解説する。

「おばあちゃんの家なんだ。それでは、そこで何があったの?おばあちゃんとなにかあったのかな?」

天童先生がそうきくと、

「はい、誕生日のプレゼントで、本をもらいました。」

美保ちゃんはそう答えた。

「何の本をもらったの?そのタイトルは?」

天童先生がいうと、

「マズルカ。」

と、美保ちゃんは答えた。

「ちょっとまってくださいよ!なんで母からもらう必要があるんですか!だって、その本は、自分でお小遣いで買ったって、言ってたじゃないの!」

一恵さんが思わずそう言っているのであるが、水穂さんが、それを止めた。

「セッションのときは、真実を話しているんです。それは、たとえ、嘘だと思っていたことであったことでも、本当であることだってあるんです。それが実相というものですからね。」

天童先生は、一恵さんの話を無視して、美保ちゃんの話を続けた。

「そうなんだ。美保ちゃんはおばあちゃんが本当に好きだったんだね。」

「ウン。なんでも話を聞いてくれたから。」

「なんでも話を聞いてくれたんだ。それはどんな話を聞いてくれたの?」

「ウン、いつもママがテストで点数が摂れないことで怒るけど、おばあちゃんは、それを気にしないでいいって笑って許してくれたの。だから、美保はおばあちゃんは大好き。」

「そうなんだねえ。じゃあ、おばあちゃんに会いに行ってみる?ここは美保ちゃんの世界だから、おばあちゃんがこの世から消えてしまっていてももう一度会うことも出来るのよ。」

天童先生と、美保ちゃんのやり取りを聞いた一恵さんは、

「何を言ってるの!」

と思わず言ってしまった。

「まあ、待て待てだな。美保ちゃんが本当のことを話しているんだからさ。もう少し優しくなってあげてくれ。」

杉ちゃんが、思わずお母さんの一恵さんに言った。

「なんであの子は、私を散々バカにしていた私の母から楽譜をもらったりしていたのかしら!私には、そういうことは、何もしてくれなかった母なのよ!それなのに、美保にはそういうことをするなんて!」

そう言っている一恵さんに、杉ちゃんは、縁側から庭に出るように言った。これ以上美保ちゃんの邪魔をされていては、正確なセラピーができなくなってしまうと思ったからだ。

「私だって、色々苦しんだのよ。母が本当にひどいこと平気で言ったりするから、どうしても、そこから逃れられないので、なんとかしてくれって、頼もうにも頼めなかったから、私一人で耐えたわ。それなのに私には一言も謝罪をしないで、美保にはそうして、楽譜をあげたりしていたなんて、やっぱりあの人はずるい人!なんとひどいことを平気でしていたのでしょう。」

一恵さんは、庭に出ても泣いていた。

「まあひどいことというか、じゃあ聞くが、お母さんってどんな人だったの?」

杉ちゃんはそう聞いて見る。

「本当にひどい人でした。私のことはかまいもしないで仕事ばっかりして。自分がエリート商社に勤める会社員だったせいか、私の授業参観にも殆ど来なかった。その割に、私の進学先とか、そういうことにはうるさくて。私は、今は退職しているけど、それまでは、病院で働いていたんです。母ときたら、私が資格取って、働く場所は自分で選びたいと言ったのにもかかわらず、就職先まで決めてしまって。私は、そこで、何年か働いたけど続かなかった。それはみんな母がおせっかいをしたせいですわ!そんな母には、私の子どもには手を出してほしくなかったのに、そうやって優しいおばあちゃんに変貌して、そうやって、孫には楽譜まで上げて!実の子である私には全く関心なんかなかったくせにね!」

「そうなんだなね。それは辛かったな。」

杉ちゃんは、一恵さんが一番望んでいる言葉を言った。

「孫の、美保ちゃんには、優しくして、自分には何もしてくれなかったお母さんを許せないんでしょう?」

「よくわかっちゃうわね。」

一恵さんは言った。

「あたしが、望んでいたのは、仕事を探してほしいとか、そういうことじゃなかったんだけどね。なんで、私にしてくれなかったことを、孫にはしてるんだろう。」

「いやあ、人間なんてそんなもんじゃないのかな?誰でも完璧な人なんていないし、お母さんは、ただ、悪いことしたなっていう後悔の気持ちは持っていて、それで、お前さんの子どもである美保ちゃんには優しくして、それで償おうと思ってるだけじゃないのか。それだけじゃないの?だから、そういうお母さん見て、もう許して上げようって言う気持ちを持たないと。一生お母さんのこと憎み続けるのも、辛い人生しか得られなくなると思うし。それは、そういうことじゃないのかな。どうだろう?」

杉ちゃんは、一恵さんにそう言った。一恵さんは、本当につらそうな顔をしていて、

「でも、あたしには、本当に何もしてくれなかった母です!そういうことなら、私に謝ってほしい!私が寂しい思いをしたことを謝ってほしい!」

というのであった。

実は、セラピーが必要なのは子供さんだけではない。こういう大人の人も、セラピーが必要になるケースもある。そういう大人の方が、セラピーを受けて、回復するのに時間がかかることが多い。パニック障害とか、そういう具体的な症状を出している大人の患者さんであれば、まだそういう機械に恵まれる人もいるが、そういう矯正機関に恵まれないで、迷惑だけを残す人も、非常に多いのである。中には、そういうヴィランズ的な人が、

意外に大事なことを考えていて、その表現の問題があることで、周りの人が、病気になることもある。

「まあ、そういうことだ。忘れろとか、そういう簡単なことではないってことはわかるから、無責任にそういうことは言わないけどさ、お前さんの持っている怒りとか、悲しみも癒やされると良いね。そして、お前さんの二の舞いにならないように、美保ちゃんに接してあげることを注意してね。もう人間に出来ることって、事実に対してどうしたらいか考えることしかないからさ。それだって実行できるかわからないじゃないか。何よりも、考えることが出来るのが、すごいところだよ。それができて良かったじゃないか。まあ、そういうふうに良いように考えるんだ。ははははは。」

「あなたって、本当にあっけらかんとしてて、不思議な人ね。」

杉ちゃんの言葉を聞いて、浜崎一恵さんは、ちょっとため息をついた。

「あたしもそういうふうに気持ちが切り替えられたら良いのにな。」

「まあ今はできないんだったら、いずれ出来るようになるんだって、のんびり構えていればそれで良いよ。きっと、どこかで変わるときはあるからさ。それで、考えれば、それでいいさ。」

「そうなのね。」

一恵さんは大きなため息をついた。

一方その頃、美保ちゃんは、天童先生のセラピーを受けて、静かに眠っていた。セラピーをし終えると、気持ちよくなって眠ってしまうこともあるという。そういうときは、無理やり起こしてしまうことはせず、静かに待ってあげてねと天童先生は言った。

「美保ちゃん、お祖母様から、メッセージをもらえて、嬉しそうですね。」

浩二くんがそういった。

「ええ。きっと、生きている人間だから、それなりに後悔して生きていることもあると思います。だから、本当にどっちか一つが柔らかくないとだめなんですね。それは、よくわかりました。」

水穂さんも、そういったのであった。

「それじゃあ、次のレッスンでは、ヘンレ版を持ってくるのはやめてくれますかね?」

浩二くんが天童先生にいうと、天童先生は黙って指を口に当てた。

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