(結) 卒業後 夏

 結論から言うと、私は教師になったものの、わずか一年と少しで休職してしまった。


 新任でいきなり学級担任を任されたのだ。初めての学級運営に生徒への指導、保護者対応などに追われるが、日々の授業や教材研究も手を抜くわけにはいかない。それらに加えて初任研修も受講し、課題をこなさなければならなかった。

 朝は六時半からの部活指導に始まり、ホームルーム、担当科目の授業、ノートや課題のチェック。昼食時も給食指導をしなければならないので休憩時間ではない。放課後は十八時まで部活指導し、生徒たちを帰してからも仕事は続く。他の先生方にならって夜二十一時ごろまで残業することもあった。働き方改革で退勤時間を早める取り組みもあったが、持ち帰りの仕事が増えたり、早朝の打ち合わせや会議が増えるだけだ。土曜日や日曜日も部活指導で出勤する。部活指導は若手教師が率先してすべきだし、「はやく生徒たちと打ち解けられるといいね」という先輩教員からの気遣いもあった。

 つらいのは自分だけではない。他の先生方も同様に忙しく、合間を縫って私に指導をしてくれるのだ。弱音なんて吐いていいわけがない。教職課程で学び、教育実習を経て、覚悟を決めていたはずだ。

 生徒たちは素直で、ちょっと手のかかるとこも可愛くて、理不尽な要求をしてくる保護者も思っていたよりずっと少なくて。同僚の先生方も尊敬できる素晴らしい人たちで、指導教員の先生もとても優しく親切で。……なのに時間だけは全然足りなくて。キャパオーバーになっているのはひとえに自分の能力不足で、どうしようもなくて。

 ――大変でしょう。

「いいえ、そんなことありません。生徒たちも良い子たちばかりですし」

 ――大丈夫?

「大丈夫です。何も問題ありません」

 ――無理してない?

「していません。ご迷惑をおかけしました。以後気をつけます」


 常に限界を感じながらも、一年目はなんとか乗り越える。そして二年目の春、とうとう限界を迎えた。

 新年度になったところで何かが変わるわけではない。むしろ終わりのないマラソンを走っているようなものだ。まるで操り人形の糸がぷつりと切れたように、がらがらと崩れ落ちたきり動けない。頑張らなければという気持ちはあるのに体が言うことを聞かない。つのる焦燥とは裏腹に、すべてが鈍化した。

 精神科の医師によって下された診断は、うつ病。今はとにかく休養が必要だと説得され、休職することになった。


 実家に帰り、療養を続けるうちに季節は移ろう。

 恨めしいほどに晴れる夏空と鬱陶しいセミの鳴き声。増えていくのは空になった薬のシートだけ。抗うつ薬、心身安定剤、睡眠薬。何も成せないまま日々だけが無為に過ぎ去ってゆく。

 そんなとき、思いもよらない来客が現れた。

「……柑奈?」

 宅急便でも来たのかと玄関の引き戸を開けると、柑奈が立っていたのだ。最後に会ったときと変わらず穏やかな笑みをたたえて。でも色素のうすい髪だけは少し伸びていて、それが陽の光に照らされてきらきらと輝いていた。

 そして柑奈は「たまたま近くまで来たから」と言うが、そんなはずはない。最寄り駅まで十数キロ、バスは一日に五本きり、こんな田舎にたまたま来るなんてない。こちらに親戚がいるという話も聞いたことがないし。でもそれを指摘するのは野暮だと思ったから、「そうなんだ」と素っ気なく返事をした。なぜ、何の用事で来たのか、誰かに私のことを聞いたのか、次々と浮かぶ疑問は考えるだけ無駄だと思った。

 とりあえず柑奈を客間に通して、冷たい麦茶を出す。気温三十度を超える真夏日だ。この炎天下に同級生を追い返すほど、私も鬼ではない。

 けれども座卓を挟んで正面に座ると、私は手持ち無沙汰になったような気がしてしまって、長い黒髪を耳にかける。意味もなく正座した足をさすり、畳に目を向けてみる。いったい何を話せば良いのだろう。休職したことや病気のことは話したくない、弱みをみせたくない。相手が柑奈だからではなく、誰にも言いたくない。他に話題はあるだろうか。そう考える頭の隅で、柑奈と色違いで買ったダルマを下宿先に置きっぱなしにしておいてよかったと、場違いなことを思った。私はまだ、ダルマに目を描きこめていない。

 先に話を切り出したのは柑奈だ。

 麦茶を飲み、一息ついた柑奈が紙箱を取りだし開いた。

「お土産持ってきたんだ~。味噌まんじゅう。食べよ食べよ」

 目の前に、楕円形のまんじゅうが詰まった箱が差し出される。私は柑奈の視線にうながされるまま、ひとつ取りだして口に運ぶ。優しい甘さとほのかな味噌の風味が口内に広がった。

 私はそのまま、柑奈の話に耳を傾ける。この味噌まんじゅうは地元で有名な和菓子屋さんのもので、つい先日もテレビで紹介されたとか。地元は内陸だから毎日暑くて大変だけれど、近所の美容室で始まった冷やしシャンプーが最高だとか。様々なポーズをとる愉快なミロのヴィーナスがガチャポンになったから引いてみたけど、目当てのものを引き当てるまでに回数がかさんでしまったとか。そのせいで机がミロのヴィーナスに占領されているとも。

 そんな他愛のない話ばかりで、まるで大学生のころに戻ったかのようだ。私の口角も自然と上がる。笑ったのはいつぶりだろう。

 ひとしきり話し終えた柑奈が麦茶を飲む。グラスを置くと、溶けかけの氷がからんと音をたてた。

「気が向いたらさ、ときどきこうやってお喋りしようよ」

 メッセージ送ってくれてもいいし、と柑奈が付け足す。

「たまには今日みたいな日があってもいいと思う。こうしてなんでもないことを話すの、だらだらしながらね」

 障子越しに差しこむ柔らかな陽光を背に、柑奈が茶目っけのある笑みを浮かべた。

 あんなにも眩しいと思っていた柑奈が、柑奈の優しさが、今は心地良く感じる。

 近況や病気のことを聞くでもなく、腫れ物のように扱うでもなく、今まで通りに接してくれることがたまらなく嬉しい。私が柑奈のことを避けて、疎遠になって、私たちの関係は終わってしまったのだと思っていた。しかし、それは私の勝手な勘違いだったのだと信じさせてくれる。

「……ありがとう」

 目の奥が痛む。喉もぎゅうと詰まって声が貼りつく。それでも震える声で感謝を伝えると、彼女は、とびきり輝く笑顔をくれた。

 彼女のそういうところに、私はどうしようもなく惹かれ、焦がれるのだ。ずっと大切な友だちでいたい。そして今日、私の元を訪れてくれた彼女も、同じ気持ちであれば良いと思った。

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勘違いのアルビレオ 十余一 @0hm1t0y01

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