別れの儀式 3

 王の執務室に隣接する茶の間は、二人にとって最も思い出深いところだった。だからだろうか、長く主を欠いたその部屋を彼女たちはあえて会談の場に選んだ。


 それぞれに付いた侍女たちを下がらせて、二人は勝手知ったる長椅子に対面で腰掛ける。

 先に口火を切ったのは王妃ブラウネである。


「このお部屋はやはり落ち着きますね」

「ええ。本当に」


 見事な宝玉のごとき蒼眸は、年数を重ねた瞼の中にもまだ十分な輝きを保っている。うっすらしわが入り、若干厚みを増した肢体は両者変わらない。

 対面の女性を眺めるメアリは、その姿が自身の現し身であろうことをよく理解していた。


「あの頃はよくこちらでお話ししましたわね」


 メアリは遥か過去の一幕を手繰り寄せる。

 まだ二人が王妃ではなかった頃、名ばかりの“侍女“であった頃、暇を持て余した彼女たちはよくここで四方山話に花を咲かせたものだ。

 それは時には意地の張り合いであり、時には寵愛の誇示であり、時には同志の結束を固めるものであった。

 おもいびとの鈍感や無作法、ちょっとした瑕瑾は絶好の話題になった。

 彼女はぬいぐるみを作りながら、ブラウネは編み物の手を動かしながら、当て所ない話をした。


「メアリさんはまだぬいぐるみを?」

「時折は。手のかかる娘もおりませんし」


 愛娘メアリ・アンヌは腰掛けの軍学校を無事“卒業“し、現在は国家親衛軍近衛連隊、つまり母の実家バロワ領に勤務している。とはいえ、実態は母メアリのそれよりもさらに儀礼的な色合いの強いものだ。

 ルロワ譜代諸侯の姫ですら腫れ物にさわる扱いなのだから、王女たるメアリ・アンヌに示される“配慮“がどれほどのものかは容易に想像がつく。


 出立の前にメアリは娘に意味深い助言を与えた。

 “お飾りの姫であり続けるかどうかはあなたの意志次第です“と。

 それは飾り物でありたくなかった彼女が娘に託した夢であり、ある種の呪いであった。


「それは嬉しくもあり、寂しくもあり、ですわね」


 ブラウネの言葉にこもった想いもまた分かる。娘しか持たぬ彼女と違い、ブラウネには息子がいる。つまり王の息子が。


「ブラウネさんもそろそろでしょう。ロベル殿下はご立派な男ぶりでいらっしゃいますし、フローリア様も母の手を離れる頃あいです」

「まぁ! メアリさんにお褒めの言葉をいただけるなんて、ロベル殿下もお喜びになりますわ」


 昔ながらの柔らかい声色で喜ぶブラウネを見ながら、メアリはその息子ロベルのことを思い出した。

 ロベル王子は今年19歳。

 容姿は父親によく似ている。身長が幾分高く、目が母ゆずりの青であるところ以外、まさにメアリが若い頃に見た“グロワス王子“そのものだ。

 だが、快活といえば聞こえは良いが、多分に無作法と荒々しさにまみれていた当時のグロワスとは、その内面が全く異なる。

 ロベル王子はグロワスに似たのだ。


 青年が父の面影を最も強く受け継いだところは容姿などではない。その性格だろう。

 物静かで穏やか。常に薄い笑みを浮かべている。言葉と素振りに何らかの“意味“を込める姿勢をも受け継いでいる。

 そして時折、本心が分かりづらい。


 王子は今年中に大公爵に叙せられることが決まっている。

 二重戦争で辛くも切り取った低地南部の中心都市ジェントがその所領となる。条文ではサンテネリの所有権を確定させたものの、実効支配はなされておらず、将来なされることもない。つまり実態の伴わぬ“称号“にすぎない。

 この決定を受けたロベル青年は意外にも大いにはしゃいだ。

 新年を祝う夜会の際には、まだ正式な叙任前であるにも関わらず、自身を「ジェント大公」と名乗って憚らぬありさま。弟たる王太子グロワスにも「このジェント大公がお支えいたしますよ!」と酒の入った赤ら顔で語りかけた。

 群臣の面前で。


 それはまさに青年の父、グロワス13世の在り方であった。王が感情を露わにするとき、そこには必ず意味がある。政治的な含意が。

 ロベルのこれみよがしな上機嫌を眺めながらメアリは苦笑を禁じえず、同席した娘に不思議がられたものだ。


「ロベル様は本当に…陛下と瓜二つにさえ思われます」

「そうでしょうか? 殿下は陛下よりも断然素直でいらっしゃいますのに」


 メアリの言を否定しながらも、ブラウネの表情は満更でもない内心をよく表していた。

 手に持った白い扇で二度、三度、顔に風を流す。


 そして不意に真顔に戻った。


「ねぇメアリさん、わたくしのお話を聞いていただけるかしら?」

「もちろん。私でよければ」


 ブラウネは扇子を両の手に優しく持ち、ゆっくりと身を乗り出す。


「ロベル殿下は御年19歳でいらっしゃいますわ。そろそろ然るべき女性と親しくなされてもおかしくないお年でしょう?」

「そのようですね。殿下にはどなたか意中の方がいらっしゃるのですか?」


 ブラウネから会談の申し入れがあった時、話題は二人が共有する夫のことか、あるいは王子のことだろうとあたりは付けていた。だが詳しい内容までは想像もつかない。


「私も存じ上げなかったのですけど、先日首相殿がこっそりお教えくださいましたの。なんでもデルロワズ家の姫と親しくお言葉を交わされる仲とのこと」

「それは素晴らしいことに思われます」


 大筋を理解したメアリはあっさりと答えた。

 ロベル王子がデルロワズの姫と“親しく言葉を交わしている“事実など恐らく存在しない。もし事実ならばブラウネが把握していないわけがない。王子自身が言わずとも側仕えの誰かが必ず御注進に及ぶはずだ。

 よって、要するに「そういうことにしたい」というブラウネ、ひいてはフロイスブル侯爵側の要望であろう。そしてデルロワズ家に、現在婚姻に適した年頃の娘は一人しかいない。メアリの実妹ルイーゼが産んだヴァランティナである。


「首相殿に詳しくお聞きしましたら、その姫のお母様はバロワの方と。ですから、メアリさんにはぜひお話ししておきたいと思いましたの」

「ヴァランティナ殿ですね。しかし良いのですか? 母ルイーゼは側妃です。殿下のお側に侍るには…」


 ブラウネはゆったりと笑顔を見せた。

 若き日には全てを包み込む柔らかさに満ちたそれは、今、重さをも秘めている。


「ええ、ええ。問題などありません。私達も側妃ですから。わ」


 それは核心の一言。

 正妃と側妃には待遇の差などほぼ存在しない。ことにグロワス13世の宮廷においては皆が同等に名を呼び合う仲である。

 だが、明確な違いが一つだけある。それは子の継承順位である。

 現在問題になるのがまさにであることはメアリも十分に理解していた。彼女は息子を持たないため、いわば観客のような役回りであるが、だからこそ分かりやすかった。

 ブラウネの“大した違いはない“という言葉には恐らくそこまでの含意がある。

 継承順位に大した違いがないのであれば、ロベルが即位することも選択肢に入ってくる。


「とても大切なことですから、誤解がないように慎重にお話しいたしましょう。つまりブラウネさん、陛下のご決定に不満が?」

「まぁ! そのような! わたくしは不満など持ちません。…ただ、少し怖く感じているのも事実です。わたくしやロベル殿下が不満を持たずとも、がそれをご理解くださっているかは分かりませんから」

「王太子殿下はロベル殿下と仲睦まじくいらっしゃるのでは? よくお二人で和気藹々お話しになっていらっしゃいます」

「ええ。本当に。王太子殿下よくして下さいます。ただ…」


 王の息子たちの仲は今のところ悪くない。

 王太子は依然ロベルを「兄上」と呼び、何かと一緒に行動したがる。メアリ・アンヌが戻った折には、昔のように姉を囲んで3人で盛り上がる姿をメアリは目撃していた。

 ならば問題は、王太子のであろう。


 しかし、本当にそこで止まるのか?

 ロベル本人にがないことは明らかだ。彼は「ジェント大公」でありたいのだろう。青年は賢い。自身の存在が火種であることを十二分に理解しているし、大火など望んでいない。

 だが、そのは?


「ブラウネさん、私から申し上げることは一つしかありません。ルロワ由縁の家は誼を通じるべきと感じます。デルロワズ公家とのご縁が結ばれるのであれば祝福いたします。ただ一方で、陛下のご意向は揺るがせません」

「それはもちろんのこと! 陛下のご意向のままに」


 疑われては心外とばかりに語気強く、ブラウネが応じた。


 それで話は終わった。

 究極的なところ、王太子とロベル王子をめぐる問題において彼女は部外者だ。彼女は元を辿ればバロワの姫である。バロワが司った近衛軍の使命は王を護ることであり、それが誰であるかは関係ない。


 だからメアリは早々に意識を別の方向へ向けた。

 極めてところへ。


 “陛下のご意向“。

 自分で口に出しておきながら、それは鋭くメアリの口内を傷つけた。

 魚の小骨。

 しかし存外に硬いそれは喉につかえたまま取れない。


 このままでは、取り除く機会は時期に失われてしまう。

 だから確かめねばならない。“陛下のご意向“を。

 自身の二十年間を精算するために、持ちうる限りの勇気を総動員して。






 ◆






「おはようございます。陛下」


 時刻は午後。起床には遅すぎる。

 だがあえて、メアリはそう呼びかけた。


 昔のように。

 同僚であり競争相手でもあったブラウネと共に、王の”侍女”として仕えた頃のように。王が目を覚ます半刻ほど前から寝室に待機していたあの頃のように。


 普段世話をされる立場ゆえ、それはとても新鮮な体験だった。

 男は目を覚ますと掠れた声で「ああ…おはよう、メアリ殿、ブラウネ殿」とあいさつを返す。戸惑いと引け目、気恥ずかしさ、そして眠気。それらが混ざり合って発せられる言葉は何ともとぼけた風合いだった。

 二人は男のそんな反応を好んだ。

 不敬でありながらも、そこにかわいらしさを感じたのは事実である。

 恐らくあの時既に、メアリは男を愛していたのだろう。ブラウネもまた同様に。

 好意がなければ”かわいらしい”などと感じようはずもない。むしろ汚らわしくすら思えたはずだ。


「ああ、メアリ殿か。私は…少し、寝ていたかな…」


 男の声は当時と変わらず可愛らしく思われた。

 それが掠れきった、絹糸よりもなお細いものであったとしても。


「お加減はいかがですか、陛下」

「悪くはないね。あなたが起こしてくれたのだから」


 メアリは笑顔を作ろうと努めたが、残念なことに結実しなかった。

 王の目があらぬ方向を向いていたからだ。

 彼女を見る者は、この寝室にはもはや誰もいない。


「今日はとてもよい天気です。——暑くはございませんか?」

「…確かに、少し暑いね。少し」


 男は寝台の毛布から右腕を引きずり出す。肘を支点に前腕を直立させると、ゆとりのある上衣の袖が下がり素肌が露わになる。

 彼は手のひらを開き前後に動かす。扇ぐ仕草だが、振り幅が足りず顫動にしか見えない。


 メアリは男の腕を無言で眺めた。

 それはもはや男の腕ではなかった。

 食い散らかされた鶏肉。残った骨だ。

 そして、骨の先に大きな皮膜をまとわせた手のひらがしぶとく繋ぎ止められている。


 寝台に差し込む光が手のひらを照らす。

 彼女がそこに認めたものは、斜めに走る大きな傷跡である。たるんだ皮に包まれて消え入りそうな。


 腹の底からせり上がる大きな波がある。

 女の胴の中心でそれは震える。腹を、乳房を、それは揺らす。

 吐き出してしまいたいが叶わない。それは波だからだ。物体ではない。


「グロワス様…」

「メアリ殿、泣かれているのか」


 辛うじて手のひらに感じるものは恐らく女の手であろうと男は推測した。耳に届く鼻声は涙混じりと想像した。


「グロワス様…もう、もうよいのです。——どうか治療を」

「治療は受けている。酒も飲んでいないし、しっかりと水を…」


 男の手を握りしめる自身の手は理性に反して凶暴なまでの強さだ。

 メアリは握りつぶそうとしていた。男の手を。


「私はもう疑いません! もう、決して! 陛下…ですから、すぐに瀉血しゃけつを!」


 彼女は涙ぐんでなどいなかった。すでに泣いていたのだから。


「あなたは…いつも早とちりをする。私はあなたを疑っていない。などと。…瀉血をしないのは、ただ無意味だからだ。ご存じの通り…私は意地汚い男だ。一秒でも長く生きたい」


 男が患った病はサンテネリにおいて「渇病」として知られている。

 患者が一様に喉の渇きを訴えることから付いた名である。

 この病は、体内の汚れた血が行き場を失い身体中に充満するところから生じる。廃血は体内から身体を腐らせていく。大抵の者は実際に身体が腐敗する前に脳がやられて死に至る。

 患者達が水を欲するのは、本能的に汚れた血を薄めようとしているのだと考えられていた。

 標準的な治療法は、汚染された血を大量に抜き取る「瀉血しゃけつ」。

 それに尽きる。


「陛下! もうよいのです。——陛下は心からあの子を生かそうとなさったのだと、私は分かりました! ですから…」


 メアリ・アンヌ出産の2年後、二人の間に待望の男児が生まれた。

 子はリシャルと名付けられた。

 健康体とは言いがたい小柄な赤子は、それでも1年と少し生を保った。

 突如高熱を発し全身を震わせる王子に対して宮廷医は瀉血を施そうとした。症状は体内の血量が多すぎるために引き起こされたものであることはである。よって、ごく標準的な対処をしなければならない。血を抜くという。


 しかし王は許さなかった。

 瀉血など無意味である。無意味どころか体力を削ぐだけの有害な対処である、と。

 そして王とメアリの息子は死んだ。


 王が瀉血を拒む際に見せた剣幕は、およそメアリが初めて目にする苛烈なもの。王は心の底から瀉血を有害と信じている。彼女はそう感じた。

 その必死な様はつまり、有害な処置から息子を遠ざけようとする——生かそうとする意志に思われた。

 思われはした。


 だが、一点の染みが頭の片隅に残る。

 体面ゆえに、発育不良の息子を殺したかったのではないか、は。


 権威ある宮廷医の言をで退けるなど、普段理性的な王としてはあり得ぬ行動だ。ならば裏にがあるのではないか。


 メアリはその染みを綺麗に拭き取った。

 王が見せた憤りと断固たる命令は、子の生を願う真心に見えた。

 しかし、ごく稀に、にじみ出す。

 その度に彼女は拭った。


 拭い続けて、今、寝台の夫を見ている。決然と「治療」を拒むその姿を。


 メアリは理解した。

 夫は息子を殺そうとなどしていなかった。彼なりに生かそうとしたのだ。

 もしあれが殺しの方便だったのならば、自分の命の危険に際しては「治療」を受けるはずだ。しかし、夫は自身の命をかけて、今こうして、その真心を彼女に示している。

 何が彼に「治療」を疑わせるのかは分からない。だが、少なくとも「治療」が無意味であると心から信じていることだけは分かる。

 つまり、夫は最後まで「治療」を受けない。


 そして死ぬ。

 断固として。あの子リシャルのように。


「いや…! いやですっ!! いなくならないで! 私のところにいてください! グロワス様! リシャル!」


 彼女は叫んだ。病室となった王の寝室で。

 そして男の胸に顔を埋める。透き通る金の髪。丁寧に結い上げられたそれは、今や千々ほどけて毛布の上で幕を作った。

 黄金の。


 男は右の手を下ろし妻の髪を梳く。かつて為したように、丁寧に、その行為は行われた。


「メアリ殿は、いつも私の胸で泣くね」

「…へいか、グロワスさま…」


 一度決壊した堤は用を為さない。

 涙も、鼻水も、よだれも、全て止まることはない。

 彼女の中に溜め込まれた涙の類いは、およそ20年近い歳月をかけて蓄積されたものだからだ。枯れることはない。


 女はもはや言葉を話さない。

 低いうめきだけが残り続ける。

 男はそれを黙って聞いていた。


「メアリ殿。あなたは優しい人だ。——いつも私を許してくれる。私を信じてくれる」


 自身の頭蓋の重みに耐えかねて、彼は後頭部を枕に預けた。

 彼は肌で世界を感じている。

 首筋から頭頂にかけて当たる綿生地の柔らかさと、心臓の真上に乗ったの硬さが、世界の全てだ。










「メアリさん、知っているかな。…は呪いだ。恩恵なんてない。ぼくとあなたを苦しめただけだ。——こんなものは、ほしくなかった」


 メアリ。

 自身の名を示す音。

 それ以外、彼女は男の言葉を一語たりとも聞き取れなかった。

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