別れの儀式 2

「殿下のご来訪は来週に決まりそうです。いかがです? 良い調子だと思われますが」


 内務卿エランは父譲りの癖がかかった長髪を揺らして、寝椅子に深々と身体を沈めた老大公に伺いを立てる。


「そうかそうか、アニェスはお手柄だな。殿下には是非”檻の外パール・ルミエ”を楽しんでいただこう。おまえもだ。上手くやれ」


 長く勤めた首相の座を退いた今、再び表舞台に立つことはない。

 それをよく分かった上で、代わりに息子を内務卿職に押し込んだピエルにとって、やらなければならないことはそう多くはなかった。

 最後の仕上げのみだ。


「それにしても、フロイスブル殿も悪あがきが過ぎましょうよ。この期に及んでの後継争いなど、我らが許しても民が許しますまい」

「後継? そこまでか…」

「はい。父上も気分転換にいかがです、勝利広場あたりを散策されては。民の声は正直ですよ。シュトロワの民は皆、王太子殿下の味方です。殿下ご即位の暁にはついに政治は一本化されます。何しろ民の支持がある。ですから、彼らの恐れもまあ分からんではありません」


 ピエルはちらと横目で息子を眺める。

 そして暗澹たる思いを新たにする。


 経験が足りない。洞察が足りない。

 アキアヌ大公家の跡取りとして、そしてサンテネリ王国の中枢で活動する政治家として、ピエルは息子に様々な機会を与えてきた。自身の名代として政界官界問わず交渉事に当たらせてきた。

 だが結局のところ、それは彼が敷いた道を歩かせたに過ぎない。あるいは彼と枢密院主催者が合作した道を。

 だから今回は、目的を伝えた上で敢えて全てを任せた。

 そして明らかにやりすぎた。

 現王の醜聞を広めながら、同時に王太子の美名を強調する工作はさほど難しいものではない。そもそも民衆の間に種火があったのだ。少し風を送り込んでやるだけですむ。

 しかし、火勢が強くなりすぎれば延焼の警戒を招く。敵意が明確になる。そこまでは求めてられていなかった。後継争いまでは。


「民は動かしやすい、か?」

「それはもう。面白いように。要するに父上、あれですな。彼らが”信じたい”ものを与えてやればいい」


 老大公は息子の軽やかな言葉に返事を与えなかった。


 二重戦争末期、戦争終結のための成果を求めたサンテネリ軍は低地諸国に侵攻、易々と南部を占領し、低地諸国の盟主都市にしてアングラン王家の祖地オラージュへ迫った。しかし、低地同盟とアングランの連合軍の抵抗は存外に強く、国軍は中部から北部を1年近く転戦したのちオラージュ攻略を断念、南部領域を低地同盟から独立させることを条件に兵を引いた。


 そして屈辱的な講和がやってきた。

 サンテネリは広大な新大陸領土を名実ともに喪失し、シュトゥビルグ王国における権益を失い、中央大陸における威信を喪失した。

 一万を超える国軍の精鋭を失い、”南部都市同盟”なる蜃気楼の如き緩衝地帯を得た。

 シュトロワで結ばれた講和条約は、サンテネリの歴史上最も屈辱的なものであった。


 一方で、華々しい勝利の栄光を手にしたアングランも実態はお寒い限りだった。

 アングランは新大陸とプロザンの両者に膨大な物資と資金、そして時には兵士をも供給した。それは明らかに国富を毀損する規模の大盤振る舞いである。損失を補填せねばならない。戦勝に沸く首都の喧噪をよそに、首相宮では関係者達が頭を抱えていた。


 だが、サンテネリの市民達にとって、そんな事情など見えはしない。

 サンテネリは負けたのだ。


 ならば責任が問われねばならない。

 枢密院が差し出したものは首相アキアヌ大公と軍務卿デルロワズ大公の首であった。彼らは粛々と職を辞した。


 時を同じくして、剣呑な空気に包まれたシュトロワに噂が飛び交う。

 二重戦争は名誉欲に駆られた王が始め、軍事力を過信した王が失敗し、戦に反対した両大公にその責を押しつけたのだ。と。

 それは事実であった。少なくとも、王が始め王が失敗したという点においては。

 王は枢密院主催者であり、枢密院令の根拠たる国王大権の持ち主である。つまるところ、全ての責任が行き着くところは一つしかないのだ。そこに個人の思惑が考慮される余地はない。


 アキアヌ大公ピエルへの同情と並んで——いわば抱き合わせの形で”お話”に、王太子賛美がある。

 エストビルグ出自の母を持ちながら、あえて”第一のサンテネリ人”たろうとする少年。平民達を慈しみ、常に彼ら——つまり我ら——を”同胞”と呼ぶ少年。宮廷の分厚い緞帳の裏で、”同胞”を守るために父王と対立し、その戦争指導を非難した

 それが事実であったかどうかは分からない。少なくとも民には。

 だが、それは民が望むものだった。


「エランよ、なぁ内務卿殿。おまえは上手くやらねばならん」

「ええ、もちろんです。それにしても父上は陛下の口癖がいつの間にか伝染ってしまったご様子。——仰せの通り、私は”上手くやります”。造作ないことでしょう」


 息子の横顔を印象づける鷲鼻をピエルは冷然と眺めた。

 出来の悪い息子ではない。何事もそこそこにこなす。先を見渡すこともできる。

 だが、先の先が見えない。

 だから比べてしまうのだ。目の前ですまし顔を見せる息子と大して歳も変わらぬ、もう一人の男と。


「明日、宮殿に行く」

「左様ですか。どなたかとお会いに?」

「私が会いに行く相手など決まっておろうが。なぁ、エランよ」

「ガイユール殿でしたら、近々私もお会いしますので、その際に」


 ピエルは生来気の長い方ではない。苛立ちを抑えるのは特に苦手な質だ。


「エラン、エラン! おまえは何だ、何を言っている? え? 私は宮殿に伺うと言っただろうが!」

「父上、落ち着かれませ。先ほどお伝えした通り、王太子殿下ならば来週こちらに…」

「内務卿殿。サンテネリ全土の行政を差配なさる、いとも偉大な御身が、この哀れな老人の胸の内一つ読んでくださらない。なんと嘆かわしい! ——いいかエラン。私は陛下に拝謁するのだ!」


 父の剣幕を受けてエランは混乱の最中にあった。

 光の宮殿がグロワス王の座所であることなど分かりきっている。しかし、王との会談は選択肢から早々に除いてしまっていた。

 会う意味など無いからだ。


「…では、お別れのご挨拶に?」


 恐る恐るといった体で息子が発した一言。

 もはやピエルには我慢がならなかった。


 彼は寝椅子から身体を起こし、足を地に下ろしてゆっくりと立ち上がる。

 そして傍らに立つ息子の鼻先まで詰め寄った。


「ご相談に伺うのだよ。陛下に。——、と」


 息子の耳元に囁きを残してピエルは部屋を出た。

 不安——あるいは恐怖をも呼び起こす巨大な感情を抱えながら。







 ◆






「グロワス殿、神の御裾の元、ご健勝にあらせられるか?」


 アキアヌ大公ピエルはいつも通りの流儀で行くことにした。つまり持ち前の諧謔を御さぬ在り方だ。

 彼が声を掛けた相手は、巨大な寝台の中に隠された枯れ枝のようなものだった。

 そこに”ご健勝か”と呼びかけるのは不謹慎を通り越して笑いすら誘う。

 よって男も笑った。


「ああ、アキアヌ殿か。私は元気にしておりますよ。あなたはいかがか?」


 男の声は細い。喉奥から絞り出されたそれには水分が無い。乾いている。


「いやいや、陛下、お聞き下さいな。私はもう、何とも弱り果てている」


 ピエルは無造作に、無遠慮に、寝台横の椅子にどっかりと腰を据えた。そして男を見る。鋭利な刃物でえぐり取られたかのように窪んだ頬を。定まらぬ視線を。


「私はこちらにおりますぞ。音でお分かりでしょう」

「あなたの声は大きいからね。響いてしまってあちらこちらから聞こえてくる」

「それは申し訳ない。では囁くように話そうではないか」


 男の翠眼は既に空疎だった。そこからは何も発せられない。かつてあれほどに煌めいた意志の光も、何も。


 老大公は特に感慨を持たなかった。彼は別れの挨拶に来たわけではない。断じて。

 彼は相談しに来たのだ。20年前からそうしてきたように。同志に。


「お忙しいところ、陛下の御宸襟を騒がせ奉りますがね」

「そうだ。私はね、ピエル殿、こう見えてかなり忙しいんですよ。先ほども…ああ、あの、誰だ…誰かが来ていました」

「王ともなると一目会いたい者は尽きぬ。覚えておられなくても仕方あるまいよ」


 男は口元に薄い笑みを浮かべている。ところどころあかぎれた、乾ききった唇を、ピエルは無感動に眺めた。

 実際のところ、王への面会者はいない。

 妻たちも息子たちも娘たちも、からだ。


「ところで、今日はどのような?」

「いや、なに、家のことです。昔あれは、そうだ、ガイユール殿の屋敷でお会いしたとき、陛下は子育てにお悩みだったでしょう。私は高みの見物で笑ったが、今回は私の方が陛下にご相談しなければならない」

「それは光栄だな。…内務卿殿の?」


 男は目を閉じた。話を聞く。その合図である。


「あれに任せておくのはいささか危ないかもしれん。繊細な差配ができぬのです」

「……」

「——煽りすぎると王権がゆらぐ」


 頭を少し動かして男は小さく咳き込んだ。二度、三度。

 アキアヌ大公は落ち着くのをじっと待つ。病は伝染性のものではないのだから、咳に怯えることもない。


「…この際…やりすぎでもよいでしょう。前任者が不評であれば後任の者はやりやすくなる。逆よりはよほど良い…」

「当初はそうでしょうな。ただし、蜜月の時を過ぎれば、期待が失望に変わるのも早い」

「——王太子殿は、駄目かな…」

「駄目ではない。ただ未知数だ。まだお若い」


 男の不予は少々早すぎた。それは両者が意見を一にするところ。

 本来であれば慎重に、天秤の釣り合いを求めて微量の重りを乗せ下ろし、適切な塩梅を保つはずであった。

 それは男が最も得意とするところである。


 王太子を中心としたアキアヌ家所縁の勢力、王兄を柱とするルロワ直臣群、両者と適度な距離を保つガイユール閥、デルロワズ家の影響力を低減させ中立を保つ軍。

 王太子と王兄、当人達の関係性はそこまで険悪なものではない。枢密院という枠の中でいつしか各勢力は均衡を得るだろう。

 王太子の地位優越は、本人の年少ゆえに実績を頼れない以上、を醸成する他はない。劣悪なと比しての無垢な期待を。

 だが、やりすぎれば均衡は崩れる。

 是正できる人間は一人しかいない。しかし不運なことに、その者は床に伏せった。


「枢密院がある」

「私も当初はそれでよいと思っておりましたよ。市民の支持を得た新王の下、ロベル殿下を中心に我ら臣下が共に枢密院を動かせば、とね。」

「ああ、つまり…は…もはや和合しえない…と」


 男が微かに身体をよじる。


「エランは私が抑えましょう。それはまぁ何とかなる。問題はフロイスブル殿だ。抑える者がおらん」

「バルデル殿か…」


 男はその言葉を残したきり口を閉じた。

 男が寝入ってしまったのではないかとピエルが心配するほどに、その沈黙は長かった。


「アキアヌ殿」

「よかった。もしや寝入られたかと思いましたぞ。思えばあなたは肝心なところで寝るものなぁ。ほら、プロザンの…」

「アキアヌ殿…アキアヌ殿、今はその話はいい。私があなたに言えることは一つだ」

「想像は付きますよ。まぁね。だが、それはお断りしたいところだ」


 似たような会話を遙か昔、今は”勇者の宮殿”と名を変えてしまったルロワ家の祖城で交わしたことを、不意にピエルは思い出した。

 男はまだ20そこそこ、彼とて30代半ばだった。

 ルロワの城の食堂で、男は彼を煽った。不平と批判をつぶやくだけの田舎の英主として生を終えるか、それとも国の舵を取るか、と。

 淀んだ、しかし強大な意志を以て男は彼に迫った。

 その時初めて、ピエル・エネ・エン・アキアヌは男を対手と認めた。あるいは主君とも。


 そして今、長い時を経て、再び彼は委ねられようとしている。


「アキアヌ殿。…あなたが差配されよ。もはや”民の護り手”でも”田舎の英主”でもあるまい」


 アキアヌ大公ピエルは大きく息を吸い込む。強く。長く。

 そうせねば、今抱える膨大な感情の奔流を押さえきれぬからだ。


「あの頃も酷かったが今はさらに悪い。何が悪いかお分かりか?」


 男は微かに首を横に動かす。乾ききって乱れた髪が揺れる。


「外交でも財政でもない。そんなものはどうでもよい。どうとでもなる。問題はただ一つ。今度の政権には、


 男はにわかに目を開けてピエルを見た。否、見られているようにピエルには思われた。


「…それは…むしろ良いことです。——あの時の決断は報われた。あなたは無傷のままだ」


 二重戦争の講和締結後、王はピエルの辞職を求めた。王が辞職できぬ以上、首相が首を差し出すほかはない。ピエルにも異存はなかった。それは必要なことである。自身の歳を考えてもちょうどいい頃合い。息子さえ枢密院に席を持てれば問題はない。


 王はその場で彼に問うた。

 ”サンテネリの男であるあなたは、歴史に名を残すことを望むか”

 彼は自嘲交じりに応えた。

 ”どうやら悪名は決定的ですがね。悪名も無名に勝ると自分を慰めましょう”

 すると王は薄く笑う。いつものように。

 ”後世、私の治世は「アキアヌ首相の時代」と呼ばれるでしょう。決して悪名ではなく”


 そして王は彼に一つの提案を持ちかけた。

 息子エランの内務卿就任と、について。

 そして速やかに実行に移された。王と彼の作った計画通りに。

 問題は、期限が予想以上に短かったこと。それだけだ。

 しかし決定的である。


「…なるほど。王太子殿下は御年17ですな。…ではあと3年。殿下が成人なさるまで」

「お願いする。アキアヌ殿」

「しかしね、陛下、私は先代の家宰殿のようには上手くやれそうにない。お支えする方がのでね」

は私より優秀だ。ご心配なさらずに」


 ピエルは鼻を鳴らす。答えに窮するときの癖だ。


 彼が成すべきことは明確だ。形式上は。

 新王の地位を盤石にしつつ、同時に王兄閥を安心させる。これまで通りルロワ由来の者達も利益に与れることを示す。アキアヌ家による独占を疑わせない。

 膨れ上がった民衆の熱気と期待を散らし、同時に貴族達の王権に対する敵意を和らげる。そして、軍の再建も急務である。

 これら全てを新王の納得と理解を求めつつ進めねばならない。

 つまり、明確でありながら極めて難しい舵取りといえる。

 

「そう祈りましょう」


 不満げな、あるいは疑わしげな老大公の言葉を耳にして、男は笑った。声を上げて。


「…ピエル殿。人生のとして一つお教えしよう。自分よりも子を褒められたいのですよ。——死にゆく者は」







 ◆






 会談を終えた王は、翌日首相フロイスブル侯爵を呼び出し、枢密院首相の座を3年の時限付きでアキアヌ大公に委ねるよう頼んだ。

 大公はを決して無下にはしない、と添えて。


 命令ではなく依頼である。しかし王が枢密院閣僚の罷免権を持つ以上、それは波風を立てぬための方便に過ぎない。


 難色を示す侯爵は、アキアヌ大公の危険性を熱心に説いた。

 老獪な大公が再び実権を握れば若年の新王は傀儡と化し、やがては王朝の交代に繋がりかねない、それでもよいのか、と。


 王は目を閉じ、微かに呟いた。誰にも聞こえぬほどにささやかに。


「どうぞ。——願ってもないことだよ」

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