第2部「分別ざかり」 第3章 1735
別れの儀式
「王は”第一の人民”だ。そのことを忘れた国に未来はない。俺は第一のサンテネリ人として皆の前に立つよ」
長椅子から身を乗り出して、少年は大声で語りかける。正確には”語っている”。語りかけてはいない。ただ語っている。
その瞳は獰猛に輝いていた。しかし混じり物はない。
高ぶった心は身体を揺する。制止してはいられない。立ち上がり、窓の側に寄っては戻りを繰り返す。
「とても気高いお心がけに思われます。
長椅子に腰掛けた女はたおやかな両手を胸に当て、少年の言葉を取り込むような仕草を見せた。深い黒髪を揺らしながら。
少女と女の狭間にありながら、より女に近い。硬さがとれはじめた頃合い。少年よりも幾分年長であることは明らかだ。
美しい睫毛に彩られた大きな瞳は髪の黒よりも幾分薄い。化粧の加減だろうか、輪郭が強調された頬が女の柔らかさを抑えている。そして口。比較的大ぶりの、しかし上品な曲線は、見るものに強い印象を与える瞳と対を成していた。
権高さと紙一重の凛とした存在感を彼女は纏っている。
「あなた方の一族は皆そうだ。アニェス殿。あなたの父上もよく俺を理解してくれる」
「父も喜びますわ。そういえば、この間も申しておりました。”殿下をお支えしてサンテネリに再び旭日をもたらす一助となりたい”と」
アニェス・エン・アキアヌ。
サンテネリ王国内務卿エラン・エン・アキアヌの正妻子である。
「ときにアニェス殿、あなたとお会いするのがこの部屋ばかりというのも刺激がないな。今度あなたのお屋敷に伺っても? 久しぶりに老大公にもお会いしたいんだ」
「光栄なこと! 是非お越し下さいませね。お約束をいたしましょう」
声の弾みと裏腹に、アニェスの仕草は落ち着いたものだった。
少年が”光の宮殿”に厭いていることはよく分かる。立場ゆえ気軽に外出することは難しい。だが、同族であり付き合いも長いアキアヌ邸であれば比較的口実は立てやすい。
アニェスは目の前で溌剌とした笑みを見せる少年に好感を持っていた。
”大きなこと”を話したがるその姿も歳相応。稚気ゆえか過激な言もあるが、それは溢れる活力のなせる業だ。
なによりも少年——グロワス・エネ・エン・ルロワ王太子は分かりやすい。
それはこの時代にあって何よりも大切なこと。
分かりづらい君主の治世が長く続いた、まさにこの時期においては。
「殿下、その際は少し足を伸ばして、ルー・サントルへ、わたくしをお連れくださいませ」
「それはいいね! 民の暮らしに触れられる。”同胞”たちに。俺がすべきことはまさにそれだ」
ルー・サントルはシュトロワの中心部、富裕な平民を相手にした比較的高級な物品を扱う店が並ぶ。
アキアヌ公家の出資する商家が何軒も店を構えているところから、色々と融通が利きやすい。そして彼女の父は内務卿である。警備の心配も無かった。
少年が欲することをアニェスは明確に理解していた。正しくは、父に言い含められていた。気の惹き方を。
この提案は家の権勢と父の職位を背景にした彼女でなければできないものであり、競争相手に対して明らかな優位として働くだろう。
「ああ、ところでその、ルー・サントルには色々な店があると聞いたんだ。そこには花を扱う店もあるかな?」
「お花、でございますか。何かご用がございまして?」
「いや、特にはないが。その、少し気になったんだ」
所在なげに両手を背に組み、あらぬ方を見つめ少年は呟く。
そのあからさまな様子に女は思わず笑い出しそうになった。天下国家を語ったその直後にこのぎこちなさ。
グロワス王太子の目論見が手に取るように分かる。彼は自分に贈り物をしたいのだ、と。道ばたで。
巷で流行る歌劇の第2幕。
さる公爵が人民の友となり、華やかな宮廷の夜会に背を向けて街に繰り出す。身分を隠し酒場で平民達と交わる中で、居合わせた給仕の娘に花を贈る。新市の道ばたで売られた花を。
喜劇仕立てとはいえ少々行きすぎた描写も目立つ作品である。ある種の政治性を帯びているといってもよい。
『その花弁の真実は生命の息吹』
そう便宜的に名付けられた、公爵と娘が花を捧げ持ち歌い上げる二重唱。シュトロワで知らぬものがないほどの大当たりを取った。質素ながらも新鮮な花の持つ真の美しさと酒場の娘のそれを重ねた内容であり、背後には淫靡な含意を持つ。
本来であれば王太子が知るべき内容ではない。実際に劇を見たわけでもないだろう。だが、何らかの経路で粗筋を知ったとしても不思議ではない。
まさにグロワスが好みそうな話だ。
平民の娘の役を割り振られつつあるアニェスだが、特に腹立ちはなかった。王太子が殊更に簡素を好むことは知っている。彼がなりたがっているものが何かを女は知っている。それに付き合ってやるのも悪くはない。
喜びさえもある。
アキアヌ大公女である彼女を町娘扱いすることができる男はサンテネリ王国には一人しか存在しない。そして、その男に贈られる花には無上の価値がある。
問題があるとすれば、ルー・サントルには露天の花売りなど存在しないということだ。父に頼んで用意してもらわなければならない。
彼女は心内にやるべきことを書き留めた。
◆
「デルロワズの…。願ってもない良縁ですが、先方とお話はどこまで進んでいらっしゃるのかしら、首相殿」
母后ブラウネの表情には複雑な色がある。最愛の息子の縁談話である。必要性を理解しつつも諸手では喜べない。
息子ロベルはまだ18歳。
妻を娶ってもおかしくはない年齢だが、自身の婚姻が比較的遅かった彼女にとって、それは少々早すぎるとも思われた。
だが、明らかに、今この瞬間必要なことだ。
「デルロワズ殿はまだ揺れていらっしゃる。側妻子ゆえ恐れ多いといいますが、恐らく口実でしょう。なかなか慎重なお方です」
「バロワの姫との間のお子ですね」
「はい。お名前はヴァランティナ殿と」
「あなたは既にお会いに?」
「デルロワズ屋敷に伺った折に大公殿より紹介を受けましてね。とても物静かな、気性穏やかな方とお見受けしました」
ブラウネは大きく編み込んだ髪の先を指でもてあそぶ。その様は首相にある種の感慨を与えた。
「姉上はお変わりない。その癖も」
「あら、それは褒め言葉ですの? バルデル閣下」
諧謔とも自嘲ともつかぬ姉のつぶやきを、バルデルはおどけた風を装って受け流した。
「もちろんです。今でも夢に見ます。兄上と共に子供じみたいたずらを仕掛けて、姉上に叱られた日のことを」
「私も覚えていますよ。あなたたちはいつも私のところに虫を持ってきて。あれで私は悟りました。殿方は本当に…」
「気を惹きたかったのでしょう。あるいは、普段取り澄ました姉上の慌てふためく姿を見たかった」
「本当にしかたない方々だわ。そんなあなたが今では枢密院首相閣下。私たちの”物語”は…予想もつかない…」
2年前、戦争の苦い結末の責任を負ったアキアヌ大公ピエルの辞任以来、枢密院首相の座は1年ほど空いたままであった。後任選定が難航する中で、バルデルがその座を射止め得たのは明らかに異母姉ブラウネ——母后ブラウネの後押しゆえである。
「母后様。我らはロベル殿下の御為によりよい”物語”を描かねばなりません。そこに異存はございますまい?」
姉のつぶやきを弱気と取ったバルデルは念押しとばかりに言い募る。
「デルロワズ家もこのまま雌伏というわけにはいかぬでしょう。王太子殿下ご即位の暁には…」
しかし、バルデルの言葉はブラウネの峻厳な声色に切断された。
「枢密院首相殿。その先はお話にならなくて結構ですわ」
「しかし母后様! ご理解ください。ご理解を。ロベル殿下のお立場を第一に」
「ええ、ええ。あなたに言われるまでもなく。分かっております」
対座する姉の姿には往年の柔らかさはない。そこには脆さが——弱さがあった。身内にしか見せぬ疲れとともに。
バルデルの中のブラウネは常に姉であった。一見落ち着いて柔和ながら内実は逞しい。怒らせると怖い女。
だが、今目の前に座る赤毛の女は、長椅子の背に吸い込まれそうなほどに小さく見える。
「姉上、私が万事取り計らいます。私とて父上と兄上の後を継ぐ者、サンテネリ王国の首相です。そう捨てたものではありませんよ」
彼は努めて語気強く、自身の立場を誇示してみせる。
実際のところ、バルデルは二重戦争終結後の舵取りを十分にこなしたと言ってよい。首相と軍務卿という最重要閣僚を欠いた枢密院を財務卿ガイユール大公とともに維持したのは彼である。枢密院主催者の後ろ盾の元に。
経験はある。後ろ盾なくともやれる。
彼は姉に信じて欲しかった。
父マルセルのようにやれると。
「分かりました。一度メアリさんとお話ししましょう。それをお望みでしょう?」
バルデルが姉に求めるのはつまりそれだ。
婚姻の許可などではない。
ルロワの係累は、今こそ一本化する必要がある。デルロワズとフロイスブル、バロワ。そして軍伯由来の貴族達。
バルデルにとって、サンテネリ王国とはつまりそれである。1000年前から変わらぬ偉大なる王国。
ルロワの”家”は一丸となる必要がある。
純粋なサンテネリ人の元に。
◆
フローリア・エン・ルロワはルロワ家の末子である。
女子であり、かつ末子であるという属性ゆえに、家族から一様に可愛がられて育った。
その幼子も今や13になる。
特に異母姉達とは親密な関係を築いている。
凛としたメアリ・アンヌ。可愛らしいマルグリテ。
お手本にするに相応しい姉たちだ。しかし彼女はそのどちらとも似なかった。
フローリアは大人しい少女である。
姉妹が集まり話す際も彼女はじっと聞いていることが多い。ただ温和な、薄い笑みを浮かべて。
年の近いマルグリテとともに行動することが多いため、その趣味たる服飾に興味を持つのは自然な成り行きだった。彼女は姉と共に着飾ること楽しんでいた。
しかし、半年ほど前から彼女は赤地の服ばかり身に纏うようになった。周囲はその変化に疑問を抱いたが、当人は「赤が好きなの」の一点張りである。
そのうち皆、フローリアの些細な拘りを気にしなくなった。
母譲りの赤みを帯びた金髪、そして純度の高い蒼眸と、赤い服は奇妙な調和を見せた。
◆
白地を基調とした巨大な部屋に彼女は今日も赴く。
従僕達が少女の姿を認め、成人の背丈の倍以上ある扉をゆっくりと開く。
窓からは午後の陽が射す。それは壁面の白と金に反射して、室内をまさに光で満たしていた。
毛足の長い絨毯は子どもの足音などなんなく消し去ってしまう。
音はない。
フローリアという人間の質量だけが、部屋の中に充満する光を押し出していく。
そして声が掛かる。
城と表現しても過言ではないほどに荘厳な、広大な寝台の中から。
「ああ、フローリア殿か」
しゃがれた声が少女の耳に届いた。
寝台の中に横たわる男はいつも彼女を的確に見分ける。他の全てのものから。彼女にはそれがうれしかった。
「お父様…」
「こちらへ。あなたのお顔を、見せて欲しいな」
右腕の肘から上を微細に動かし、男は少女を手招きする。
無言のまま、彼女は寝台の脇に備え付けられた椅子に腰を下ろした。一人がけの小さな椅子である。
一人だけ、座ることができる。
「お元気に過ごされているかな」
「はい。お父様」
それだけ。言葉が途切れた。
二人の間には話すべきことなど何もなかった。だが沈黙は苦ではない。話すことに欲望を抱かぬ娘と、かつて雄弁を強いられてきた父だ。
静かであればそれに越したことはない。
だから時折男がかける言葉にも大した意味はない。娘の頭を撫でるようなもの。言葉で撫でている。他に撫でようがないからだ。
「今日も、あなたの姿はよく見える。とても綺麗な赤だ」
「……」
「私は、赤が好きだよ。フローリア殿」
「なぜですか?」
娘の問いが男には心地よかった。少し高い、細い声が。
それは一種の奇跡である。そう思われた。
地を這うような掠れた自身の声が生み出した、繊細で滑らかな声。
「ああ、そうだね。なぜか。一つはね、フローリア殿。あなたの母上の色だから。あなたと同様、ブラウネ殿の美しい赤毛が私は好きだ」
一気に言い終えて、男はその喉を乾いた空気で鳴らす。
少女は手慣れた仕草で寝台脇の机におかれた水差しを取り、杯に注ぎ、渡した。無言で。
幾重にも重ねられた大きな枕に上半身を支えられた男は、杯ごと娘の手を受け取る。添える手なくしては震えを収められない。
フローリアは父の巨大な手を両手で包み、杯を口元に運んだ。
「ありがとう。フローリア殿」
喉を鳴らして水を嚥下し、一息ついた男は娘に礼を言う。
「いいえ、お父様」
もう数ヶ月続く。それはある種の儀式だった。少女はすっかり慣れてしまった。
「…お父様。もう一つは?」
父が言った”一つはね”を覚えていたのか、娘は”次”を問う。
会話に意識を引き戻された男は薄く笑った。
困ったように。
「ああ、もう一つは大したことはない。——赤はね、まだ見える」
◆
正教新暦1735年5月。
枢密院会議を終え、執務室に戻った王は突如意識を失った。
その日を境に王が公務の場に姿を現すことはなかった。
そして早
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