始まりの終わり

 正教新暦1731年9月。

 貴族会付帯法院は二重戦争戦費として貴族への臨時課税を定めた枢密院令、通称”戦費令”の審査を終了した。

 サンテネリ王国が長い歴史の中で一度もなし得なかったこの徴税は、いかに臨時のものとはいえ明らかに異常であり、その決定は中央大陸全土に多大な衝撃をもたらした。

 つまりサンテネリの断固たる意志。継戦への意志である。


 枢密院の両巨頭と自他共に認める首相アキアヌ大公と財務卿ガイユール大公の主導により進められた様々な説得、あるいは工作に、サンテネリ国王グロワス13世が関わることはなかった。

 枢密院会議の席上、王の発言は皆無に近い。

 じっと宙を見つめるか手元の時計を眺めるか。

 傍聴する参与達は噂した。

 ”賢王”と。


 貴族への課税は平民層にとっての悲願である。よって王の姿勢はありがたい。しかし、それを推進した王は、自身の行為が支持母体たる貴族達——王権が依って立つ基礎を切り崩していることに気づいているのだろうか。

 傍目には、王家の力を削ぐことに腐心する”外様”大公家にいいように操られているようにしか見えない。

 戦費令を巡る議論の中で、両大公が盛んに「国家のために」と発言したことも憶測に拍車を掛けた。王のために、ではない。


 枢密院参与たちにとって、それは少々複雑な構図である。

 平民に利益をもたらす王は歓迎するが、能力的にはどうみても。何も分からず両大公の言いなりになっている。

 自身の権力の源泉すら把握できぬ愚王だが、それが平民の利になる。よって、グロワス13世は愚かであるがゆえに平民にとって賢明な行動を取る王なのだ。

 それは一種の嘲弄であった。


 この印象は愛娘マルグリテ王女のプロザン輿入れを渋る姿と相まって、王の公的な人物像を世間に広める切っ掛けとなった。

 戯画化するにもいささか物足りない”小物”である、と。

 そして18期後半の政治的混乱の中でグロワス13世の評価は固定された。

 にとって、その印象こそが都合の良いものであったからだ。






 ◆






 王が長女メアリ・アンヌを執務室に呼んだのは、”戦費令”を巡る諸々の動きが終盤を迎えようとする頃であった。

 普段家族の語らいには茶室が使われるが、王はこのとき敢えて自身の執務室に娘を招いた。


 メアリ・アンヌ王女はこの年の9月より軍学校へ編入することが定められていた。

 自身の行く末について、彼女は特に不満を持たなかった。サンテネリにおいて女性の将来は究極的には定まっている。

 結婚し、子を産む。

 それまでの期間をどう過ごすか。ただそれだけのことである。加えて母メアリの影響も大きい。幼時から機を見ては、あなたは”バロワの姫”であり”王をお守りする者”であると言われ続けてきたのだ。

 女性ゆえ王位につく可能性は限りなく低く、自身も特に望まない。かといって花嫁教育が面白いとも思えない。そんな中で示された「母と同じ道」は、彼女にとって概ね満足のいくものだった。もとよりそれ以外の選択肢がないのだ。

 ならばそれがよいと他はない。


 メアリ・アンヌは届いたばかりの国軍略装を身に纏い、父の仕事場を訪れた。

 茶室ではなく執務室である。何らかの”形式張った”話に違いなかったからだ。


 少女は特段身構えることもなく部屋に入った。

 王の執務室はその住人が占める地位に比して、それほど豪奢ともいえない。見慣れた白地に金装飾の家具がいくつか。応接用の長椅子と低机が一つ。そして最奥には巨大な書物机が、これまた天井ぎりぎりまで続く硝子窓を背に置かれている。


 生憎その日は曇天。

 薄暗い部屋の中を少女は進んだ。

 そして机の前で片膝をつく。

 父にして、サンテネリ国王グロワス13世の前に。


 父は微かにしゃがれた、しかし柔らかい声で少女を安らがせた。


「楽にされよ、メアリ・アンヌ殿」


 いつもの”メアリ・アンヌ殿”だ。いつもの相手を慮る声色だ。

 しかし彼女は常ならぬものを感じていた。


「陛下。メアリ・アンヌ、お呼びに従い参上いたしました」

「ああ、ありがとう。忙しい最中、時間を割いていただいて」


 王は机の向こう、巨大な椅子から動こうとはしない。

 彼女は直立し、父の丁重な労りの言葉を受けた。


 日光のない曇り空ゆえに、少女は王の顔を——父のそれをじっくりと観察することができた。

 緑色の瞳。金の髪。少し垂れた目尻、深く刻まれた目の下の皺。それが彼女の父だ。母よりも四つ歳下の男。


 父の顔を凝視するのは久しぶりのこと。

 特に、自分でも理解できぬ嫌悪を感じだしてからは努めて距離を取ってきた。そう頻繁ともいえぬ出会いの機会にも顔を背けるばかりだった。

 しかし、いかに父娘二人きりとはいえ、半ば公的な謁見の場でそのような無作法は許されない。少女は父を見なければならなかった。


 そして気づいた。

 、と。

 自身が密かに誇る翠の瞳は間違いなく父から受け継いだ。頼りなくも優しくも感じられる目元とて、母の峻厳なものではない。明らかに父から得たものだ。


 そして驚いた。

 父はひどく疲れている。そう感じられた。

 母と並べば明らかに父の方が年老いて見える。それは外見に由来する感覚ではない。男が纏う空気がゆえである。


「メアリ・アンヌ殿は最近息災かな」

「はい。神の御裾のもと、健やかに過ごしております」


 父の舌は重い。

 何を話していいのか分からないのだろうか。毒にも薬にもならぬ問いを発しては、これまた定型極まる娘の答えを聞き、また押し黙る。

 何度かそれを繰り返す頃には、メアリ・アンヌも焦れてきた。

 早く本題に入って欲しい。

 母が言う、華麗な弁舌で人々を圧倒した男とは、果たしてこの人のことなのか? 疑問すら感じられる。腫れ物に触るような態度も気に食わない。


「陛下、本日はどのようなご用にございましょうか」


 自分の声ながら、酷薄な色が出すぎたことに少女は驚く。苛立ちをぶつけようとしている。サンテネリの王に。だが、父にならば許される。


「申し訳ないな。あなたと話をしたいと思ったのだ。あなたはもうすぐ軍学校へ行く。その前に少しだけ」


 王女たる彼女が寄宿舎に入ることはない。これまでと同様光の宮殿から通学するのだ。しかも多分に儀礼的な進学である。校舎での滞在時間も長くはない。

 大きな変化はない。

 少女はかように捉えていたし、事実その通りである。にもかかわらず、父はなんとも重々しい空気を発している。

 それが鬱陶しかった。

 だから彼女は言った。


「光栄にございます。しかし、これまでとさほど変わりません」


 あえて丁重極まる言葉遣いを崩さず、メアリ・アンヌは突き放した。

 だが、父の答えは意外なものだった。


「変わるだろう。色々なことが変わる。私が話したいのはそこだ、メアリ・アンヌ殿。つまり、あなたが軍学校に赴くとはどのようなことを意味するのか。それを私は伝えたい」

「——母上より、国軍の将となるために学べと命じられておりますが」


 メアリ・アンヌは辛うじて答えた。心の底には建前と分かりながら。

 彼女が実際に軍を率いることなどありえない。母の実家バロワ家や縁戚デルロワズ家と誼みを繋ぐための形式的な通学に過ぎない。そう考えていた。


「それもあるね。だが、私があなたに欲することはまた別だ。——あなたには、世界を見てきてほしいと私は願っている」

「世界、ですか…」


 王は薄い笑みを浮かべた。父は。


「学校には様々な者が来るだろう。貴族も平民も。そこにはあなたが知らぬ者たちが数多くやってくる。あなたはその者たちとふれあい、友誼を深められよ」


 それはつまり将来の夫候補ということだろうか。

 少女の苛立ちは加速する。

 異母妹マルグリテのように”重い相手”との婚姻を定められるのもごめんだが、一方で”軽んじられる”のも悔しい。


「平民とも、ですか。私の婚姻の相手が平民であっても、陛下は許されるのですね」


 ほとんど吐き捨てるような少女の言葉に王は苦笑した。


「ああ、あなたはやはりメアリ殿のお子だ。とても似ている」

「何がでしょうか? 母上はサンテネリで殿との婚姻をいました。私のように”適当に見繕え”などと言い含められておりませんが」


 王の笑顔は声に変わった。低い笑い声に。


「ああ、メアリ・アンヌ殿。誤解があるようだ。まず、メアリ殿はなどいない。私が彼女を欲した。あなたの母上をこの上なく愛したからだ。そして、あなたに”適当に見繕え”などと私は言わないよ。婚姻のことなど考えていない」


 少女の細い首筋が朱に染まる。

 多少思うところはあれ、メアリは彼女にとって自慢の母だ。美しく、凛として、しかしたおやかな、ある種の理想である。

 そんな母を男は”愛した”。そう明言した。

 子としてこそばゆいが、一方で嬉しくもある。自分は両親の愛の元に生まれたのだ、と。

 早合点を指摘されたのも恥ずかしい。どうやら”友誼”の意味を取り違えていたらしい。


「——ごめんなさいお父様…勘違いしてしまいました」


 先ほどまでの当てつけじみた丁寧さが崩れた。


「構わないよ。昔、私の口下手でメアリ殿を何度か傷つけてしまった。それを思い出しただけだ。——私は必死に謝ってね。彼女は許してくれた。あなたの母上は…優しい方だ」


 王の言葉は軽く、しかし重い。

 妻が恐らくの存在を想起するゆえだろうか。少女には分からなかった。


「メアリ・アンヌ殿。本題に入ろう。久しぶりに話す楽しさのあまり、あなたを困惑させてしまったようだ」


 俯いた少女は父の言葉に顔を上げる。瞳が予期せず出会う。

 彼女の視界に入ってきた父の顔は、少女がこれまで見たことがない類いのものだった。


 20年にわたり中央大陸随一の大国を背負ってきた、王の顔である。






 ◆






「メアリ・アンヌ殿。我々は何も分からない。サンテネリ全土はおろか、我らが生きるこのシュトロワのことすら分からない。旧市はおろか、新市のことすら分からない。私たちが理解できるのは極一握りの、財貨と知性と名誉と、そして幸運に恵まれた人々だけだ。——分かるだろうか」


 淡々とした父の言葉は、しかし強烈な重さを持って少女の耳に届いた。それは這い寄り、身体を伝い、やがて耳に届く。蛇のような。


「私が知っていることはただ一つ。”光の宮殿”は美しい。その名の通り光で満ちあふれている。しかし外には嵐がある。雷がある。そして、の生活がある」


 改めて言われるまでもなく知っている。何を当然のことを。そう物語る娘の顔を見て、王はさらに言葉を重ねた。


「違う、メアリ・アンヌ殿。あなたは分かっていない。それはだけだよ。例えばあなたには平民の友人はいるかな? 彼、あるいは彼女は何をして生きている? どう生まれ、何を好む? 何に悩む?」


 いるはずもない。そもそも平民の友人を得ることがなぜ必要なのか。彼女には理解できない。


「私にはいない。——いや、一人いたね。厳密には平民ではないが似たようなものだ。その者とも、。つまり私には友がいない」


 王は貴族、平民を問わず著名な人物を茶会に招くことがある。あるいはアキアヌ公あたりが主催する夜会で出会ったのだろうか。

 王が”友”と呼ぶ相手に少女は少し興味を持った。父の友人に。会えないということは、恐らくその人は亡くなったのだろうと彼女は心内結論づけた。


「あなたに望むのはつまり、彼らを知り、分かり合うことだよ。この世界を知って、理解してほしい。それはあなたにしかできないことだ。私も王太子殿もロベル殿もできない。私たちはこの宮殿を離れることはできない。だが、あなたならばできる」

「お父様、なぜそれが必要なんですか?」


 純粋な問いだ。

 彼女は父の頼みを嫌がらなかった。だが所詮、自分は生涯”美しいところ”で生きる。そうするしかない。にも関わらずなぜ?


「サンテネリはもうルロワ家の所領ではないからだ。人々はルロワの領民ではない。彼らはサンテネリの国民だ。必ずそうなる。そしてねメアリ・アンヌ殿、私たちもまたサンテネリの国民だ」


 少し前に皆で読んだ『悪について』の内容が少女の頭を過った。冊子が語る、おぞましく、陰惨な未来を。

 つまり父は考えているのだろうか。


「——お父様のお言葉は、少し…怖いです」


 歳相応な感想を受けて父の声は優しさを取り戻す。

 細い身体を両腕で抱きしめ俯く娘の姿は、王に何らかの感情を想起させた。憐憫かもしれず、庇護欲かもしれない。

 しかし男は分かっていた。もう自分にできることはと。


 せめて娘を励ますように、彼は最後の一言を告げた。


「大丈夫だ。メアリ・アンヌ殿。怖くはない。彼らは隣人だ。彼らはすぐ隣に住んでいる。あなたは隣人を知り、理解しなさい。彼らはあなたとだろう。しかし、違いは上下ではないよ。違いに敬意を持ちなさい。なぜなら彼らは隣人だからだ。——そして愛しなさい」


 王は椅子から立ち上がり、ゆっくりと娘の元へ歩み寄った。


「私にはできなかったことを、あなたに託したい」


 父の手が自身の髪を梳く。

 頭頂部から後頭部にかけて、ゆっくりと。

 少女はその手を静かに受け入れた。先ほどまでであれば耐えられない嫌悪があっただろう。しかしなぜか今、父の手は”異物”ではなかった。

 思い起こさせるのだ。

 幼い頃の記憶を。

 父の膝の上で、髪を柔らかくなで下ろされた記憶を。父の大きな身体を。そこに収まる小さい身体を。穏やかに二人を見つめる母の瞳を。


 ごつごつした、節くれ立った大きな手。

 手のひらには斜めに長い傷跡がある。

 幼い頃、彼女はその盛り上がった肉の筋を小さな指でなぞって遊んだ。自分の手には存在しない不思議な痕。


 これは何かと尋ねる娘に父は答えた。


 ”私は不器用だからね、昔、小刀で切ってしまった。とても痛かったね。——だが、とても大切な傷跡だ”

 ”ぶきようってなんですか? おとうさま”

 ”不器用とはね、ということだよ”


 そんな会話を、娘は覚えている。






 ◆






 18期中葉のサンテネリを震撼させた一連の動乱において、メアリ・アンヌ王女、あるいは国家親衛軍近衛連隊司令官ルロワ少将、あるいは市民メリアの果たした役割が過小評価されることはない。

 彼女の決断と行動はサンテネリという国家の行く末を定めた幾重にも連なる変数のうち、最大のものの一つである。


 様々な伝説に彩られたこの一女性の生涯については多種多様な伝記が刊行されている。しかし、そのほとんどが等閑に付す一幕が存在する。人が性格の方向性を定める原初の時期、つまり幼少期である。

 10代までの彼女の生活を扱った稀少な論文においても、主題はもっぱら母メアリとの関わりについてだった。父の存在は、あるいは意図的と呼んで差し支えないほどに軽く、申し訳程度に触れられるのみだ。


 彼女は自身の幼年期について滅多に語らなかった。

 そして、伝記作者も研究者も、敢えてそれを知りたいと思わなかった。

 丁重に無視されたの存在は、光輝に満ちた偉大な女性にはものだったからだ。


 ことに、”共和国を守護する女神”たる女性にとっては。







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第2部第2章はこれで終わりです。

ここまでお読みいただきありがとうございました。


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