対話 5

 歳のわりには上背がある。物静かな少年。

 ロベル・エン・ルロワは一歳違いの異母弟グロワスと容姿・性格ともに対極をなしていた。

 深みのある金髪と青い瞳は、グロワスの茶髪翠眼と比して父に似ている。口数少なく控えめな性格も父譲りだ。


 母の実家フロイスブル屋敷で少年を迎えたのはフロイスブル侯爵家当主バルデルである。

 兄と父を相次いで亡くし、いささか広くなりすぎた屋敷を持て余している。

 バルデルは30台も半ばに差し掛かるところ。男としては壮年だが、政治家としてはまだ若手といってよい。

 成人して早々に父の元で補佐官として活動した経験ゆえに、多分に亡き父への感傷を含んだ王の人事、つまり宮廷大臣の職務にもなんとか対応できている。だが、時に王を支え、時に衝突し、時に導いた父マルセルと比べれば、存在の軽さは明らかだったし、そう自認もしていた。

 グロワス13世が宮廷大臣たる彼に意見を求める機会は多い。だが、マルセルにしたように”任せる”ことはない。

 現王の治世において、自分が父の代わりを務めるのは不可能であることを彼は賢明にも悟っていた。彼は王から学ぶ立場だ。

 しかし次代においてはまた話が違う。


 未だ若いグロワス13世の統治は少なくとも後20年は続くだろう。だが、いずれ終わりが来る。

 ここ数年、肉親を死に奪われ続けた彼はふと想像して怖くなる。

 グロワス13世のいないサンテネリなど想像もつかないからだ。


 彼が政治の中枢に関わり早十数年。その間サンテネリ王国の権力構造はほぼ変わらなかった。

 アキアヌ、ガイユール、デルロワズの3大公は離合集散を繰り返しながら均衡を保ち続けている。ルロワ軍伯由来の中小諸侯はマルセルの死以来やや統一性を欠くものの、バルデルやその他の譜代貴族家を通じて緩やかに王と繋がっている。


 王はこれら勢力の集合体の上に慎ましやかに載った小さな冠だった。

 枢密院における政策立案は基本的に3大公を起点になされる。彼らがその他諸卿や補佐官達と議論を重ね、結論を出し、王は賛意を示す。

 後世の人間が議事録を読めば、18期初頭から中葉にかけて王の存在は形式的なものに過ぎなかったと結論づけるであろう。そもそもその発言自体が稀なのだから。


 しかし、自身も王族の一員であり、何事においても主導権を握りたがる首相アキアヌ大公が、ガイユールやデルロワズ、バロワ閥諸卿と小さな衝突を繰り返しながらも概ね”上手くやっている”のはなぜなのか。

 国家の中にあってそれを外から眺める視線を捨てない、表層穏やかながらも内実強烈な”他者”としての自負を持つガイユール大公が、いかなる時にもサンテネリ王国の重鎮として振る舞おうとするのはなぜなのか。

 軍権をその手に握るがゆえに他の全勢力から警戒され、家の権益を削られ続けてきたデルロワズ大公が、にもかかわらず宮廷政治に参入することなく、未だサンテネリの剣であろうとする姿勢はどこから来るのか。

 書記官の記録からは恐らく何も分からない。彼らが頭を垂れているのか。


 では、グロワス14世の治世はどのようなものになるのだろうか。

 バルデルはフロイスブルの家族広間で静かに本を読みふける甥の姿を横目に捉えつつ考える。


 彼、ロベルは長じてはどこかの領地を与えられ大公を名乗ることになるだろう。

 政治的な位置はアキアヌ大公に近いがロベルは王兄である。

 母ブラウネはルロワ閥を長く主導するフロイスブル侯爵家の出身。つまり、古くからのサンテネリの感覚でいえば、明らかに正統性を持っている。即位の。

 一方、王太子グロワスは正妃腹とはいえ”エストビルグ女”を母に持つ。国民達が、あるいは貴族達がどちらにを感じるかは明らかだ。


 現状においてグロワスが次代の王となることは既定路線である。それは正妃の子を正統と定めたサンテネリ王国の相続法に則ったものであり、現王も後継者が誰であるかを明確に示している。

 何もなければ平穏に終わる。

 20代後半から30代になり、十分な政治経験を積んだ王太子が王冠を受け継ぐのであれば問題はない。

 だが年少で、となると荒れる。


 バルデルはそこまで思考を進めたところで、不吉な空想を断ち切った。






 ◆






「ロベル様、何をお読みに?」


 バルデルの問いかけに王子は一瞬ためらい、やがて答えた。微量の言い訳を混ぜて。


「これは…陛下からご指導頂いている勉学の教材です。陛下が下さったんです。叔父上」

「というと、かの”王の授業”の! 我ら臣下一同、出来ることならば一度は拝聴してみたいと願っておりますよ。実際のところ、陛下の授業はいかがですか?」


 王が子ども達に定期的な授業を行っていることは宮中でもよく知られていたが、反応は賛否ある。

 サンテネリでは子どもの中等教育に父が関わることはほとんどない。父がその役割を果たすのは子が家職を得た後である。子は父とともに働きながら、そのやり方を模倣し学ぶ。

 だから、こと教育に関しては常識を無視する傾向にあるグロワス13世が、ここでもまた自身のやり方を通したといえる。


「そうですね。難しい内容なので私にはまだ理解できぬところもありますが、とても楽しく学んでいます。この本など、まさに驚きばかりです」


 言葉とは裏腹に落ち着いたロベルの姿に、バルデルはグロワス王の面影を見た。


「ではそれが、母后様の仰っていた例の」

「はい。母上にはいらぬ心配をおかけしてしまいました。至らぬところです」


 実際のところ、”至らぬ”のは少年ではなく父親である。妻への説明を怠ったのだから。しかし、何事にも”自分がよくない”と建前を付けるあたり、ますます父王に似ている。


「叔父上はお読みになったことがおありですか? 『悪について』」


 バルデルの反応が平静であることを確認して、王子は一歩踏み込んだ。


「はい。一読しております。何を隠そう私も陛下にお薦めいただいたのです。なかなかに過激な本でしたな」

「過激というよりも、不思議な記述が多い。そう思います。王を必要としない政体など本当にあり得るのでしょうか。理屈は理解できます。でも、現実に」


 ルロワの家宰は王子の真向かいにある長椅子に腰を下ろした。


「私も想像が付きませんよ。我が国もアングランも政治の実務は臣下が行いますが、それは国王陛下の御裾の元にあってこそです。もし王なかりせば、人々はそれこそ好き勝手に私欲を追求するでしょう。国が成り立たない」

「ええ。私もそう思いました。国というものは、そこに住む人々が生きてきた経験と記憶の集合体だと陛下に教えていただきました。でも、その集合体は

「その通りかと。だからこそ、その依り代たる王の存在が必要なのです。我ら臣下はグロワス陛下を通してサンテネリという国家を感じます」


 王子はうつむき黙考する。今考えていることを言葉にしてよいものか。やがて少年は選択した。


「父上は、”王なき世はあり得る”とおっしゃいました」

「…左様ですか」

「そして、”そうあるべきだ”と」


 甥が漏らした言葉に、喉が締め付けられる感覚をバルデルは味わう。


『悪について』が斬新な書物であることに彼も異論はない。理屈としてはよく出来ている。だが現実的ではない。

 人は多種多様な存在だ。

 その”多種多様”は特定の社会条件の下で”優劣”に繋がる。そして上下が生まれる。一度上下が出来ればその構造は固定に向かう。子の幸せを願わぬ親はいないのだから当然だろう。自身の父マルセルが兄と自分の将来を見据えて様々な工作——姉の婚姻含めて——を行ったのも煎じ詰めれば同じ理屈だ。

『悪について』において、そのは人間の自然状態を”平等”と定めるが、実際のところはその真逆である。人は階層を構成するよう宿命づけられている。この”自然状態”を変更しようと思えば途方もない力が必要となるだろう。不平等をために強大な力が振るわれることになる。

 ではその力を振るうのか?


 王が甥に語った”そうあるべき”という言葉はほとんど呪いに近い。

 存在すること自体が意義を持つ王族にとって、”そうあるべき”とはつまり、この世から消えることと同義であるからだ。

 退位すれば済む話ではない。退位は王の交代に過ぎないが、王という立場自体が消滅するとなれば話は別だ。

 彼らは生まれながらに王であり、彼らの肉体そのものが王なのだから。


 15年間にわたり傍でその行動を見てきた限り、グロワス13世は夢想家ではない。理想主義者でもない。『悪について』にしても、あくまで概念の世界の話と捉えていたはずだ。王は基本的に寛容である。自身への異論反論を受け止める力がある。

 だが、王の本心がだとしたら?

 もしそうならば、子ども達に向けた王の言葉は恐ろしい。凄惨な色すら帯びている。

 心内こう思っているのか。

 ”自身も子ども達も皆死ねばよい”と。


 まさかそれはあるまい。グロワス13世は卓越した平衡感覚を備えた君主だ。バルデルは自身に言い聞かせた。心の奥底に生まれた不気味な影を消し去ろうと。


「——陛下はあくまで遠い未来の理想を仰っていらっしゃるのですよ。我らオンはふと実現不可能な夢を思い描くことがありましょう? 例えば母后様お手製の菓子を際限なく食べ続けたい、といったような」


 叔父の不器用な冗談にロベルは軽く笑みを浮かべた。


「私にとってそれは実現可能な夢です。母上に申し上げれば叶ってしまいます。しかし叔父上、ここだけの話ですが、母上は私の好みが陛下と同じだと勘違いしておられるのです。実は私は、甘いものはあまり…」

「なんと! それは。しかしロベル様、私から母后様にお伝えすることは叶いませんよ。姉上はその…怖いので。弟の言など聞き入れてくれません」


 肩を落とし失望を示す少年の姿は確かに父に似ている。これは姉が重ねてしまうのも無理はない。バルデルは苦笑して言をつなげた。


「ですから殿下、お祖母さまフェリシアをお頼りになっては? フェリシア殿であればブラウネ様にしっかりと伝えてくださいましょう」

「しかしそれも難しいのです。——母上を落胆させてしまいますから」


 少年が父親に似ていないところもある。

 それがつまりこの優しさだ。


 グロワス13世が”腰の低い”王であることは衆目一致するところ。態度と言葉遣いで相手への敬意を示す。感謝を明言する機会も多い。

 だが、それはどこか空疎だ。

 ことに近しい者に対するとき印象は顕著になる。決められた手順に従い自動的に行動している。そう感じさせる瞬間がある。

 一方で、少年の言葉は心底からのものであると叔父は感じる。自身の母に対するものなのだから当然といえばそれまでだが、やはり王とは違う。

 ようするに、裏を読む必要がない。あるいはその必要を他者に感じさせない。


 ——私がお守りせねばならぬ。


 今のところ少年は、弟グロワス王太子との仲も悪くない。

 物静かではあるが悪意を秘めた性根もない。家族から使用人に至るまで、誰に対しても至って丁寧な物腰は、明らかに父の姿が影響を与えている。

 知的でもある。

『悪について』を巡る会話からその一端が分かる。王の言葉をバルデルに伝えることを躊躇した一事だけを見ても、少年が自分の立場を正確に理解していることが読み取れた。

 長じては王兄として枢密院に席を占め、ルロワ朝の繁栄を支える政界の重鎮になる。そんな未来が拓けている。


 だが、違う未来もある。

 好む好まざるに関わらず、彼はまことに担ぎでのある神輿である。父王のように”うまくやる”ことを学べればよいが、それが出来る人間は稀だ。特に少年のように”普通の優しさ”を持った人間には難しい。”普通の優しさ”を持つ者は”普通の怒り”も”普通の嫌悪”も持つ。それらを殺しきることが出来なければ、人にたやすく操られてしまうだろう。


 ロベル王子の後ろ盾は、母の実家を通してルロワ譜代諸侯にある。つまり彼らが騒がぬよう統制しなければならない。

 一方で、の事態に備える必要もある。

 同じルロワ家由来の大家とはより深い関係を築かねばならない。例え王がそれを歓迎せずとも。


 バルデルにとってグロワス13世は憧れの存在であった。

 実際に顔を合わせる前から、その美点を姉ブラウネからうんざりするほど聞かされていた。あの潔癖で凛とした姉をここまで惚れ込ませる男がこの世にいるのかと驚嘆もした。

 側近として働くようになって肩透かしを食ったのも事実である。

 雄々しく心を揺さぶる弁舌の持ち主は、実際のところ小心と表現するほかないほどに動くことを嫌う、いわば事なかれ主義者だった。そう見えた。

 そして10年が経ち、15年が過ぎ、彼は主君を畏怖するようになった。

 誰にも見えない暗がりで王は物事を動かす。仄めかしと囁きで。

 演説など本質ではない。

 当てこすり、牽制、威圧、おべっか。

 そういう湿気た言葉こそが王の武器なのだ。

 妻も子も躊躇なく道具として扱う。美麗な包装紙に包んで。


 王への忠誠はむろんある。バルデル・エネ・エン・フロイスブルはルロワ家の家宰であり、枢密院の宮廷大臣であるのだからそれは当然だ。

 しかし、恐らく王の方はバルデルを不可欠の存在とは思っていない。彼の感覚は正しかった。彼は亡父にはなり得ない。


 だからこそ、彼は対象を探していた。

 忠誠の。






 ◆






 ”お支えして”


 この言葉ほど幾重にも塗り込められたものはない。ロベルの耳に、身体に。

 何かにつけて母は言った。


 ”王太子殿下をお支えして”

 ”陛下をお支えして”


 そして母は少年を”お支え”した。

 食事から勉学に至るまで、少年が好まぬものは排除された。正確には、好まぬとが。


 少年は算術を好んだ。数字や図形の問題は彼を悩ませたが、悩むこと自体が楽しかった。

 しかし気の乗らぬ日もある。いくら考えても答えが分からない図形の問題に出会い、ふてくされて放り投げた。

 母の元に甘えに行き、何も言わずに抱きついた。

 母は少年を優しくあやした。

 翌日から算術の教師は別の者に代わり、問題は格段に易しくなった。

 母は言った。

 ”殿下は賢いお方。導く者の資質がなかったのです。新しい先生は殿下のことをしっかり理解してくださっていますから。どうか算術に精練なさいませ”


 少年は口数を減らした。

 余計なことを言えばどうなるか身にしみて分かったからだ。楽しい算術の時間が呆気なく失われたように。

 一方で、母の”支え”に包まれるのは安楽でもある。何も考えなくともよい。何もしなくともよい。全てが準備されているからだ。


 少年が極上の快楽をもってなされる”去勢”を免れたのは、父の存在ゆえである。そして母の反省ゆえでもある。


 6歳のある日、初冬のこと。

 朝食の献立が気に食わなかった少年は機嫌が悪かった。嫌いな香草が入っていたからだ。無性に腹が立った。

 父が少年を散歩に連れ出そうとやってきたとき、彼は無言で母の部屋の椅子に座り込んで動かなかった。


 母は困惑しながら父に言う。


「殿下は今日は少し身体のお加減が悪いようなのです。もしかしたら朝食をお好みにならなかったのかもしれません」

「そうなのか。それは大変だ。ロベル殿、どうされた?」


 父の問いを背中に浴びながら少年は無言だった。答える必要を感じなかったからだ。彼の心内を慮るべきは相手の方だ。

 これまで父の前では唯々諾々と動いてきた少年が初めてとった反抗姿勢である。


「グロワス様、今日は外も冷えますわ。殿下は寒いのがお嫌いですから…」

「なるほど。確かに寒いね。私も寒いのは嫌いだ。——それでロベル殿、どうされた?」


 二度目の問いにも彼は応えない。幼児の嗜虐性ともいえる。困らせることは密やかな愉悦である。


「陛下、昨晩ロベル様は庭に出られ、お疲れでしたから、きっと…」

「ブラウネ殿。私はあなたに尋ねていない。彼に尋ねている。お分かりか」


 父が母の言葉を遮った。怒気はないが、そこには断固とした色があった。幼子は声色を敏感に感じ取る。父は怒ってはいない。ゆえに事態はより深刻だと少年は気づく。


「ロベル殿、私はあなたの意見を聞きたい。どうだろうか」


 父は知りたがっている。叱るための前段階ではなく、純粋に。それだけは分かった。


「行きたく…ありません」

「理由はあるかな?」

「……」


 冷静に問われると途端に分からなくなる。

 なぜ父と行きたくないのだろう。普段楽しみにしている父との散歩に。先ほどまで胸を満たした黒い悦楽はいともたやすく消し飛んで、今は困惑が巣を作る。


 父は返事を急かさなかった。じっと待った。

 気配が少年の背中に伝わってくる。

 ”いつまでも待つよ”。そう言っている。父が。


 たまらず彼は振り返る。

 そこには苦笑する父と、若干不満げな、あるいは心配そうな母の顔がある。

 少年は嬉しかった。


 今彼は”意見”を求められていた。


「分かりません…」


 王は苦笑を笑顔に変えた。


「それは素晴らしい。私もブラウネ殿も、君が”分からない”ことが分かった」


 王は大きな右手で少年の髪を一度、軽く梳いた。そして手を握る。


「自分の心が分からないこともある。でも、それを伝えることは大切だ。私とていつも自分の心が分からないが、分かったときは頑張って言葉にした。ブラウネ殿にもそうした」

「母上に、ですか? 何を?」


 予想外に矛先が回ってきたことに軽く驚いたのか、母が父の横顔を見つめる。少年にとっても想定外の展開だ。自分がいないところで交わされる両親の会話は興味を引く。


「ああ、私はブラウネ殿に”あなたが好きだ”と言った。昔ね」


 母の青い瞳が大きく見開かれ、そしてこれまた大きな息が吐き出される。


 何もかも優しく受け止めてくれる母が少年は好きだった。甘えさせてくれる母を愛した。父も好きだった。毎日会うことは叶わずとも、いや、だからこそ、父の存在は希少性を持っていた。波風の立たぬ日常を揺り動かしてくれるのは父だ。

 好きな母と好きな父。二人が仲良くしている姿は少年を安心させた。根源的にそれは自身の存在の肯定である。


「ロベル殿、これは男らしいことではないかな。真の男はここぞというときには勇気を出すものだ。あなたも真の男になりたいかな」

「はい!」


 すっかり機嫌を直した少年は元気よく返事を返す。


「ではこれからの計画を話そう。母上には内緒の話だから…庭で。どうだろう」

「参ります!」


 少年は椅子から飛び降りて自室に駆けていく。

 外は寒い。防寒具をしっかりと着込まねばならない。


 少年の耳に父の声がうっすらと届いた。


「ブラウネ殿、すまない。私ばかりが良いところをさらってしまった。あなたの献身あってこそなのに」

「本当に…グロワス様はずるいお方。ブラウネをのけ者にして、殿方お二人で存分に遊んでいらしてくださいませ」


 母の声は柔らかかった。少なくとも怒ってはいない。

 少年にはそれが分かれば十分だった。






 ◆





 思いを言葉にするのは今でもあまり得意ではない。

 ロベルは自身の口下手を自覚している。


 叔父バルデルと対しても、言いたいことの半分も、あるいは三分の一も言えなかった。

 14になった少年には悩みがある。それはつまり自身の存在意義という、なんとも陳腐でなものだ。


 きっかけは弟の一言だった。

 ロベルの部屋で『悪について』を一緒に読み解く中で弟は言った。何者にも物怖じせず、何事も明るく言い放つ弟が、横目に彼を見ながら弱々しく。感じようによっては申し訳なさそうに。


「ロベル兄さんが王太子だったらよかったのにって…俺は思ってる」


 その発言が含む特大の危険性に彼は黙り込む。


「だってそうでしょ。俺より兄さんの方がいいに決まってる。頭もいいし、父上に似てるし。何よりサンテネリ人だ」


 いつも上機嫌の弟が心内奥深くに秘めていたものを少年は初めて知った。


「グロワス、それは違う! 私の頭が良いのであれば、それは君を支えるためのものだ。私が純粋なサンテネリ人であるのも、サンテネリをまとめ上げて君を助けるためだ。君はその代わりにエストビルグとの絆を持ってる。君は私と違って明るい。陰気な私と違って皆に好かれている」


 彼は取り急ぎ、考えられる限りの理由を陳列してみせた。だが弟は納得しない。


「…俺には無理だよ。だって悪いことを全部背負わなきゃいけないんでしょう? この本にも書いてある。全ての不正の根源は王だって」

「それは…それはこれを書いた人の意見に過ぎないだろう?」


 宥めはしたが、ロベルにしても弟と同感だった。王とは目眩がするような辛い役割だ。『悪について』が述べるような「不正」についてはさておくとしても、権力の究極の源泉が王である以上、責任の行き着く先もまた王なのだから。


「でも、兄さんも嫌でしょ?」

「私は…嫌かどうかではないんだ。次の王は君と決まっているんだから」

「じゃあ決まっていなかったら、なりたい?」


 つぶらな瞳を上目遣いに問いかけるその姿は庇護欲をそそる。なんとかして助けてやりたい。確かに弟ができないことを自分はできる。その自負はあった。

 だが一方で、弟にしかできないこともある。弟が自分に無いものをもっていることを少年は理解していた。


「いっそさ、この本みたいになればいいのにね。俺たちは普通の兄弟で。王なんかいなくて。皆で力を合わせて働けばいいんだ」


 それが無理であることは二人とも理解していた。

 オンはふと実現不可能な夢を思い描くことがある。


 兄弟はしばし黙り込む。

 少年は自分の心が分からなかった。どうしたいのか。どうするべきなのか。さしあたって、混乱した弟になんと言えばいいのだろうか。あるいは黙したまま時が過ぎるのを待つべきか。


 いや、そうあるべきではない。

 分からないことは分からないと伝えるべきだ。

 言いたいことは言葉に出して伝えるべきだ。

 ここぞというとき勇気を出してこそ、真の男なのだ。


「グロワス、聞いて欲しい。私は王になりたくないよ。でも、君に全部を押しつけたくもない。一緒に背負いたいと思うよ。背負えなくとも、背負う君を支えたいと思ってる。私たちは兄弟だから」


 彼は弟の手を強く握りしめた。


「本当だね? ロベル兄さんエネ・ロベル。俺を助けてくれる?」

「もちろん。私だけじゃない。メリア姉さんも助けてくれる。姉さんは敵を片っ端から銃で撃ち抜いてくれるよ。私は君の敵を、この自慢の頭脳で陥れてやる」


 大げさに自身の頭を指さす兄を見てグロワスは笑った。泣きながら。


「…後でメリア姉さんに言ってやるんだ…兄さんが怖がってたって…銃で撃たれそうって」

「やめてくれよ。本当に怖いんだから!」


 二人の笑い声に染みこんだ水分は、それが誰の涙腺に由来するものかもはや分からないほどに混交していた。


 ロベルの語った言葉は紛れもなく本音であった。

 真心からの夢であった。


 ——オンはふと、実現不可能な夢を思い描くことがある。

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