対話 4

 少年に与えられた机は身体に比して少し大きい。椅子に腰掛ければ足は床に着かず、当て所なく宙に揺れる。

 彼はいつものように赤い布張りの座面に尻から飛び乗り、胸の位置に来る机の天板に腕を乗せた。


 身体に合ったものを薦める母の言に逆らって、彼はこの机と椅子を選んだ。

 父の部屋にあるものと似ていたからだ。

 父はそこで王国の舵を取る。

 巨大な羽根のついた筆記具や一分の乱れもなく整えられた淡い黄色の紙束は、目映い輝きを放つ王冠や剣よりも一層、父の存在を象徴するものであった。


「誰も入ってこないで!」

 侍従たちに言い放ち、彼は部屋に籠もった。

 午後の太陽が背中から少年の手元を照らす。


 グロワス・エネ・エン・ルロワ。

 当主と後継子のみが名乗ることを許される”エネ”付号を持つ、ルロワ王家の男児。

 13歳の彼は、なんとも形容しがたい心のもやを直視できずに一人ぼんやりと机に伏した。


 最近どうにも納得がいかないことが多い。

 例えば昼時も、彼はしごく要求を母に却下されたところだ。

 異母兄ロベルは明日から一週間、母ブラウネと共に母方の実家フロイスブル屋敷に泊まりに行くという。

 少年は兄と共に自分も行きたいと願った。

 いかに広大な敷地を誇るとはいえ、生まれてこの方光の宮殿パール・ルミエからほとんど出たことがないのだ。外の世界は気になる存在だ。

 さらに、フロイスブル屋敷にはフェリシアがいる。二年前まで母アナリゼの女官長として正妃居住区を取り仕切っていた彼女は、少年のもう一人の母、あるいは祖母ともいえる存在であった。


 数年前まで、少年が思う”家族”の姿は明確であった。

 母アナリゼともう一人の母ブラウネ、祖母のフェリシア。そして兄ロベルと妹フローリア。

 ロベルとフローリアの兄妹は母を同じくはしていないが、それを強く意識することもなかった。彼らは共に育ったのだ。つまり「身内」である。

 一方で、メアリ妃の娘メアリ・アンヌやゾフィ妃の娘マルグリテは少年にとって「外」の存在である。仲が悪いわけではないが明白な他者なのだ。性別の違いもその”他者性”を助長した。つまり、相手だった。


 いつのまにか、彼の「家族」はゆっくりと、茶に溶ける砂糖のように溶解してしまった。

 フェリシアは役を退き宮殿を去った。アナリゼとブラウネという二人の母を束ねる存在の消失である。以降、ロベルやメアリ・アンヌと共に過ごすことは多いが、それは「子どもの世界」であり家族ではない。他者の集団である。


 おぼろげながら少年は理解している。あの「家族」が戻ることはない。

 彼は異物である。のけ者だ。

 幼時を濃密な関係性の元に過ごしたからこそ、その瓦解は少年の心に強い痛みを与えた。

 なぜ自分は異物なのか。

 なぜ自分だけ、許されないことがあるのか。

 兄弟達が出られる宮殿の外に、なぜ自分だけ出られないのか。


 答えを知らぬ歳ではない。

 グロワス少年は王太子だからだ。次代の王となることを定められた存在だからだ。頼もしく自分を庇ってくれる兄も、凜々しく大人びて、姉も、将来皆臣下となる。

 実家もない。

 正確にはあるが、気軽に里帰りが可能な距離ではない。なにせ外国、しかも数百年にわたって争い続けた”敵国”である。

 兄や姉、妹たちが羨ましかった。

 彼らは皆、サンテネリに根付いている。サンテネリの王とサンテネリの諸侯の娘の間に生まれた生粋のサンテネリ人である。

 一方の自分はどうか。

 混ざり物だ。

 母は”エストビルグ人”。

 エストビルグの大使や重職者が訪ねて来ることもある。王太子として彼が同席する際は母も客もサンテネリ語で会話するが、ふとしたはずみで帝国語に切り替わる瞬間もある。そんなとき、少年は行き場のない寂しさを感じる。

 彼は帝国語を知らない。


 少年が物理的に独りになることは日常ほとんどない。常に人に取り囲まれている。学ぶことも多く、遊ぶことも多い。

 必ず相手がいる。教師であれ兄弟姉妹であれ、父の重臣達であれ、誰かしらが彼の周りにいる。だから普段は忘れていられる。

 育ち盛りの少年の身体には活力が溢れていた。


 しかし、ごく稀に、不安が心を満たす。

 全てが舞台の書割のごとく感じられる瞬間がある。

 思春期の振り子のような心といえばそれまでだ。自身の存在や境遇を殊更に特別視し、深刻に考え込むは成長の一過程に過ぎない。

 本来であれば。

 ただし、グロワス少年の特殊性は思い込みではなくであった。


 なぜ自分は王太子なのか。

 陳腐でありながら、その実致命的な問いを、少年は自分に投げかける。


 正教僧たちは、それこそがグロワス少年の”物語”——偉大な栄光の物語であると諭した。中央大陸一の大国を背負い、人々を導く偉大な王になることこそが、神の御裾の元で与えられた運命であると。

 数年前、僧たちの言葉を聞いた彼はとても誇らしく感じた。

 自分は王になるのだから立派にやらなければならない。つまり、嫌な算術も教典の暗記も文字の書き取りもしっかりやって、父のような偉大な王になって、母に誇らしく思ってもらいたい。

 グロワス14世として。


 しかし、13歳の彼は今、半信半疑の縁にいる。

 なぜ自分なのか、と。

 頭のよい兄では駄目なのか。生粋のサンテネリ人である兄の方がはずだ。にもかかわらず自分が王になるという。

 それはなぜか。


 認めたくはないが自分はそれほど優秀ではない。13にもなればうっすら分かる。

 一方で、まだ日の目を見ぬ能力が、つまり王になるに相応しい能力が、つまり偉大な何かが身体のどこかに眠っているのではないかと夢想した。


 父が彼と兄姉に一冊の薄い本を手渡したのは、そんな頃合いだった。

 自力では読み解けぬ文章も多かったが、薄らと大意は理解できた。


 王は故なくして王であり、その存在は不正である、と。


 落胆は大きかった。

 自分は”異物”ではない。より悪い。害悪そのものである。

 人々の敬意と服従を卑怯にもだまし取る、混ざり物の悪党である。


 午後の柔らかい陽光を背に浴びながら、グロワス少年は俯いたまま動かなかった。

 不意に怖くなったのだ。

 いつか自分のが皆にばれてしまうのではないか。

 正当な権利なく果実を貪った貪欲を糾弾されるのではないか。

 そして皆いなくなってしまうのではないか。

 失望と侮蔑の末に。


 少年はまだ小さい両の腕を机の上に組み、顔を伏せた。

 目を強く閉じて。







 ◆






「今日はよい日差しだ。こんな日は眠くなる」


 まどろみの中に迷い込んだ少年の意識を、低いしゃがれた声が引き戻す。


「父上…」


 少年はゆっくりと起き上がり手のひらで目元を拭う。あくびの副産物か、あるいは涙か、ともかくその液体を取り去らねばならない。


 寝起きの焦点が合わぬ瞳に映る父は、いつものように穏やかに微笑んでいる。


「私も時々眠ってしまうことがあるよ。背が温かいと気持ちいい」


 父はゆっくりと少年の横に移動し、窓から注ぎ込まれる陽光を浴びた。息子と共に。


「俺は…眠くありません。勉強していたんです」

「そうか。それは素晴らしいことだ。アナリゼ殿も学ぶことがお好きだからね、あなたも似たのだろう」


 グロワス王の声色は変わらない。丁寧で穏やかで、敬意が含まれている。

 それが少年には耐えがたく感じられた。


「母上は関係ありません。俺は俺です」


 その声色には苛立ちと若干の恐れが混じり合っていた。まだ声変わり前の高音である。

 他愛のない台詞に対して返ってきた鋭い応答に、王は少し驚いたように息子の顔を見つめる。


「母上と同じでは嫌かな? 王太子殿」

「そうではありません。でも…」


 父は何も分かっていない。

 言葉にすれば叱られる。だから言わない。だが苛立ちは募る。少年の心内に隆起する刺々しい感情は行き場をなくして逼塞した。


 何もかもが気に食わないのだ。

 父が自分を”王太子殿”と呼ぶことも、母と比べることも。


「俺は馬鹿だから、人よりも勉強しなければならないんです! 遊びに行く暇なんてありません!」


 その場で咄嗟に口をつく言葉は八つ当たりといってもよい。しかし紛れもなく、彼が”言いたいこと”だ。

 少年の周りの者は誰一人として彼を馬鹿だなどと評さない。つまりそれこそが少年のなのだ。

 自分が軽侮されないのは王太子の地位ゆえである。兄と共に外出できないのと同様に。少年はそう考えた。


「誰と比べたのかな?」

「皆とです! ロベル兄さんエネ・ロベルメリア姉さんエネ・メリアも俺よりずっと頭がいい。母上もそうです。俺は…」

「確かに皆賢い」

「だから…俺は王にならなければいけないのに…一番駄目なんです!」


 少年の声にうっすらと震えが混じる。

 腹立たしく悲しい。

 父親から受け継いだ翠の双眸は見開かれ、隣に立つ男の顔に視線を叩きつける。つまり、この不条理を授けた張本人に。

 自虐的になりすぎている。

 あるいは傷心を父に伝えたいがゆえの演技かもしれない。だが半分本音でもある。


 慰めの言葉を期待していた。

 あなたは愚かではない。立派にやっている、と。

 しかし王の言葉は少年にとって予想外のものだった。


「では、皆の中で最も愚かなあなたはどうやって生きる? ——王として」


 父は変わらず穏やかに問う。そこに威圧は感じられなかった。それは一つの純粋な問いだった。


「賢くなります…。勉学に励み」

「そうか。では、あなたが努力を重ね、この世で最も賢い者になったとしよう。するとどういうことが起こるだろうか」

「皆が俺を認めてくれます。一番賢い俺がサンテネリは栄えます」

「それは偉大な王だ。だが、その一番賢いあなたが、劣った皆をわざわざ導いてやる必要があるだろうか。自分より劣った皆を”無価値な者達”と見下すだろうあなたが」

「俺は見下したりなどしません!」


 グロワス少年は椅子から飛び降り、父と対峙するように立つ。両の手を握りしめて。


「あなたは見下さない。ならば今、あなたと同様、他の者もあなたを見下していないのではないかな」

「俺は王太子として、でなければなりません! でも皆は違います」


 感情に任せて言い募る少年の姿に、王はしばし黙り込み、やがて笑みを浮かべた。


「そうあるべきだ。あなたは分かっている。——太子として、やがては王として、あなたは他者を見下してはならない。そして、他者からの侮りは堪えて受け止められよ」

「父上…それではただの愚か者ではないですか。自分が無能だから馬鹿にされて、自分が無能だから他の人を見下せないだけです」

「他人を見下ない者は、見下せるようになればそうする。だが、見下ない者は、見下せるようになっても他者を尊重するだろう」


 複雑な言い回しを受けて煙に巻かれた気分を味わう。

 ただし、父が真面目な話をしていることだけは分かった。父は自分に何かを伝えようとしている。


「グロワス、他人を侮らず、他人からの侮りを引き受けられる者は稀少だ。あなたが尊重すれば相手はあなたに尊重を返す。そして軽侮を引き受けるとはつまり、それを誇ることだよ」

「なぜ誇れるのですか? 馬鹿にされてやり返さなければ、ただの臆病者です」

「そうだね。では、あなたが全力でやり返したら相手はどうなるだろうか。サンテネリの王権を握る者が、その全力を振るってやり返したら」


 そこで少年は理解に至った。つまり王だけに課せられた拘束なのだ。圧倒的な力を持つがゆえに、それを振るってはならない。言い換えれば、枷を受けることこそが王の証でもある。


「王ならばこそ受け止めなければならない。それは勇者にしか出来ない振る舞いだ。それは偉大なことではないかな」


 偉大なこと。

 少年が想像する偉大さは、与えることであり、導くことであり、攻撃することであった。力と知恵で人々を従える姿は偉大な王の証だ。

 しかし父は受け止めろと言う。力を振るうなと言う。耐えろと言う。

 耐えることが偉大なことであると。


「父上も受け止めましたか?」

「そうしたつもりだが、なかなか上手くいかない。弱腰に過ぎると言われることもあるよ」


 言われるのか容易に想像が付いた。

 ”陛下は誠に慎重な方でいらっしゃる!”と少年達に大仰な素振りで語った男の姿が脳裏を過る。


「アキアヌ大公殿?」

「彼もそうだね。アキアヌ殿はいつも私に手厳しい。若い頃からの付き合いだから仕方がないが」

「その…腹が立つことはないのですか?」

「時々は。だが、彼は彼でサンテネリのために働いている。偉大な人だ。そして、偉大な人は他者を侮らない。あれは愚痴のようなものだ」


 軽い口調ながらも、父の佇まいは堂々たるものだ。

 そこには「侮りに耐える」という言葉から連想される卑屈な空気は微塵もない。


 少年は王太子として多くの貴顕人士と引き合わされてきた。

 枢密院閣僚は当然として、参与となった平民、あるいは他国からの大使、いずれも高い地位を持ち、数えきれぬほどの部下を抱えた重鎮達に比して、父の存在は特に目立ったものとは思われなかった。


 しかし今、少年の目に映る王の姿は別格だ。

 特段偉ぶった態度もない。普段と同じく物静かでゆったりとした風情。柔らかな口調。にもかかわらず、かつて平凡に思えた父の存在が、今は天衝く巨木のように感じられる。


 この日の対峙は、少年にとって初めての”王との邂逅”であった。

 父は父でありながら、一方でまぎれもなく”正教の守護者たる地上唯一の王国”の君主グロワス13世なのだ。


 どうしたら父のようになれるのだろうか。

 王太子グロワスは自身の将来を真剣に想像した。

 高揚感が小柄な肢体に震えをもたらす。王となること。それは他人事ではない。自分はいつか目の前の父、グロワス13世の治世を引き継ぐのだ。


 先ほどまであれほど心を苛んだ悩みを少年はいつしか忘れていた。


「俺は立派な王になれますか」


 ——父上のように。

 そう付け加えたいが、気恥ずかしさが邪魔をした。

 息子の無邪気な問いに王は少し首をかしげ、思案の末答えた。


「あなたを励ましてあげたいところだが、この際だ。綺麗事は止めて本当のことを伝えよう。——あなたは否応なく王になる。立派かどうかは歴史が判断するだろう。だから気負われるな。王でことに耐えられよ」

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