対話 2

 光の宮殿の広大な庭。手を繋ぎ数歩前を歩く夫と娘。二人の後ろ姿を眺めながら、サンテネリ王妃ゾフィは初夏の風を頬に感じていた。鼻を突く草いきれとともに。


 多忙ゆえなかなか会うことが叶わぬ父に、娘がひっきりなしに話しかけている。この一週間のうちに体験したことを一つ残らず伝えなければ気が済まないのだ。

 幼い頃の自分の姿を重ねて、彼女は少し微笑んだ。


「お父様、このお服の布はどのように編まれているかご存じ?」

「いや、知らないな。マルグリテ殿はご存じなのかな」

「はい! この間リーユの商会の方がいらして…」


 ゾフィは子の育て方など何一つ知らなかった。ことに”普通”のそれは。だから自身が父母から与えられたものを娘にも与えようとした。

 夫も賛意を示した。

 ”マルグリテ殿があなたのような賢い方に育つのであれば、それに勝る喜びはない”と。


 ガイユール領は羊毛の紡績と織物業で知られる。

 古くからの職人作業で生み出される高級品から、新しく開発された”機械”と分業によって大量に製造される普及品まで、現状サンテネリ最先端の組織論と技術がそこにはあった。

 ゾフィは自身が趣味とする服作りの素材を仕入れるのと合わせて、様々な職人や技師を招き、娘の前で講義をさせた。

 目もくらむ繊細可憐な模様と手に快感を与える滑らかな表面を秘めた生地。それを使って母が拵えてくれるお洒落な服。そして、それら全てを可能にする多種多様な技術。血がなせるわざか、11歳の少女は夢中になった。


 ゾフィが長じて知った世界は、綺麗なものばかりとはとてもいえなかった。

 の前では弁えている職人達も、いざガイユール領に帰れば敵同士。

 新しいものが生まれれば必ず古いものとぶつかる。

 新型の織機や流れ作業の手工業は、伝統的な”偉大な仕事”を破壊しつつある。上手く棲み分けができればよいが、事はそう単純ではない。利益の問題ではない。もはや生き方の、あるいは信仰の問題である。

 年中行事となってしまった職人達の”闘争”に頭を痛める王の、あるいは父たるガイユール大公の姿を見て、彼女は学んだ。


 だが、娘にはまだ早い。まずは綺麗なものを見せるべきだ。

 世界をどのようなものと捉えるか。その方向性を左右するのは幼い頃の体験だ。世界を楽しいもの、美しいものとして受容することができた人間は、成長して醜悪なものに出会ったとき、それを例外と、または忌避すべきものと考える。

 一方世界を汚濁として認識せざるをえなかった者は、善や美をむしろ例外と見なすようになる。

 ゾフィはこの歳になって初めて、自身の幼時が極めて幸運なものであったことを実感した。特権的なものであると。


「ゾフィ殿、あの小鳥の首飾りはマルグリテ殿に譲られたのだね」


 いつしか夫が彼女の横を並んで歩いている。

 日々の出来事を大方話し終えた娘は、満足げな笑みを浮かべて両親の前を一人歩く。


「想いの詰まった宝物ですけど、残念なことに私にはもう似合いません」


 母となり三十を過ぎたゾフィには、その首飾りのかわいらしい意匠は少々弱い。女はもはや巨大な輝石が似合う頃合いを迎えていた。


「しかしマルグリテ殿にはよく似合う。新たな飼い主が見つかるとは、あの小鳥は果報者だ」

「本当に」


 ゾフィは夫との邂逅を思い出す。あのとき彼が自分にかけてくれた真摯な言葉を。

 本当の意味で夫グロワスを知ったのはまさに14歳のあの日だった。

 当時「完璧な殿方」に見えたものだが、共に年月を過ごすうちに欠点も目に付くようになった。その十や二十はすぐにあげつらうことができるほどに。

 だが、それらを全て含んでこそ夫なのだ。


 四年前、二人の息子が5歳の誕生日を待たずに亡くなった夜、彼女は夫とある種の感情を共有した。痛みを分かち合った。

 その日、彼女の中のグロワス像から”お兄さん”の最後の残滓が拭い去られた。彼は夫となった。同志となったのだ。


「こうしてみると、マルグリテ殿はあの頃のあなたのようだ」

「姉妹のようだと言われることもあるんですよ。メアリ・アンヌさんに」

「ああ、そのようだね。メアリ殿が恐縮していたよ。あなたに迷惑を掛けていないかと」

「いいえ。メアリ・アンヌさんは娘とよく遊んでくれます。さすがはメアリさんの娘。お優しくて、面倒見がとてもよいのですから」


 妻の発言に王は小さく頷く。


「ああ、メアリ・アンヌ殿は素晴らしい心根の娘だ」

「でも、陛下にはつれなくていらっしゃいます」

「その通り。この間お父上ガイユール大公とお話ししたが、”諦めろ”と素っ気なかった。——そういえばあなたはお父上に冷たく接したことはあるかな? マルグリテ殿の来るべき”成長”に備えて是非お聞きしたいものだ」


 苦笑交じりではある。だが本心も含まれている。ゾフィは王のおどけた言葉の下に潜む若干の困惑をしっかり読み取った。


「わたしは…どうでしょう。あまりそのような記憶はありません。お父様はとても凜々しく頼もしくいらっしゃいましたから」


 あえて悪戯めいた答えを返してみる。

 本当のところ、ザヴィエの持つ微量の”ひんやりした何か”に反感を持ったこともある。だがそれは夫には伝えない。


「ああ、なるほど。やはりガイユール殿のような立派な方でなければ避けられぬ道か」


 大げさに嘆息する王を横目にゾフィはくすりと笑みをこぼす。

 この少し”抜けた”ところがいい。

 かつてメアリが不敬にも”陛下は子犬のように愛らしい”と漏らしたときは全く理解できなかったが、今になって分かる。

 夫には自身の父親が決して見せぬ隙が。そして、父親が見せた”冷徹な意志”が


 それは最高の美点であると彼女には思われた。

 事実であるかはさておき。


「不思議なものだね。あの頃少女だったあなたと夫婦となってこうして庭を歩いている。そして、あの頃のあなたのような少女が私たちの目の前を歩いている」


 王は目を細め、愛娘マルグリテの小さな背中をじっと眺めていた。


「そうでしょうか。——私たちは確かに少しだけ幸運ですけれど、こういうものです」


 両親が揃い、健康な娘がいる。一見当たり前のようでいて、その実少し手に入れづらい幸せだ。

 特にこのサンテネリにおいては。


「少しだけ幸運なのは確かだ。そのようだ。ゾフィ殿」


 夫のつぶやきにはどこか空疎な雰囲気があった。






 ◆






「プロザンに…。それは総意かな?」


 そのつぶやきには強烈な重みが込められていた。


「いずれにしても血の盟約が必要となります。その認識は皆変わりません」


 枢密院会議の席次二列目に座る赤毛の青年がきっぱりと口にした返答は、明らかに王の苛立ちを増幅せしめた。そのように見えた。

 バルデル・エネ・エン・フロイスブル侯爵はバロワ家の家宰にして枢密院の宮廷大臣である。王家の婚姻は国事であると同時に王家の私事でもある。だからそれは、兄の急逝により図らずもその地位を占めることとなった青年の職務である。


「ヴォーダン殿の息子か」

「はい。フライシュ王太子様は御年11。マルグリテ様とちょうど同い年となられます」

「ああ、分かるよ、家宰殿」


 二重戦争の幕引きをどう図るか。目下枢密院が取り組む課題はそれに尽きる。いや、もう何年も前からの話だ。

 新大陸植民地の大部分をアングランに割譲するのは既定路線であった。再建途上の海軍には、アングランの大艦隊を振り切って新大陸に援軍を送る力はない。つまり現実の追認である。

 一方で、中央大陸においてはまだ出来ることがある。いや、何かを成さなくてはならない。


「陛下、ご理解頂きたいところですな。エストビルグが存外頼りにならぬ中、とにかくプロザンに大人しくしてもらわないことにはどうにもなりませんぞ」


 枢密院首相アキアヌ大公が両手を机に投げ出して吐き出した言葉は、だだをこねる子どもに呆れる教師の口調に似ている。


 参与の増加に伴い、枢密院の議場は光の宮殿一階の大会議室に移されて久しい。

 広大な長机の短辺、会場の最も奥まったところには王が座す。両の長辺を枢密院各卿が埋め、その背後には各卿推薦の参与達が詰める。加えて各卿の補佐官達も近侍する。総勢百名に近い大所帯である。


 王はぐるりと会場を見渡す。

 発足当初は国王執務室脇の小会議室を使い二十名に満たぬ参加者で行われた会議も、今やここまで巨大なものとなった。

 見慣れた閣僚の背後には、多種多様な経歴を持つ平民参与たちが王の言葉をじっと待っている。


 つまるところ、結論は出ているのだ。

 枢密院で議題に上がる以上、それを隠し通すことは不可能だった。

 官報と異なり国民全てに布告される類いのものではないが、サンテネリの有力者も大陸の各国も、それぞれ参与を通じて情報を手に入れている。国政に携わる階層の人間達にとって、それは公開されたと同義である。


「ああ、首相殿、枢密院の決定であれば仕方あるまいよ。ただね、皆、私には一つ不安があるのだ。私も人の親だ。もし、もし仮にだ、婿殿がマルグリテ殿を大切にしてくださらぬようなことあらば…私は父親として憤りを抑える自信がない」

「聞けばフライシュ王太子様は英明にして温和なご気性とのこと。まかり間違ってもマルグリテ様を粗略に扱うなどなさりますまい。——もしもそのようなことがあれば、私とて祖父として我慢なりません。ですが、杞憂でしょう」


 王はガイユール大公の取りなしとも同意ともつかぬ台詞を無表情に聞いた。その翠眼で参加者を一人一人射貫きながら。参与達を。


「私はね、諸君、若きフライシュ殿の心根を疑うことなどないよ。よい方なのだろう。ただ、お父上フライシュ=ボーダン殿となると話は別だ。私とプロザン王殿との間には悲しいもあった。再びそれが起こり、我がマルグリテ殿がかの国の首府ベリオンの宮廷で虐められ、私に庇護を求めてくるやもしれん。いや、ただの空想に過ぎないがね。だが、もし仮にそのようなことがあれば、なぁ、デルロワズ殿」


 軍務卿デルロワズ大公に水を向ける。


「そのようなことがあらば、もはや政治ではございますまい。ここルロワの王国は民の一人に至るまで激怒し沸き立つでしょう。損得の話ではなくなります。むろん国軍とて同様のこと。最後の一兵に至るまで!」

「ああ! それは心強いな! ルロワの姫に与えられる侮辱は必ずそそがれると!」

「無論です。陛下。もちろん、私もそのようなことは取り越し苦労に過ぎぬものと考えますが。陛下が手中の珠として何よりも大切になさるマルグリテ様のことゆえ、ご心労から過敏になられているご様子」


 50を過ぎたデルロワズ公ジャンは昔日纏った鋭い空気を重厚なものに変えていた。


 元帥杖を与えられながらも、彼は軍を指揮する一将軍ではなかった。むしろ軍政家であった。まさしく軍務卿の役職に求められるものである。


 彼の元で15年掛けて、旧来の貴族主導の無秩序な連隊は姿を消した。

 サンテネリ全土は約二十の軍管区に別たれ、各地の地方長官の管轄下、組織的で”まっとうな”徴兵が行われる。集められた兵達は調練の後、軍が任命する将軍達に委ねられる。彼らには国立工廠が製造する”まともな”銃と砲が与えられる。

 全てが国庫からまかなわれるがゆえに、軍の規模は従来よりも小さくなったが、その統制は明らかに過去と一線を画すものとなっていた。


 二重戦争の四年間を通じて、巨大な会戦はまだ起こっていない。

 だが、軍が無為に過ごしたわけでもない。

 サンテネリ国軍はアングラン軍の小規模な上陸を即座に粉砕し、低地諸国との小競り合いも互角以上の状況を保っていた。

 つまり十分な余力を残している。


「軍務卿殿のおっしゃるとおりかもしれん。我が娘可愛さに、少々疑いが過ぎてしまったようだ」


 努めて明るく張りのある声を上げ、王は首相に視線を戻す。


「枢密院の意向に従おう。首相殿」






 ◆






 枢密院会議終了後、グロワス王は首相、軍務卿、財務卿の三者を引き留めた。

 連れだって執務室に戻った王は室内を徘徊する。足早に、あてどなく。

 ゆったりと執務机に収まり各卿に椅子を勧めるのが通例のところ、この日は明らかに異常だった。


「ああ、アキアヌ殿。プロザンは乗ってくるかな」

「可能性は十分ありましょうが、まぁ当分は綱引きです。これまでもですがね」


 プロザンと秘密交渉を始めて既に1年が経つ。アングランとサンテネリ、両国を天秤に掛けていることをプロザンはほとんど隠そうともしない。


 交渉の中で重要な議題の一つとなったのは「保証」である。

 アングランと切れてサンテネリと和した場合、それが反故にされない保証をプロザンは求めた。

 サンテネリからすれば噴飯物とすらいえる。勝手に裏切っておいて再度の裏切りに保証を求めるとは厚顔無恥も甚だしい。

 だが、エストビルグの予想外の弱体がサンテネリからプロザン挟撃の選択肢を奪った以上、検討せざるをえないのも事実だった。

 王女マルグリテの婚姻をあえて枢密院で語りながら、しつこく渋る風を装い背信に釘をさしたのもそのゆえだ。


「綱引きとはね。その通りかと私もずっと考えた。アングランはどう出るか、どう出るかと。あるいはエストビルグと近づくことも…」

「ありえますなぁ。ただ、エストビルグは乗らんでしょう。王太子様がいらっしゃる以上、そのような危ない真似は。それにアングランと結んだとて彼らには利もない。資金も物資も内陸には簡単に届きませんからな。兵士は輪を掛けて難しい」


 アキアヌ大公は右の眉を軽く上げ反駁する。

 グロワス王太子は母アナリゼを通じてエストビルグの王位請求権を手にしている。

 エストビルグとアングランが結ぶことがあれば、サンテネリは明確に対エストビルグに矛先を転ずることとなる。

 その瞬間、プロザンは確実にサンテネリの側につくだろう。サンテネリとプロザンでエストビルグを、ひいては帝国を切り分けるのが彼らにとってもっとも”おいしい”。

 もっとも、サンテネリがその最適解を行いえない理由も同根である。エストビルグはグロワス王正妃の実家。先方の瑕瑾なく和約を反故にすることはできない。


「だろうね。エストビルグはそれでいい。問題はプロザンだがね、——あの国は獣だ。相手が弱ければ襲い、強ければ従う。単純な話だ。分かるだろうか、デルロワズ殿」

「嫌な話ですが、そのようです。陛下」


 二重戦争の切っ掛けはつまるところサンテネリの弱体化にあった。

 植民地戦争で立ち後れ、軍は改革途中。それがプロザンを決断させた。あるいは背を押した。


「では、我々は強いところを見せなければならない」


 王は歩みを止め、財務卿をじっと見つめる。


「できる限り早く…少なくともあと1年でけりを付けたい。付帯法院は何とかしよう。その後はお願いできるだろうか」

「やってみましょう」


 ガイユール大公は特に動ずることもなく静かに答えた。



 大きく頷いた王は、再び軍務卿に視線を転ずる。

 血走った目を。


「——デルロワズ殿、低地諸国をおとして欲しい」

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