対話 1

 遅れてやってきたアキアヌ大公の姿をみとめて、彼を待ちながら四方山話に花を咲かせていた二人の男達は軽く杯を掲げた。


 薄暗いろうそくの光は広い室内を満たすには心許ない。

 家具を縁取る金の金具が、不規則に揺らぐ炎を受けて煌めいていた。

 部屋の中央付近、無造作に置かれた巨大な一人がけの椅子は3つ。紅い羅紗の覆いは弱い光源をすっかり吸収して、半ば黒く見える。


「陛下、ガイユール殿、申し訳ない。お待たせしてしまったようですな」

「いやいや、アキアヌ殿。私とて先刻着いたばかりです。お気になさるな」


 齢50を過ぎて老境に至るも、枢密院首相の足取りは壮年時と変わらず闊達さを止めている。


「遅れた私が言うのもおかしな話ですが、陛下とガイユール殿をお二人にしておくというのはなかなか心臓に悪い状況だ。何を企まれているか分かったものではない」


 大声で笑いながらアキアヌ大公ピエルは額を拭う。歳月を経て面積を広げた額を。


「あなたがそれを言われるとはね。まぁ座られよ。こうして3者で飲むのは久しぶり。そちらに葡萄酒もある」


 最年長のガイユール大公が部屋の片隅を示す。そこには空の杯と葡萄酒の瓶が置かれていた。


「手酌とはまぁ! 相変わらずガイユール殿はお堅いなぁ」


 男は大げさにのけぞって見せて、いそいそと杯に酒を注ぐ。


 ガイユール公爵邸に集った3人の男は名実ともにサンテネリ王国の支配者である。

 男達の地位からすれば、部屋の四隅には従僕が、あるいは三者いずれかと貴婦人が同席するのが常だが、この場に限っては余人の混入を嫌った。

 ことに政治を離れて”楽しく”飲みたいときは。離れられるかどうかは別として。


「ピエル殿のお屋敷ではこの雰囲気は出ませんのでね。華やかに過ぎて参ってしまう」

「何を仰る、陛下。そのお年で。まるで干からびた老人ではないか! 古老ガイユール殿の男ぶりを見習わねばなりませんぞ」

「誤解を受ける言葉はよしてもらいたいものだな、アキアヌ殿」


 比較的物静かな王と財務卿ガイユール大公に比して、アキアヌ大公は明らかに言葉数が多い。彼が到着するなり部屋の空気が一変したのがその証左だ。


「それで、この哀れな”王国のしもべ”が遅参するなか、お二人はどんなお話を?」


 かつて”民の護り手”であった男は最近では時折そう自称する。


「大した話ではありません。先輩に少し相談に乗ってもらっていたのです」

「ああ、ああ、なるほど。お子か」

「ええ。ガイユール殿は世にも稀な淑女を立派に育て上げられた先達でいらっしゃる」


 王の言葉をガイユール公は奥ゆかしい笑みとともに受け止める。

 確かに彼は先達である。立派に娘を育て上げた。娘はサンテネリ女性最高峰の地位を占める女に育った。つまり、目の前でゆるやかな、少ししゃがれた声でしゃべる壮年の男の妻になった。


「王女様のお話とは、それもまた大層な問題ではないか! やはりお二人は悪巧みをなさっていたようだ」


 明らかに冗談と分かるアキアヌ公の諧謔に王はかぶりをふる。


「残念ながら、老獪な首相殿を蹴落とす密談は後回しですよ。それよりも重要なことがある。哀れな男が愛する娘に嫌われている、というね」

「メアリ・アンヌ様? ああ、ガイユール殿にとなると、マルグリテ様か?」


 王とゾフィの間に生まれた王女マルグリテは11歳になる。


「いや、マルグリテ殿はまだ私に優しい」


 眉を上げ、葡萄酒を流し込む。


「メアリ・アンヌ様はなぁ。お年頃でいらっしゃる」

「しかしね、アキアヌ殿。この間など、デルロワズ殿が父であればよかったと言ったらしいのだ。これほど傷つくことはない…」

「なんと! まことに! これはおかしい!」


 アキアヌ公の遠慮のない大笑が部屋を満たす。それは1分近く続いた。


「それは不敬ですなぁ! いかんいかん! しかしまぁ。いやいや、お察ししますぞ、陛下」

「察されても困りますがね。しかし、私とて夢を見たものです。”婚姻を結ぶならば父上のような方と”と言ってくれる、優しい娘に育つことを」


 王はガイユール公を横目にそう呟く。


「それにしても、ガイユール殿はよくもゾフィ殿を手放されましたね。私ならば無理です。あのように父を慕ってくれる娘を。婚姻など到底許せそうにない」

「私とて本音を言えば辛かった。ゾフィ様から『陛下のことをどう思われますか』と問われた日のことを、未だに夢に見るほどですよ」


 ゾフィが父親に”夫候補”の品定めを頼んだことを、王は彼女から直接聞いていた。


「あなたは『陛下は王にふさわしい方だ』としかおっしゃらなかったとゾフィ殿から聞いていますが、実際のところどうなのです。実は罵詈雑言の限りを尽くされたのではないか? 私ならそうする」

「ご想像にお任せします。ただ、”声に出さなかった”ことだけはご記憶に止めていただきたい。この忠臣ザヴィエの真心を」


 今度は王が笑った。もはや遙か昔の思い出話だ。


「でしょうね。やはりそうなる」

「ですが、まだまだ先の話でしょう。メアリ・アンヌ様が嫁がれるのは」

「ええ。彼女はなかなか難しい」


 実際のところ、ここに集う王以外の二人、つまりガイユール大公とアキアヌ大公の係累に嫁がせる案もあった。両者ともに孫がおり、歳もぎりぎり釣り合うところ。

 しかし王はそれを選ばず、二人とも王の選択を理解した。メアリ・アンヌが両家のどちらかに嫁げば、政権の、ひいては王国の権力均衡が崩れてしまう危険性がある。


「しかしまぁ、その結果が軍とは。軍学校にやられるとは、本当に? 確かに王女殿下をお迎えすることで軍学校には箔がつくが」


 メアリ・アンヌ王女の進路を、王は新設間もない軍学校に定めた。

 デルロワズ領とバロワ領で行われていた士官教育を全土に広げるために作られた国立の高等単科学校である。

 現状学生は母体となった両公領の出身者が大半を占めるが、少数ながらも他領出身者、あるいは平民も混じっている。


「ある程度は学ばせるつもりです。メアリ殿などは本気でやらせろと言うが、メアリ・アンヌ殿は女性。それはあまりにも酷でしょう」

「メアリ妃様はバロワの姫。ならばそういう発想にもなりましょう。しかし、その先がありません」


 宮廷で時々見かけるメアリ・アンヌ王女の姿を思い浮かべながらザヴィエは嘆息した。

 少女は母メアリ妃に似て長身。成長すれば凛とした雰囲気と相まって立派な「看板」になる。だがそれまでだ。いずれ嫁がねばならない。

 一方で、だからこそ”ちょうどいい”ともいえる。これがもし男子であれば話はやっかいなことになる。軍に支持基盤を持つ王子の存在はグロワス王太子の権威を脅かす可能性を孕むからだ。

 腰掛けの看板だからこそ使える。それは政権の首脳、そして父親たるグロワス13世にとっても共通の了解事項だった。


「その先。その先か」

「案外軍学校で”出会い”があるかもしれませんぞ?」

「止めてください、アキアヌ殿。考えたくもない…」

「いやいや、それもまた良いのではないかな。どこか落ち着いた家の有能な若者と。素晴らしいことですぞ」


 それはつまり、メアリ・アンヌを王権と軍権から完全に切り離すべきとの示唆だ。王女たる出自が消えることはなくとも、特に力のない家の嫁に入れば政治的主体としての彼女の存在はほぼ消滅する。


「分かってはいますがね。ただしまだ先の話だ。娘の意向を待とう」


 ”娘の意向”など存在しないことは理解しながらも、彼らは王のこの言葉で話題を閉めることを決めた。






 ◆






「子どもといえばアキアヌ殿、エラン殿のご様子はいかがかな」


 グロワス13世が首相に水を向ける。


「正直に言いましょう。苦労しておりますよ。付帯法院はなかなか手強い」


 戦費調達を目的とした貴族への臨時課税を定めた枢密院令は、意外なところでせき止められていた。


 貴族会付帯法院。

 それは元来、領主達が持つ裁判権を貴族会が取りまとめ、委託する対象として生まれた組織である。


 王権が全土に確立する以前、王領においては勅令が法となり、それ以外の各貴族領においては領主の判断が法として機能していた。

 領主裁判権は侵すことのできない神聖な権利ではある。しかし、時代が下り各領の人的交流が増加すると不具合も発生する。幾つかの領に渡って発生した問題を解決する手段がないのだ。結果、貴族会が各領の裁判権をまとめて委任する形でゆるやかな合同裁判所を作った。そのため名称には”付帯”が付く。

 さらに時を経て国土が統一されると、貴族会も付帯法院も王権の元に吸収され、王権に基づき裁判を行う国家の司法機関となった。


 サンテネリには、シュトロワの貴族会付帯法院を上級裁判所として、全国の大都市に地方付帯法院が存在する。地方付帯法院が日々起こる民事、刑事あらゆる事件を裁く一方で、貴族会付帯法院は控訴審であり社会的に重要な意味を持つ事件のみを取り扱う。


 控訴審以外に貴族会付帯法院が担う重要な役割として「勅令審査」がある。

 新しい勅令が過去のものと矛盾を来していないかを調べ、上書きする場合にはその根拠を審査するものだ。

 枢密院成立以前、王の勅令が有効であった時代においては、その役割は形式的なものに過ぎなかった。付帯法院は貴族会の権能を委任されて成立したものである以上、貴族会本体の承認を経た勅令に対して掣肘を加えることは論理的に不可能である。

 枢密院体制以降もこの”形式的存在”は長らく変わらなかった。司法の独立性が存在しないサンテネリにおいて、枢密院、ひいては王に逆らうことは非常な危険を伴う行為であり、あえてそれを為そうとする者もいない。付帯法院を占める上級判事達は当然のごとく貴族であり、枢密院は彼らに対して前もってある程度のを示してきた。


 だが、風向きは変わりつつあった。

 1717年の三王和約以降、国家の庇護による新大陸交易と大陸全土の市場化を画策した政権は、商人達を富ませる一方で貴族達に恩恵をもたらすことはなかった。目端の利く一部の者を除いて。

 各種関税徴収権をなし崩し的に削られた彼らにとって地代収益のみが生を繋ぐ命綱であるが、穀物価格の下降と物価の上昇により、それは盛時からかなりの目減りを余儀なくされていた。


 そこに二重戦争が勃発する。

 貴族にとって参戦は義務である。魔力を持つがゆえに戦うことが可能であり、実際に戦いに臨むがゆえの貴族。中央大陸における貴族の存在根拠はそこに求められる。そして、戦いを通じて王に奉仕するがゆえに税を免除されるのだ。


 歴史的に、サンテネリの貴族達は戦を好んだ。

 死の恐怖は家の栄達によって乗り越えられた。

 王を助け、戦場で華々しい戦果を遂げて死ぬことは貴族の最大の誉れである。騎士の存在が時代錯誤となって久しい18期においても、この理想はしぶとく生き残った。

 だが、それにも限度がある。


 貴族達が自身の主張を国政に反映させる場たる貴族院はとうに無効化されていた。

 どうすべきか、彼らは途方に暮れる。

 大人しく課税を受け入れ、領主特権を手放し、王の官僚として生きるか。それとも諸侯の意地を守るか。いや、意地などではない。これは生存の問題なのだ。


 が彼らに囁いた。

 付帯法院の使い道を。勅令審査の使い方を。

 さまよえる羊たちに。


 それは長身の、美しい男だった。

 大学卒業後、男はシュトロワの貴族院付帯法院に登録する。

 南部農村の平民自作農と領主貴族の地権を巡る裁判の控訴審で平民側代訴人を務めた彼は、地権書や覚書の類いを数百年分遡り精査し、法廷で堂々と争い、みごと地方付帯法院判決を覆すことに成功した。

 証拠書類も各種法令も諳んじて苛烈な舌鋒を繰り出す青年は一躍時の人となった。シュトロワの新聞は挿絵入りで裁判の様子を報じた。

 絵になる男であった。


 結果として彼は地方へ飛ばされることとなった。上級判事の一人と被告貴族が縁戚関係にあったのだから、それはごく当然のことだった。


 男がリーユの付帯法院へ”都落ち”して以来、シュトロワの民衆はその名を聞かなかった。10年の時を経て彼がシュトロワの付帯法院に戻ってきたとき、既に当時の熱狂は遠い過去の話だった。

 人々はもはや誰も覚えていなかった。彼のことを。



「親の欲目もあれ、エランはよくやっている。そう思ってはいるのですがねぇ」


 アキアヌ大公は平然と葡萄酒を飲み干す。何も気になどしていない。言外にそう伝えたいのだろう。

 王は薄く笑った。


「お相手はレスパン殿でしょう。ご子息には同情を禁じ得ないな」


 その口調はいささか倒錯していた。あたかも敵を称揚するがごとく。


「最近よく聞く名だ。何者です? 陛下はご存じのようですが」


 司法は財務卿の職域から外れたところ。付帯法院がなにやらのは知っていたが、具体的な人名までは覚えていない。


「ジュール・レスパン殿。ああ、正しくはジュール・エン・レスパン殿か。彼とは数度会ったことがあります。若い時分に。しかも一度はアキアヌ殿のお屋敷で。皮肉なことに」

「皮肉といえば、かの御仁、我が領の家臣の出とかいう。息子もそこを突いたが、全く動じなかったようですな」


 遠い景色を記憶の底から攫うような王の呟きとアキアヌ公のことさらに投げやりな発声は、ある種の対比をもってザヴィエの耳に届いた。


「そうか。それはまた、ご子息も面白いことをなさる。レスパン殿はなんと?」

「いやまぁ、そこまで詳しくは。ただ、エランあれがひどく憤っておりましたよ」

「なるほど。とてもよい経験になるでしょう。レスパン殿は御身のご子息を鍛えてくださる」


 ザヴィエには王の満足げな笑顔が理解できない。

 枢密院の、ひいては王の大権が軽んじられようとしているのだ。ことは戦費に関わる。悠長に構えていられる案件ではないはずだ。


「アキアヌ殿は何か策をお持ちか? 私としてはできる限り迅速に話を付けて欲しいところなのだが」


 財務卿の立場からはまさにその一言に尽きる。

 実収入の問題ではない。この枢密院令がもたらすのはサンテネリ王国の継戦能力に対する信用である。それがあらばこそ資本家達は金を出す。


「財務卿殿はこうおっしゃっているが、どうです、首相殿?」

「なんたること。楽しい酒の場がいつしか政治に侵されている。やはり私のつるし上げではないか!」


 髪を振り乱し慨嘆の素振りで受ける首相だが、その顔にはまだ余裕があった。


「寂しい話ですよ。我々三名、顔をつきあわせればいつも最後はそこだ。でどんな悪行を積んだらこうも惨めな境遇に陥るのか」


 グロワス王の言葉に二人の重臣は首をかしげる。

 ”前の世”とは何か。言葉だった。

 最近王は時折意味不明なことを言う。実務上大きな問題が生じたわけではないものの、若干の不安は残る。


「ああ、申し訳ない。なんといえばいいか。空想ですよ。例えば我々が生まれる前、どこか他の場所で別の人生を歩んでいたら、というね」

「面白いお話ではあります。魂がこの身体に宿る、その前があったというわけですか」


 腕を組み、ザヴィエはじっと王の横顔を眺める。


「私はそうですね、きっとどこかの商会の代表だったんでしょう。悪いことをするのは大体貴族か商会と決まっている」

「となると、散々あくどいことをに違いありませんな」


 男はもはや青年ではない。まだ老いに捕まる前の、中年の男だ。

 しかしザヴィエには彼が老いて見えた。壮年ですらない。

 皺も目立たず姿勢もしっかりしている。まさに男盛りの肉体の中に、ザヴィエは厭いた魂を見た。


「アキアヌ殿は手厳しい。しかし他の考え方もあります。むしろ、何ものかもしれない」

「それは最大の罪悪だ! 悪いことをするより!」

「あなたならばそう言うと思いました。まさに」


 グロワス王は静かに言葉を継いだ。


「だから、今の世では何かをしましょう。——私が会う」


 一拍おいて、首相の顔つきが変わる。


「国王陛下、それには及びません」

「枢密院首相殿。あなたが考えておられることに、私は賛同できない」

「陛下。悠長な話ではありません。結果が必要な局面だとお分かりでしょう。口実はいくらでもある。いや、口実などではない。事実だ。処断するにこれほど心が痛まぬ相手も珍しい。ご丁寧に冊子まで拵えるほどの過激な共和主義者ですのでね」


 幾度となく繰り返されてきた王と首相の”意見の相違”を、ザヴィエは黙したまま見つめている。王が折れるときもあれば首相が折れるときもあるが、どちらかといえば王がゆずる方が多い。

 ただし、断固として貫き通すときもある。

 恐らく今回王は譲らない。主君の剣呑な瞳からザヴィエは確信した。


「処刑は無意味です。次が現れる。もっと過激で、もっと話の分からぬ者が」

「では、その者も処罰すればよいでしょう。何を恐れておられる」

「何を? できることをしないこと。それを私は恐れます」

「逆では? なにせ陛下は処刑をとおっしゃるのだからね」


 王は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。酒精混じりの、重たい息を。


「首相殿。話すことです。対話すること。まずそれがなされる必要がある」

「対話とはね! 対話ならさんざんしてきた。エランが…」


 手に握る酒杯を静かに脇の机に置くと、彼は静かに答えた。動かぬ岩のように。


「アキアヌ殿、あなたの息子は王ではない。王が対話する必要がある。——私が」

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