息子たち 2

 18期前半の中央大陸において最も先進的な教育が行われていた場所は、レムル半島の名だたる大学群でもなければサンテネリ国立のそれでもなかった。

 その学舎は意外なところ、サンテネリ王宮たる光の宮殿パール・ルミエの中心部たる王の茶室にこそあった。


 2年前からグロワス13世は、忙しい執務の合間を縫って週に一度、2時間ほどかけて子どもたちに講義を行っている。


 “王の授業“の生徒は3名。

 王太子グロワス、王子ロベル、そして王女メアリ・アンヌである。

 最年長15歳のメアリ・アンヌ。次に14歳のロベル、最後に13歳のグロワスと、それぞれ一歳差の集団は将来サンテネリ王国の政治中枢を担うことが明白な者たちだ。


「グロワス様、ちゃんと課題を読んできましたか?」


 王を待つ間、メアリ・アンヌが末の弟に声をかける。生真面目なその視線を受けて少年は目を泳がせた。


「一応…。でもねメリア姉様エネ・メリア。よく分からないところが多くて」

「本当に読まれたのなら、分からないところはお父様が説明してくださいます。本当に…」

「分かってるよ。本当にちゃんと読んだ。ほら!」


 グロワスは与えられた図書の該当頁を開いてみせる。そこにはところどころ、文章の下に線が引かれていた。分からない箇所には線を引いておくとよいという父の言葉を忠実に実行している。


「あら、偉いわ! グロワス様」


 メリアはにっこりと微笑み大袈裟に弟を褒める。姉の賞賛に喜んだグロワスは胸を張った。


「であろう。メアリ・アンヌ殿。——私は愚かな王だが、やることはやるのだ」

「もう! 調子に乗ってはいけません」


 父の口調を真似ておどける少年を軽くたしなめ、今度は隣に座るもう一人の弟に声をかける。


「ロベル様はどうです?」

「私も苦戦しました。難しい言葉が多いので」

「実を言えば同感です。お話の筋も複雑で混乱してしまいますね」

「でも、引き込まれます。これは…私たちが読んでもよいものなのでしょうか、メリア姉様エネ・メリア


 ロベルはその青い瞳を姉の視線と合わせ、躊躇いがちに尋ねる。


「私もお母様に見つかりそうになって慌てて隠しましたし、やっぱりよくないものなのでしょうね。ただ、ちゃんと内容が分かればきっと面白いはずだわ」


 最近あまり近寄りたくない父だが、この授業だけは別。

 メリアは扱われる主題の難解さに頭を悩ませながらも、毎回“新しい世界“を見せてくれるこの時間が好きだった。

 それは恐らくロベルも同様だろうが、グロワスは若干怪しい。彼女はそう推測していた。知能ではなく年齢の問題だ。

 そんな末弟に配慮してか、王の解説はいつも平易な例が用いられる。これは年長の彼女にとっても実はありがたい。


 例えば需要と供給。均衡価格。“新しい価値“の創出。会社組織の仕組み。銀行と株、債券。

 これら経済活動の基礎を、王は手を変え品を変え具体例を出して説明した。


 彼女が特に驚いたのは紙幣についてである。

 ただの紙幣ではない。きんと交換できない“ただの紙“が「信用」という無形の何かによって価値を持ちうるという話だ。

 それはとても印象深く、何やら騙されたような、しかし検討すれば筋が通っているような、不思議な感覚を少女にもたらした。

 弟たちも同様だったようで、彼女ら3人の間では一時期「私的通貨」の製造が流行った。両掌を広げたほどの紙を十字に切り、4枚の小片にする。そこに3人が自身の名を記し、一番上に「ルロワ紙幣」と飾り文字で書き込んだものである。

 残念なことに、ルロワの王子・王女がその“価値“を保証するこの紙幣には使い所がなかった。彼らには何かを買う必要がなかったからだ。彼らはのみである。

 それでも自作紙幣を使いたかった子どもたちは、自身が受けたへの見返りをその紙幣で支払うことにした。

 父への授業料——報酬——である。


 王は喜びと、ごく微かな苦味を噛み締めながら“お金“を受け取った。


「これはすごいお金だ。これがあれば何でも買えるね。——そうありたいものだ」と。


 子ども達が戯れに手作りした上質紙の欠片は、現状のサンテネリでは紙幣よりも国債に近い。

 残念なことに自身の名で発行されたそれはほとんど価値がつかないが、願わくば子の代のそれには価値がつくよう、王は心から願った。


 そして現在、授業は新たな段階に進んでいる。

 一つの冊子を一頁ずつ、一行ずつ深く掘り下げる精読である。


 王は子どもたちに課題となる冊子を手渡した。


 表紙に印刷された題字を一目見て、さっそくグロワス少年が顔を顰める。

 表情には見せないが、他の二人も同じ感想を持った。


 それは明らかにつまらなそうな本だ。

 書名からして正教の説教めいた退屈さを暗示している。


 ー『悪について』だなんて、面白くないに決まっている。


 子どもたちは意見の一致をみた。







 ◆







「陛下、ロベル様がとんでもない本をお持ちでしたのをご存知でいらっしゃいますか? もう、本当にどこから手に入れられたのかしら。…側仕えの者かもしれません。一度内務卿殿に調べていただいて…」


 王が部屋に入ってくるなり、椅子に腰を落ち着ける間もなくブラウネはまくし立てる。


「何があったのだ、ブラウネ殿。ロベル殿ももう年頃だから、艶本の一つや二つ持つこともあるだろう。繊細な話だからね。彼には私から話そうか?」


 息子に受け継がれたその見事な、透き通る青い瞳を煌めかせてブラウネはさらに言い募る。


「いいえ、そんなものではありません。艶本などであればも気にいたしません。もっとよろしくないものです」


 妻が勢いよく差し出した冊子に目を向けて、王は苦笑した。


「ああ、それか」

「それか、ではありません。陛下。光の宮殿にもあのおぞましいたちが潜んでいるかもしれないのですよ! ロベル様だけではありません。王太子様の元にさえ魔の手が…」

「ブラウネ殿、ブラウネ殿。落ち着かれよ。は潜んでなどいない。それをロベル殿に渡した者を共和主義者と呼ぶなら、その者は大手を振って宮殿中を闊歩している」

「まぁ!」


 両手を口に当てて長椅子に座り込む妻の姿を、王は半ば楽しげに眺めていた。


 齢40を超えてブラウネ妃は生来の華やかさに艶を加えた。豊満な肢体に紅い衣裳がよく似合う。髪の赤と合わせて、それは女の存在感を際立たせている。


 その雰囲気に比して、一方で彼女は徹頭徹尾だった。

 長男ロベルと、まだ10にも満たぬ妹フローリアを分厚く包み込む母。過保護の一歩手前といってよい。


 母の心配性な視線を受けて育ったロベルは寡黙に育った。母が何でも”察する”がゆえに口を開かないで済むからだ。

 その様子を危惧したグロワスはつとめて息子をブラウネから引き離し、王太子や他の兄弟と一緒にいる時間を増やすよう仕向けた。

 幸いなことにその試みは奏功し、今では言葉少なながらも、少年はある程度”自分を持つ”ようになった。特に歳下の王太子の前で兄として動かねばならない経験が少年を成長させた。年の離れた同母妹フローリア相手では得られない経験である。


「私が与えた。ロベル殿にもグロワス殿にもメアリ・アンヌ殿にも」

「陛下が?」

「とてもよい冊子だ。彼らには是非とも学ばせたい」

「まぁ! 神聖なルロワの王権を侮辱する、こんな穢らわしい本を! 陛下?」


 ブラウネとて夫のはよく知っている。

 だが、夫のように自我の確立した大人ならばまだしも、多感で影響を受けやすい年頃の少年少女には早すぎる。容易に引きずられてしまうだろう。彼女の心配は絶えない。


「お読みになったのかな? ブラウネ殿も」

「いいえ、とんでもないことですわ! そのような…」


 顔を背ける妻の仕草。感情の昂りが分かる。


「確かに過激な内容ではあるね。王権の侮辱というよりも否定に近い」

「ではなぜそのようなものを?」

「学んでおくべきだからだ。彼らは皆、否応なく未来のサンテネリを背負わざるをえない。そのような者達が、自身を否定する人々の存在から目を背けるのは一種の悪だろう」


 現状の理解が必要であることはブラウネも重々承知している。だが、その時期は今ではないはずだ。一歩間違えば、子ども達の心にそれはしまうだろう。


「ですが…グロワス様。その本の内容を真実であるとロベル様が信じ込んでしまう可能性もあります」

「あるいは真実かもしれない」


 ——こういう方なのだ。


 やり場のない徒労感が彼女の心内に芽生える。

 二人は二十年以上にわたり親しく交わってきた。口には出さずとも、夫は恐らくを真実だと思っている。思いながらその逆を行く役割を担い続けている。ブラウネはほぼ確信していた。

 だが、息子にはを受け継がせたくない。


「ロベル殿が共和主義者になってもよいとおっしゃるのですね?」

「私は息子を信じたい。彼は他者の様々な考えを知った上で、現実と折り合いをつけるだろう」

「——のように?」


 女の苛烈な視線がグロワス王を凝視する。しかし彼も引くことはなかった。


「ブラウネ殿。ブラウネ。分かってほしい。——今知れば、ロベル殿には思想を咀嚼する時間が与えられる。17、8で出会ったのでは遅い。知ってすぐに政治に携わるのは危険なのだ。だからといって目を逸らし続けることはできない。絶対に」


 その口ぶりからブラウネは鋭敏にを感じ取った。

 彼女は直感に優れる。加えて王を観察してきた歴史は誰よりも長い。


 身体が勝手に動き出す。

 ブラウネは数歩足を進め、夫の胸の中にゆっくり潜り込んだ。

 若い頃、ときめきと共に入ったそこに。

 歳を経て、安息と共に入ったそこに。

 とにかく夫に触れていたかった。包まれていたかった。


「ああ、ブラウネ殿。少し語気が強かったね。申し訳ない。怖がらせてしまったようだ」

「いいえ。グロワス様」


 突然の行動に戸惑いながらも、王は妻の頭を優しく抱いた。赤みを帯びた金の髪をゆっくり撫でた。滑らかに流れる豊かな糸を。


「深刻になられるな。”上手くやる”」

「そうしてくださいませ。は、いつも陛下を信じております」






 ◆






 王は”上手くやる”必要があった。


 先の見えぬ「二重戦争」は”王侯の遊戯”の範疇を完全に踏み超えている。

 これ以上は、より大きなものの力を借りねばならない。つまり国家であり、国民である。

 時勢は平民達の関心と支持を求める段階に至ろうとしていた。


 枢密院は制度に定めた平民参与の人数を大幅に拡大した。

 有力な商人や地主に加えて、勃興間もない工業資本家まで、めぼしい者を貪欲に取り込んでいる。

 彼らは会議での発言権を持たない傍観者に過ぎない。にもかかわらず、枢密院参与として相応の「貢献」を求められる。主に金銭面での。


 一見参加者に利するところのない地位だが、彼らには目に見えぬ強大な褒美が与えられていた。

 それは「情報」である。


 二重戦争の戦局から公共事業の将来構想に至るまで、枢密院で討議される内容は商機そのものといえた。

 例えば理工科学校の設立が検討されたとき、大きいものは校舎の建設から小さくは被服、食事まで、多種多様な需要が予想される。このような新しい事業に参画するためには政策決定権者と顔見知りである参与の方が、そうでない競争相手よりも圧倒的に有利なのだ。


 サンテネリは参与という役職と旧来の同業者組合——しばしば両者は極めて近しい存在であったが——を上手く使うことで何とか戦費を捻出してきた。

 同時に、国内の主立った商工業者たちに「当事者意識」を持たせることに成功した。

 古きよき”王侯の遊戯”たる戦争においては、王が勝とうが負けようが彼らには関わりのないことだったが、今や枢密院により無形の”特権的地位”を与えられ、囲い込まれた彼らにとって、サンテネリの敗北は自身の破滅と同義のものとなった。

 もしアングランやプロザンにサンテネリ王と政府が倒されることとなれば、彼らが現在占める市場も当然無事では済まない。自分たちの代わりにアングランやプロザンの商人達がやってくるであろうことは容易に想像できた。


 一方で負の影響も大きい。

 元々同業者組合による市場占有の割合が高かったサンテネリだが、現状に至り、国家と繋がりを持たぬ一個人が新規事業を立ち上げ、成長させることはもはや不可能に近い。

 政府と直結した一握りの大商人たちによる支配。

 自由競争は阻害され、工業商業問わず民間の新たな技術開発は停滞した。

 ゆえに、それも政府が担わなければならない。

 軍学校、理工科学校、土木学校、行政院。

 国立の高等単科学校が設立され、国庫から資金が投入される。


 特権的な資本家の市場寡占が生み出したものはもう一つある。

 それは平民階層における貧富の格差拡大である。

 サンテネリの社会が長く保持してきた社会階層——上層たる貴族、中間層にあたる平民資本家、地主、自作農、そして下層の労働者と小作人、最底辺の無産市民達——は、ただでさえ脆弱な中間層の解体により急激に変化しつつあった。

 中間層の平民達にとって道は二つしかない。国とつながり貴族に準ずる地位を得るか、つながれずに下層に流れていくか。


 没落した”学のある”集団は一つの核をなす。

 そして、戦争状態の混乱の中から”新しいもの”を求める人々も現れる。どこからでも。

 既得権者たる貴族の中においてさえ、現状の変革を求める者は一定数存在した。


 なんらかの変化が必要である。

 その意識は貴族平民を問わずサンテネリの知識階層の大勢を占めつつあった。

 では、どのように変わればよいのか。


 変化の見取り図が求められていた。

 それを示す者が。


 指導者コントゥールが。

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