息子たち 1
母后アナリゼと王太子グロワスが住む王妃居住区には簡易的な食事室が備わっている。公務明けに立ち寄った王は、妻と息子と三人で私的な夕食を取った。
顔を合わせることは比較的多いが、家族水入らずの場は週に一度あるかないか。
13歳の王太子は表面上無愛想ながらも隠しきれぬ喜びが語気ににじみ出る。
少年の容姿は両親の特徴を程よく受け継いでいる。
深い栗色の髪は母から、そして翠色の瞳は父から。
まだ背丈が大きく伸びる頃合いではないが、そう小柄な方でもない。とはいえ異母姉メアリ・アンヌと並べば頭一つ低いのだが。
ここ一年ほど、家族の会話に政治の話題が増えた。
少年は基本的な礼儀作法や正教の教育を終え、一歩踏み込んだ学びの世界に進もうとしている。中央大陸の地理と歴史、初等数学、語学、そして政治の初歩。
少年は愚鈍ではなかった。
人並みの知性と好奇心を持っていた。人見知りしない明るい性格に加えて、向こう見ずな感性は歳相応の域を少しだけ超えている。
それは恐らくこの時代において、明らかに異端ともいえる教育法ゆえだろう。
王は、子ども達を殴打することを教師達に許さなかった。
強く叱り理非を伝えるのはよいが、過剰な体罰はよろしくない、と。
幼い獣欲を抑え、
この点において王の中に議論の余地は存在しなかった。
18期の世界中どこを探しても、日常的な体罰を経ずに育った良家の子弟など彼ら王の子ども以外に存在しなかったであろう。
妃達は不安を口にした。
”教育”なくして獣欲を抑えることは果たして可能なのか、と。
王は妻達を安心させるというよりは、論敵を打ち破るように述べた。
”他者からの暴力によって抑え込まれる獣欲は、その他者が居なくなれば枷を解かれる。そして、長じた王の子ども達を打擲できる者などいない。だからこそ、他者の力を借りず自身の理性で抑え込まねばならない。”
理路整然とした言葉だ。いつものように。
だが、成長過程の子ども達の矢面に立つのは、結局のところ母たる彼女達である。
日に日に”生意気”になっていく息子、娘を抑えられるのは王しかいない。密やかな不満が積もった。
母同士で顔を合わせれば愚痴が始まることもある。
ただし、ここサンテネリにおいて夫の存在は絶対である。輪をかけて彼女達の夫は王なのだ。巨大な権勢を誇る妻達の実家を抑えることができるほどに”力”を持った王だ。
最終的に愚痴は愚痴で終わる。
それは王が最後の一線を守ったがゆえでもあろう。子ども達を叱るという役割を王は明確に担った。
「王太子殿、君の母上に対する態度はあまりよろしくないな」
「——申し訳ありません。父上」
静かな、だが有無を言わせぬ圧力を秘めた王の言葉に王太子は硬直し、のちに自身の”行きすぎ”に気づき謝罪する。
「あなたは母上を馬鹿にするが、それは偉大な振る舞いだろうか。あなたは帝国語を流暢に操れるのか? アングラン語は? どうだろうか」
王妃アナリゼがサンテネリで暮らして既に16年が経つ。そのサンテネリ語は読み書き会話の全てにおいてかなり流暢なものだ。
しかし、しゃべればやはり母語の抑揚がうっすら残る。サンテネリの複雑な概念語も理解できるが得意とは言いがたい。
息子が教師達から、あるいは重臣達から聞いてくる政治や経済のあれこれについては、そもそも内容自体を知らないことも多い。
王太子の発育は特段不可思議なものでもない。
少々賢しげな男児が一時期かかる”母を下に見る”仕草に過ぎない。父権、男権の強い中央大陸においては特にその傾向がある。
だから王子が調子に乗って「母上は何も分からないんです。ご自身のお国である帝国のことすら何も知らないのですから」と、殊更に彼女の抑揚を真似て父に告げたとき、当のアナリゼはそこまで怒りはしなかった。
自身が政治について詳しく知らないのは事実である。
そして、王太子は次代の王たる者として現状においても地位の上で自身と同格の存在だ。きつく叱ることもできなくはないが若干の支障はある。さらに、”母が言っても聞かない”時期が訪れていた。
マルセルの死を切っ掛けに職を辞した女官長フェリシアにも、義母たるマリエンヌ皇太后にも過去に言われている。
”男の子なんて生意気なほうがよい。そうなった後は父親の出番”だと。
繊細なガラス細工の少女だったアナリゼも母となってもう長い。少々のことは気にしなくなっていた。
——ここからは殿方の出番ですね。
食卓を挟んで、父親に窘められ俯く息子をアナリゼは横目に見ていた。
父が帰った後、きっと過度に甘えてくるだろう息子。最愛の息子を。
「軽率で、失礼でした。父上」
「私はね、グロワス。あなたの母上を尊敬している。——母上の度胸は私の比ではないぞ。彼女を”エストビルグ女”と罵った男に一向に動ぜず、優雅にも酒を注いでやったくらいだ。普段淑女の鑑の如き佇まいながら、そのようなとき誠にアナリゼ殿は王国正妃であられる。…その上、かくもお美しい」
父親の褒める”お美しい”母。父の横に座る母を上目遣いで伺い、少年は小さく呟いた。
「申し訳ありませんでした。母上」
「いいのです。グロワス殿。それよりも、今日なさったことをお父様にご報告なさいませ」
アナリゼの柔らかい笑みは、円熟を秘めながらもまだそのみずみずしさを十分に保っていた。
母に”許された”ことを確認した王子は勢い込んで顔を上げる。
「今日は何を習われた? 私にも教えてくれないか」
王もまた、それまでの硬直した空気を和らげるように、気さくに息子に問いかける。
「はい! 今日はですね、
◆
息子が寝室に下がった後、茶の間に移った夫婦の話題はやはり一粒種たる息子のことだった。
「兄弟二人、上手くやっているようだ」
「ええ、本当に。ロベル殿は思慮深いお方。王太子殿を導いてくださいます」
ロベルは王と側妃ブラウネの間に生まれた王子である。自身よりも一つ年長の彼を、少年は”エネ・ロベル”と呼んでよくともに遊んでいた。
彼ら王の息子達は母同士の関係性に習い、互いを堅苦しい肩書きで呼び合うことはない。
これもまた、グロワス13世の家庭が持つ特異性——より正確には異常性——を表している。
本来であれば後継序列を明確にするために、王の子ども達は幼時から呼び名でもはっきり区別を付けられる。
だが、王はそれを嫌った。
裏では、こればかりは危険と感じた妻達がそれぞれの子どもに内々に言い聞かせていた。
彼女達の実家は数百年の歴史を誇る名家ばかり。当然、兄弟骨肉の争いの歴史を知っている。また、それぞれ兄弟がいるため実体験もある程度持っている。
王はサンテネリの上流貴族にはごく稀な一人子ゆえに、兄弟の関係性がよく分からないのだろう。妻達はそう好意的に解釈していた。
「それにしても、アキアヌ殿も上手いな。『土地は細切れではなりません。まとめて耕してこそですぞ』とは。私も昔、もう遙か昔、彼に言われたよ。親子二代で同じ教えを授けられるとは」
「そうなのですか?」
「ああ、まだここに来て——ああ、まだ即位して一年も経たぬ頃だった。あの頃はやっかいな方だと思っていたが、今も変わらずやっかいだ」
王は少々早口に言い終えて手中の杯を傾ける。アナリゼは夫の姿をじっと見つめていた。昔と変わらぬ高貴な猫の瞳で。
「土地をまとめると何かまずいことがあるのでしょうか」
「まずいことはない。ただね。その細切れな土地には全て持ち主がいる。まとめるためには持ち主をどうにかする必要がある」
「それは…例のお話に関わることでしょうか」
「そのようだ。私も腹を括る必要がある。何しろ金がないのでね」
地方行政区の廃止と貴族への臨時所得課税。
四年目に突入した二重戦争の戦費は、もはや”先延ばし”が効かぬところまで国庫を侵していた。いつ終わるとも知れぬ不透明な戦況に国債も引き受け手がない。
枢密院で審議が進むこの二案は大商人たちを安心させ、より一層の”投資”を募るとともに、税という実収入確保を同時に行う。かなり劇的な変化である。
「あの子はまだ13です。ロベル殿は14。少々早すぎるのではありませんか?」
「もう13。もう14。私が居なくなれば王太子は枢密院を主催することになるね。13歳とはいえ、簡単に操り人形にできないほどには成長している。アキアヌ殿も道筋を付けておきたいのだろう」
「——グロワス様?」
内奥を探る妻の瞳に王はかぶりを振った。
「いや、私は健康そのものだ。だから例えばの話だよ。アキアヌ殿とて今すぐとは当然思っていまい。恐らく、将来ご子息がやりやすいようにだろう。彼も子どものための道造りだ」
大公の長子エランは父の補佐役として関係各所を飛び回る役柄ゆえ、王も頻繁に顔を合わせている。
「エラン殿はお父上に似ぬ実直さだね。フロイスブルのバルデル殿は父上譲りの実直さ。いずれにせよピエル殿もマルセル殿も立派にご子息を育てられた。本当に、偉業といっていい」
「太子殿も皆さんのようになれるでしょうか。——そして、陛下のように」
息子の幼さを思い返してアナリゼはふと不安を覚える。
ブラウネ妃の息子ロベルに比して、明るくはあるが思慮に欠ける。気分屋でもある。その上甘えん坊だ。
「気に病まれるな。まだ幼いが、もう少し歳がいけば私とぶつかるようになる。その時はむしろ、”母上の守護騎士”風を吹かすようになるぞ」
「殿方とはそのようなものでしょうか」
「ああ、そういうものだよ。幸い私は”超えやすい壁”だ。あの子は易々と乗り越えてくれるだろう」
夫の訳知り顔にアナリゼは半信半疑の体だった。グロワス13世は決して”超えやすい壁”などではないのだから。
「その時は、太子殿にしっかりと倒されてやってくださいませ。絡め手はいけません」
「ああ、ああ、痛いところを突かれたようだ。確かに私は正面からぶつかるのを避けるから。気をつけよう。——それにしても、我が妻は太子殿の味方か。同じグロワスなのに」
隣でからかう夫に合わせてアナリゼは顔を逸らし、
「わたくしはいつもグロワス様の御味方です。でも、お二人いらっしゃるなら、聞き分けがよい方のほうが好みですの」
「では今のところ私の味方だね。小グロワスは聞き分けが悪い」
「いいえ、互角でいらっしゃいますわ。大グロワス様は相変わらずお酒をたくさん召し上がって」
アナリゼは夫が葡萄酒三杯目に突入したのを見逃さなかった。だが、彼女にとってこの戯れ言じみた芝居が精一杯である。
「分かった。そうだね。ここは我慢しよう。あなたに御味方いただくためには仕方ない」
王は杯を目前の低机に置いた。
◆
”御味方”。
それこそが重大な意味を持つ時期である。
皇帝ゲルギュ5世の体調が優れない。
枢密院会議で先日話題に上ったそれは、グロワス13世の肩に背負わされた大きな重荷の一つだった。
皇帝は齢七十に近い。その死は十分ありうる。そうなったとき、エストビルグはいざ知らず、”帝国”がどうなるかは誰にも予想できない。
選帝諸侯の一角たるプロザンは現在エストビルグ、サンテネリと交戦中である。よって全会一致でエストビルグ新王の皇帝選出はありえない。次善の策として多数決による「承認」となるだろう。
他の候補者が存在しなければ。
しかし残念なことに、中央大陸にはもう一人、名目ならばぎりぎり立てられる候補が存在する。
サンテネリ王国王太子グロワスである。
彼の母アナリゼは皇帝の正妃子。グロワス13世との婚姻に際し自身のエストビルグ王位請求権は消失したものの、息子にそれは受け継がれる。
エストビルグに側妃腹とはいえ歴とした嫡出男子がいる以上、通常ならばありえない筋だが、権利の持ち主がサンテネリ王太子となると話は変わる。
例えばサンテネリとプロザンの電撃的な和解があり、その上でアナリゼの母アウグステの実家たるローテン・リンゲン公国あたりが賛成に回れば、名目は名目でなくなる。
戦況芳しからず、新大陸の領土を断念せざるをえない状況に追い込まれつつあるサンテネリにとって、何らかの”成果”が求められる局面。
現実問題として、サンテネリがエストビルグ王位ひいては皇帝位の請求を行うことはありえない。だが、それができるという事実には大きな意味がある。
プロザンとサンテネリによるシュトゥビルグ王国の分割であれ、その他小公国の併呑あるいは保護国化であれ、エストビルグ新王に譲歩を強いる口実になるのだ。
サンテネリ・エストビルグ・プロザンの三国協調が叶わぬ現状、帝国を草刈場にすることも視野に入れねばならない。
一方で、それを行えばエストビルグとプロザンの仲を取り持ってきた”調停者”サンテネリの国威は失墜するだろう。
未だ枢密院の議題には上がっていない。もっぱら首相、財務卿と王の三者で手探りの検討を続けている段階に過ぎない。
だが、可能性は常に存在した。
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