悪について 2
「ねぇ、ブルー。ジューのこと…」
「心配かい?」
ジュールが店を去った後、残ったブルノーは一人酒杯を傾けていた。対面の空いた席。そこを占めたのはドローテである。
彼女は結い上げた髪をほどき、葡萄酒を自身の杯に注ぐ。
「ジューはいい人だわ。それは分かるの。でも」
「大丈夫だよ。先生も見てくれているし、あいつもだいぶ変わった」
ドローテはなおも浮かぬ顔で、男の言葉に軽く頷きながら杯を傾けた。それが彼女の返事だ。
「飲んでしまっていいのか? まだ客も来るだろうに」
「来ないわよ。あんたがいるんだから」
ブルノーは小さく肩をすくめる。男の
二人がいい仲になってから、”フロールの店”は安全な場所になった。
ボスカル商会の坊ちゃんの女。つまるところ、そういうことだ。
商会は後ろ暗いところなどない歴とした
それは一つの明確な力であり、彼女の安全を保証するものだ。
「商売の邪魔をしたね。これは困った」
「もう。やめて、そういうの。それよりもジューのことよ。あんたたちが言うように、確かに国王陛下はお優しい方かもしれないけど、いつもそうとは限らないでしょう。当日たまたまご機嫌が悪いなんてことだってあるわ。お付きの人たちがどう思うかも」
「そういう心配はどこまでいってもあるよ。でも、僕が何を言ったところで、やりたいことを曲げるやつじゃないだろう」
ジュール青年の頑固さを知る彼は、余計なことを言ったところでどうにもならないことを理解していた。そして、青年の性格を熟知している先生——エリクス・ボルタが選んだのだから、あとは見守るだけだ。
「あんたも物好きだわ。私もジューのことは嫌いじゃない。いい人よ。暴れないし、ちゃんとお金も払う。女への礼儀も知っている。でも、心中したいかと言われればそれは違う」
「うれしいな。——実は僕はいつも怯えてるんだ。いつか君がジューに心奪われてしまうんじゃないかって」
本気で心配してはいない。そう彼女に印象づけるべくブルノーは大仰に両手を広げた。
「それはないわ。確かに彼は綺麗だし高貴な感じがする。でも、あんたみたいな”男らしさ”はない。——時々思うの。なんであんたが彼と
ドローテの言う”男らしさ”とはつまり、彼女を保護する断固とした力である。金であれ、よりむき出しの力であれ。ブルノーは確かにそれを持っている。そして未来も明るい。
にもかかわらず、お利口ではあるがいつ階段を踏み外して転落してもおかしくないジュールに肩入れする。
ジュールには他人を圧する”空気”がある。あるいはそれに飲まれているのではないか。
男の世界のくだらない関係性を女であるドローテは理解できない。
「ドローテ。君は心配してるね。僕がジューに惹かれているんじゃないかって。確かにそれはある。あいつは凄いやつだ。認めるよ」
「お利口なんでしょ? それは聞いたから分かるわ。ボルタ先生のお墨付きで、卒業したらシュトロワの付帯法院所属なんだから」
ジュールは頭が良いとブルノーは言う。
給仕の合間に二人が話し込んでいる様を見ていても、熱を込めて小難しい台詞を言い放っているのはいつもジュールだ。ブルノーはといえば、まるで一生徒のように歳下の青年の語りに聞き入っていた。
だが、それがなんだというのだ。シュトロワの付帯法院に所属し弁護士となり判事となる。それは確かに凄いことだが、サンテネリ中に支店を広げる大店の息子が持つ”力”とは比べものにならない。
「ああ、うん。ジューは賢い。分かりやすい。だがねドローテ。僕が彼に絆されるのはそこじゃないんだ。あいつは旧市に住んでる。そこだ」
「旧市? それがどうかしたの。お金がないだけでしょうに」
「確かに裕福とは言いがたいだろう。でも考えてごらん。ジューは貴族だ。僕が彼と初めて出会ったとき、彼が旧市に住んでいると聞いて内心鼻で笑ったよ。時々いるだろう。そういうやつ」
「そうなの? 知らないわよ、そんなの」
肩まで下ろした髪をかき上げる少女の姿は、まさにこの瞬間にのみ許される傲岸さに溢れている。だからブルノーは彼女のその仕草が好きだった。
「いるんだよ。僕のような金持ちの小僧がかぶれてね。そして1ヶ月と保たずに新市に逃げ帰ってくる。”民のために”とかそういうご高説はすっかり影を潜める。何人か見たよ」
「へぇ。面白いところね、グロワス9世校。何を好んでそんな馬鹿なこと。神様から幸せな”物語”を与えられたのに、それが不満だなんて」
「ああ、面白い。で、ジューは2年、旧市に住んでる。何度か家に行ったこともあるけど、道中はお上品なドローテお嬢様をお連れするなんてとてもできない雰囲気だよ」
「あたし? あたしはこう見えて結構肝が据わってるの。知ってるでしょう?」
「それも知ってる。でも、お嬢様は道ばたに人の壁が出来てるのを見たことあるかい?」
「壁? あるに決まって…」
ブルノーは笑顔とも泣き顔ともつかない不思議な表情を見せた。
「違う違う。立ってるやつじゃない。積み上がってるんだ。横に」
「横?」
「死体だ。聞いたところ、週に一度収集人が来る。それまでは積上げておくそうだ。通行の邪魔になるから」
ドローテとて行き倒れを見たことはあるが、新市では一晩経てば「処理」される。一週間も放置されることはない。
「酒が不味くなるからこれ以上は言わないが、とにかくそんなところでジューは2年、平然と暮らしてる。治安がいいわけがない。そこで暮らせるということは、つまりどういうことか分かるだろう。周囲の住人に好かれてるか、住人を従えてるか、どっちかだ。いずれにしても普通じゃない」
ブルノーは自分で言いながら、改めて友の美点を思った。
皮肉なことに、ジュール・レスパンはまことにジュール・エン・レスパンであった。つまり貴族であった。
彼は断固たる観念主義者である。
どんなときも現実より理想を重んじる。それはまさに彼が嫌悪して止まない出自の、それも極度に純化された姿だ。
そして、自身の理想を言葉にする術を持つ。
我々の生きる世界はこうあるべきだと、理を以て説得する力がある。
一方で、彼は現実を知らなかった。
ジュールは他者を自身と同じく純粋な存在と認識している節がある。日々の生活に頭を悩ませる人々が、概念の世界に生きる彼と同様の意識を持っていると。
実際のところ、現実の世界はそれほどに理屈ばったものではない。
ブルノーは最底辺に生きる人々のことを知るわけではない。彼はどこから見ても上層市民である。しかし、中位の、あるいは下層の人々ならば知っている。そして貴族の世界もほんの少し。
分かりやすい悲劇に心から涙しながら、一方で自身の利益のために他者を悲劇に突き落とす。博愛と利己主義と義憤と卑怯が一体になった人々の群れを、彼は幼時から見つめてきた。
家業が否応なく与えた環境の中で、彼もまた現実主義者になった。
日々起こる大波小波をなんとか乗り切ることが人生であると理解していた。
だが、物足りなさを感じる瞬間がある。
恐らくそれはジュールと知り合うことがなければ生まれなかった感情だ。
偉大なこと。
ジュールがよく口にする言葉だ。
それはつまり、この世界から
しかしジュールは本気だ。
彼は少なくとも2年旧市に住み、そこでなんとかやっている。
地域の子ども——時には浮浪児にまで——に文字を教えては親たちともめる。貴重な労働力たる子どもに無駄なお遊びの時間を与える青年は明らかにやっかいものだった。袋だたきにされたこともある。逆に撃退したこともある。説得したこともある。
故なく住民を攫おうとする警官の横暴に立ち向かったこともあった。
旧市はシュトロワの汚点である。
そこに住む人々は怠惰という悪徳の子であるから、国が彼らをより有効に使う——つまりは苦役の類いだ——ことはある種の善行、福祉とさえみなされていた。
運悪く人さらいに出くわした男たちは、難癖としかいいようのない罪状を突きつけられて連行されていく。
だが、人さらい達にとって運が悪いことに、その場にジュールが居合わせた。
彼はその物腰と弁舌から当然のごとく貴族様と勘違いされた。
警官達の言い草を過分に攻撃的に論破しつつ傲然と立ち塞がるジュールの姿を見て、彼らはあっさりと引き下がった。貴族様と揉めれば、その場はよくても後で何が起こるか分からない。面倒ごとが起こる地区に長居するよりも河岸を変えた方が楽なのだ。
結果、彼は住民達に受け入れられることになった。
”お優しい貴族様”として。
ブルノーに事の顛末を語るジュールの口ぶりは悲憤慷慨を隠さなかった。
自身が「不当」に扱われていることに対して。つまり、彼が”貴族様”であり、”貴族様”であるがゆえに人々を救いえたことは不正であると。
見方を変えれば一個のささやかな英雄譚ともいえるこの出来事は、ジュールにとっては自説を補強するための取るに足らぬ挿話に過ぎなかった。その後彼は長々と、この世界に存在する「不正」が不正であることの観念的論証を続けた。
新市はいざ知らず、旧市のさらに場末となれば、警官など名ばかりのごろつきが跋扈する世界であることはブルノーにも分かっている。警邏の名の下に確固とした後ろ盾を持たない無産の人々を殺めるのも日常茶飯事だ。
ジュールは自覚せぬままに命の危険を冒していた。
官製ごろつきたちの誰か一人が決意すれば、彼もまた街路脇に積上げられた壁の一部となっていたかもしれないのだ。
友の身を案じ、その危険性を伝えたブルノーに対してジュールが返した言葉は、彼の脳裏に忘れがたく残っている。
「それで死ぬのならば仕方がない」
何が仕方ないのかと気色ばむブルノーにジュールは平然と言い返した。
「
半ば狂っている。
だが、ひょっとするとこの狂人は人類にとってこの上もなく貴重な存在なのではないか。そんな馬鹿げた発想がブルノーを捉えた。
放っておけば遠からずジュールは死ぬだろう。この天然の貴石は粉々に砕け散ってしまう。
では、そうならぬように守らなければならない。
この原石が貴石かくず石かは磨いてみなければ分からない。だが、もし貴石ならば、自分もまた”偉大なこと”を成し遂げることになる。
類い希なる宝石を守り抜くという。
そう思った。
「ねえドローテ、ジューは凄いやつだ。僕達とは違うよ。あいつは必ず”偉大なこと”を成し遂げるんだ」
ブルノーはその愛嬌を感じさせる丸い目を瞬かせて、女にそう言い切った。
「”偉大なこと”! 本当にもう。殿方はその言葉が大好きでいらっしゃいますのね」
女はこれ見よがしにしなを作り、皮肉交じりに返す。
本心をぶつけるわけにはいかないが気持ちの一部でも分かって欲しい。そんな彼女なりの処世術だ。
「馬鹿者に見えるかい? でもね、ぼくも男だ。このまま君と楽しく飲んで暮らして死ぬのも悪くない。だけど、不幸なことに、ぼくの側にはジューがいる」
「つまりそういうことでしょ。あてられてるのよ」
「そう見えるだろうね。ただドローテ、僕はちょっとだけ異を唱えたいね。ぼくはジューの後ろを着いていきたいわけじゃない」
先刻まで弛緩していた男の頬が俄に引き締まる様を見て、ドローテはここが最も大切なところなのだと理解した。そして、ここを鼻で笑ってしまえば、二人の関係が終わりを迎えるであろうことも。
「ぼくはね、ドローテ。ジューを守ってやりたい。その能力を僕は持ってる。それが多分僕の”物語”なんだ」
「分かったわよ。理解したわ。——ところでボスカル学士様? あなたの”物語”の中には、哀れな酒場の娘を守ってやる、そんなお話も含まれていらっしゃらない?」
ブルノーの大きな手を少女の人差し指が軽く撫でた。極言してしまえば、彼女が聞きたいことはこの一事に尽きる。
「もちろん入っている。入っているよ、フロール令嬢殿。前に話したとおり、僕の登録する付帯法院はリーユだ。向こうにうちの支店があるからね。
「ねぇ学士様…フロールのお店もね、リーユに支店を出したいわ」
彼女はブルノーについて行くことに決めたのだ。
正式な婚姻となるかは分からない。家の規模が違いすぎる。だが幸いなことにブルノーは長男ではない。まずは愛人からだが、じきに側妻になれるかもしれない。彼の自分に対する慕情を見る限りその可能性は十分ある。
ドローテはそう読み、賭けることにした。
「それはいい! その気になってくれたか。これでジューに取られる心配がなくなるね。今晩はぐっすり眠れそうだよ」
ブルーは本気で心配していたのだ。自分がいくら否定してもずっと不安を抱えていた。
途端に目の前の男が可愛く思えてくる。愛おしく感じる。
彼は自分がジュールに強く惹かれているがゆえに、他人も同じだと思うのだろう。
でも、そうじゃない女もいる。特に男女の仲においては。それを彼に伝えたい。
ドローテは満面の笑顔と共に男の手を握りしめた。
「両親にはお話してくださる?」
「当然だよ。日を改めて伺おう。かならず」
◆
”
だが、研究者の間では状況は大きく異なる。
第19期から20期にかけて、社会が彼についての研究を切実に要請したこともあり、その名は不動のものとなった。
18期を専門とする歴史家は当然として、社会工学や政治学の専門家達にとっても彼は大人気の研究対象でありつづけている。
ブルノーはその長く困難な活動の対価として、歴史の中に一つの名を刻んだ。
彼はこう呼ばれている。
”
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