悪について 3

 正教新暦1716年9月10日


 霧雨が降り続く中、グロワス9世校の手狭な中庭には、大学の管理者たる学監を筆頭に各講座の担当教授、そして今年学位を授与されることとなる50名ほどの学生が主賓の到着を待ち構えていた。


 極小の雨粒が外套生地の編み目から浸透する。いっそ豪雨を浴びた方がかえって爽快といえるだろう。

 彼らは1時間ほど、所在なげに中庭に佇んだ。

 集団行動の機会も格式張った空気もほぼ存在しないこの学問の府において、それは年に一度の異常事である。しかし、このな儀式こそが彼らに権威を与えるのだ。教授達にとっても学生達にとっても、それは社会における自身の評価そのものだ。

 王の臨席のもと、学位を授けられることは。


 サンテネリの主要都市にある王立大学の中でも、このグロワス9世校は最上の格式と評判を得ている。その名は国内に留まらず、レムル半島の絢爛たる大学群と伍する世評を誇った。


 中央大陸における大学は本来公的な機関ではない。

 学問を趣味とする個人が互いに知己を得て集団化し、各自の研究分野を他者に伝え合うという、一種の意見交換会がその興りである。特にレムル半島の諸都市に存在する大学群は当代においてもその色を強く残し、施設も運営資金も私的な寄付を基盤とする。都市の有力市民達にとって大学は誇りであり、その運営の一端を担うことはこの上ない名誉とされた。よって大学はに事欠かない。定期的に行われる膨大な資金流入はもはや市のといってもおかしくないほどであった。


 一方で、グロワス7世のレムル半島北部侵攻によりその大学文化を吸収したサンテネリにおいては、その設立には王が関わっている。短い在位期間をこれといった業績を残すことなく終えたグロワス9世が唯一残したものがサンテネリ最古の大学、グロワス9世校である。


 卒業生の多くがそのまま市の運営を司る政治家となるレムル半島の大学群と異なり、サンテネリの王立大学群はより実務的であった。政治が血統に基盤を持つ貴族によって占められるサンテネリでは、卒業生が政治家として大成する道はない。彼らは各種の実務官僚、あるいは法曹、あるいは研究の世界に進んだ。

 運営面においても王の、つまり国家の大学であることの影響は大きい。

 各大学を管理する学監は歴とした国家の役人である。そして、各講座を担当する教授達もまた、国の豊富な資金の恩恵を受けて非常な好待遇と年金を受ける。後発の存在であったサンテネリの大学群がその地位を高めた原因の一つは明らかに有力な研究者の招聘にあり、彼らが学問の中心地たるレムル半島を出て、あえて”不毛の地”に赴いたのはその待遇によるものだ。


 国家の管理とレムル半島由来の教授達の講座。この混交はサンテネリの大学群に複雑な校風をもたらした。権威主義と自由。対立し合うこの二つが奇妙な両立を見せる。


 この日行われる学位授与式は、前者の結晶体ともいえるものであった。






 ◆






 グロワス9世校の建物は中央の庭をぐるりと3階建の校舎が四角く取り囲む、少々古い建築様式をもつ。

 街路に面した正面棟の一階部分に正門が設置されている。


 先触れの騎兵が開け放たれた巨大な扉をくぐり、中庭に滑り込んできたのはちょうど13時。

 間を置かず、数台の馬車が雨霧にけぶる中庭に姿を現す。


 そのうちの一台。

 白く塗られた車体のそれは、良好とはいいがたい視界の中にもよく映えた。

 雨ざらしで立ちすくんでいた人々が三々五々、列を成して二手に分かれる。筋も間隔も揃わぬその様は、彼らが生きる日常の世界を色濃く反映していた。

 慣れていないのだ。


 中央玄関の正面に止まった白い馬車から、まず男が降りてきた。

 中背を黒い外套で覆い、頭を付属の頭巾で隠している。

 そしてもう一人、女が降りてきた。群青の外套を纏い、その手には白く輝く傘を開いて。

 女は男に手を取られ、馬車の昇降台を降りる。


 男は女の手を取ったまま、無言で学生達の隊列の間を玄関に向けて歩いて行く。

 そして二人は室内に消えた。


 小一時間の雨ざらしの対価はあまりにも呆気ないものだった。

 しかし、これこそが儀式である。

 学監を始め、教授達も学生もそれを理解している。

 これこそが”力”なのだ。


 だからこの出迎えの儀式の最後に用意された一幕は、彼らの予想を裏切った。


 男が足早に戻ってきたのだ。

 彼は外套の頭巾を取り払い、その金の髪を、素顔を、雨に濡れるに任せていた。


 彼は人々の列の中央まで歩を進めると周囲を見渡しながら語り出した。格別の大音声ではない。だが、四方を建物に囲まれた中庭にそれはよく響いた。


「サンテネリ一の知恵者達! 我が国の偉大なる頭脳が集う地にお招きいただいたこと、感謝に堪えない」


 それは演説ではなかった。むしろ早口とさえいえる。にもかかわらず、男の低い声は緩慢に、重く響いた。


「そして、この悪天の中、私を出迎えてくれた諸君の真心を私は受け取った」


 明らかに異例のこと。代表者たる学監とて反応に困るほどに。


「みなさん、この寒い中お疲れだろう。この儀礼は確かに素晴らしく、私は喜んだ。だが一方で心配もある。皆の身体が。あなたがたはまさに値千金の存在。風邪でも引かれたらそれは国家の損失になる。つまり私のせいで。——枢密院でつるし上げられてしまうよ」


 男は冗談めかしてそう告げたが、笑いは起きなかった。男だけが少し寂しそうに笑った。


 言葉が止まる。

 やがて、気を取り直して、そんな風情で再び口を開く。


「だから私のために、今後はこの偉大で美しい儀式は止めにしよう。学位授与式においては、迎えるのが私であれ代理の者であれ、私の子孫であれ誰であれ、諸君は室内で待たれよ。そうあるべきだ。——さぁ諸君、中に入って身体を温めてくれ。酒が…ああ、酒はよろしくないな。お茶を飲まれるとよい。さぁ、皆、入ろう」


 男は右手を大きく掲げ、空気を攫うように玄関を指し示す。

 そして数度、手招きを繰り返しながら人々を導いた。


 男たちは、一様に戸惑いながら男の指示に従った。


 つまるところ、それが彼であった。

 サンテネリ国王グロワス13世である。






 ◆






 王の姿を財務卿ガイユール公爵は玄関口から無言で眺めていた。


 サンテネリ枢密院は来年度より、このグロワス9世校に現状存在する神学科と人文学科に加えて、新しく理工科の設置を決定していた。基礎自然学と応用工学の専門家育成をデルロワズ家領の工学校から移管し、国家の管理下に置く。そしてゆくゆくは理工科学校として独立させる。

 そのための現地視察を兼ねた随行である。


 ——よろしくないな。

 口には出さねど、その険しい表情が雄弁に心内を物語る。


 その行動は王の立場を切り崩すものだ。

 非合理で無意味な行為を敢えてなさしめることこそが王の権威である。一度ではない。何度も何度も繰り返し行わせることで、その存在は神格化される。

 それこそが儀式の目的なのだ。


 にもかかわらず、王はそれをいとも簡単に止めさせる。

 王がここで「無意味だから即刻廃止せよ」とでも叫んでいれば、それはそれでよかった。どれほどに歴史と格式を誇る行事といえども王の一言で中止に追いやられる。その様はまさに権威の表れだからだ。


 だが、王は何度もこの儀礼の素晴らしさを口にした。そして感謝を述べた。

 今回の行事を企画運営した者達への明らかな配慮である。

 その上で、今後は行わないように明確に告げた。ご丁寧に理由まで添えて。


 やっかいなのは、王が儀礼の意味を十分に理解しているところだ。知らないのならば教えれば済む。だが王は分かっていて、あえてそうしている。


 ザヴィエの懸念が向かう先はグロワス王ではない。

 についてである。

 グロワス13世はだろう。それだけの政治力を持っている。巷間の評判に反して、政権の中枢に関わる人間の中で王を軽視する者は一人もいない。


 王は微調整に長けている。

 やり過ぎは戻し、足りなければ少し進める。

 先日枢密院で可決されたバロワ家の侯爵昇叙と当主ヴァンサンの元帥任命などはまさにそれだ。

 デルロワズの軍権独占に明確な楔を打った。

 誰も反対できない形で。


 ヴァンサンの娘メアリは王妃であり、子が生まれれば国母となる。その実家たるバロワ家は旧来の近衛を手放したのだから、王の義理の実家として相応の格式が与えられるのは当然のこと。そして、ヴァンサンの元帥就任もまた引退間近な義父への贈り物である。一連のバロワ家優遇に反対する可能性が最も高いデルロワズ公自身がバロワの娘を妻に迎えている。

 王はバロワ家の侯爵位に格別の満足を示したが、恐らく真の目的は元帥杖の方だろうとザヴィエは読んでいた。

 ヴァンサンの引退後はまた何らかの口実を見つけ出しての元帥を置き続ける可能性が高い。

 王は”やり過ぎ”を回収した。


 これらの行動を側でつぶさに見る枢密院閣僚達にとって、王は明確な「対手」であった。神輿ではありえない。彼の意向を考慮に入れねば物事は動かない。

 だから、グロワス13世の治世においては権威を殊更に見せつける儀礼の廃止は問題にならない。本人が”力”を持っているのだから。


 問題は次だ。

 次の王が自身の才覚でそれをなし得る保証はない。

 恐らく王は枢密院の枠組みに次の王の身を委ねようとしている。

 だが、それが十全に機能するかは未知数だ。今、枢密院が曲がりなりにも国政の最高機関たりうる理由は王の調整力ゆえなのだから。


「財務卿殿、なにかございました?」


 いつのまにか隣に立つ娘にザヴィエは微笑みかけた。


「いいえ、王妃様。——それよりも、お寒くはございませんか? まだ9月というのに今日は冷えます」


 外套を脱いだゾフィは深い臙脂えんじの貫頭衣を腰帯で絞り、肩からルロワ紋が散らされた白い大判布カルールを纏っている。

 巷では彼女の代名詞ともなった男性意匠の上着だが、今日は身につけていない。グロワス9世校の学位授与式は重要性は低いが歴とした公式行事である。王妃はサンテネリ伝統の装束を身に纏うのが習わしだ。


「大丈夫です、財務卿殿。私よりも陛下のお身体が心配です。あのように雨に打たれて…」

「左様ですな。王妃様からお話になってはいかがでしょう。陛下がご自愛くださいますように。我ら臣下一同の願いでございます」

「そういたします。我ら妃一同の望みでもありますから」


 ゾフィ妃の瞳には、かつて満ちた闊達さに加えて柔らかな重みが加わっていた。


「ところで、本日は陛下よりお誘いを?」

「はい。私がこのような場に興味を持っていることを陛下は覚えていてくださいました」


 ザヴィエは娘の返答に過去の記憶を掘り起こされる。

 彼は娘を幼い頃から様々な会合や講義に同席させてきた。どんな対象に対しても興味を向ける好奇心旺盛な娘。

 視察に訪れた織機工場で身を乗り出して機械の仕組みを聞く。漁港では漁のやり方を、農地では播種の手順を、彼女は目を輝かせて聞いた。


「なるほど。ゾフィ妃様は幼時より類い希な好奇心をお持ちでいらっしゃった」

「私の志向を支えてくださったガイユール大公殿のおかげです」


 人前ゆえの堅苦しい言葉遣いを面白がってゾフィは明るい笑顔を見せた。

 霧雨がもたらす薄暗さの中で。


 実際のところ、今回のゾフィの公務は他の妃達の事情もあって決まったものだ。

 正妃アナリゼは王と皇帝の会見に先立つ帝国諸侯の訪問を捌くことに時間をとられている。側妃メアリは身重である。

 そしてここ数週間、側妃ブラウネは調であった。


「陛下! そんなに濡れてしまわれて!」


 足早に玄関に戻ってきた夫をゾフィが出迎える。

 数人の側仕えに外套を剥ぎ取られながら、グロワス王はあちらこちらといそがしく語りかけた。


「ああ、皆、ありがとう。何か拭くものは…すまない。——ゾフィ殿、あなたは濡れなかったか? 今日は寒い。風邪を引くとよくない。…財務卿殿もお待たせしてしまった。さぁ、皆、行こう。どこかくつろげるところへ」







 ◆






「つまり、あの人が王だ」


 王の招きに従い校舎に向かう道すがら、ジュールは隣を歩くブルノーに語りかけた。


「僕は国王陛下を…初めて見た」


 ブルノーがぽつりと、会話ともいえぬつぶやきを返す。

 ジュールはそれを聞いて満足げに何度も首肯する。素晴らしい友人を別の知己に紹介し、好評を得たときのように。


「すごい人だ。彼は本心から俺たちの身を案じている。先生も言っていたが、あの人の言葉も行動も、装いの中に真情がある」


 友の言葉にブルノーは応えなかった。

 彼は実家の仕事柄、貴族達とそこそこの面識がある。さらにいえば隣を歩く愛すべき問題児ジュールとて貴族の出だ。

 だが、自身がこれまで出会ってきた貴族達と、王は明らかに違う。

 王は自然体だ。

 繕いも警戒も推し量りもない。ただありのままにそこに居る。

 そう在ることが許される唯一の存在なのだ。

 ブルノーはそう思った。どれほど事実と反しようとも、彼は感じたのだ。


「あれが、僕達の国王陛下なんだね…」

「そうだ。——本当に残念なことに」


 残念なこと。それもまた真情であった。






 ◆






 グロワス9世校の学舎の中で最も大きい部屋。学生達はそこを大講堂アンテアトルと呼ぶが正式な名称ではない。

 演台や備え付けの座席もない、約100人を収容できる広間。


 無骨な空間には精一杯の装飾が施されたが貧相は隠しきれない。

 急遽部屋の奥に設置された貴賓席は、ようするに学内で最も豪華そうに見える羅紗張りの椅子に過ぎない。

 中央背面にはルロワ王朝の紋章たる大蛇紋と、交差した筆記具の上に意匠化された王冠が描かれたグロワス9世校の校章が掲示されている。


 ジュールはブルノーと並んで最前列に陣取った。

 彼はこの催しのもう一方の主役である。


 対面を左を占めるのは王妃ゾフィ・エン・ルロワと財務卿ガイユール大公。右には学監と有力な教授達が並んだ。ジュール達の指導教授たる”先生”エリクス・ポルタの姿もある。


 学監による開会の辞はすぐに終わった。

 王への賛美とグロワス9世校の歴史が過不足なく綴られた定型文である。

 自身も含めてほとんどのものが聞き流した。

 大学においては教授も学生達も一個の自由人である。学生達は教授の講座に登録するために籍をおいているのであり、大学自体の管理に従う意識は薄い。


 彼らが聞きたかったのは、のものでもなかった。

 そこでもまた定型文が繰り出されるであろうことは分かりきっていたからだ。

 退屈を態度に表すことこそないものの、その視線は雄弁に物語っていた。彼らにとって、あるいは教授達にとってもそれは物見遊山である。

 普段見ることが出来ない貴顕、つまり王や王妃、財務卿の実物を見ることが楽しみの一つなのだ。

 求められるのはあくまでもその存在であり「中身」ではない。


 だから王が即席の演台に向かったとき、その後の演説に意識を向けた人間は会場内にしかいなかった。


 王は演台の後ろに立ち、部屋の大方を埋めた着座の学生達に目を向ける。そして手に持った原稿とおぼしき数枚の紙を台上に置いた。


 ゆっくりと彼は演台を離れ、聴衆の前に立つ。遮るものもなく。徒手で。


 王は語り始めた。


「サンテネリの誇る学士諸君。私は諸君の研鑽と前途に、まずは祝福を与えたい」


 簡潔で平板な言葉。

 サンテネリでは好まれぬ、単調な言葉。


「その上で、諸君の学びとその証が、我らの日常になんら価値を持たぬ、無意味なものであることを示そう。諸君がここで研究を深めたものはつまり、この世界とは何かという問いへの回答であり、人はどう生きるべきかという問いへの多種多様な答えであろう。だが、我々の生には必要ないものだ」


 あまりにも痛烈な言葉に、会場はを押し殺した雰囲気が充満する。

 学監の目は限界まで見開かれている。自身の失職を予感して。学生達の間には剣呑な空気が流れ出す。だが、だれも何も言わない。

 演者はサンテネリの王なのだ。


 平然と、むしろ興味深く耳を傾けていたのはジュールと、そしてゾフィだった。彼女は理解している。王の演説はと。

 常に”次”があることを彼女は知っている。ガイユール館の演説を特等席で聞いた彼女は。


「みなさんのほとんどは今後、法の道に進む。あるいは国家を支えるべく吏人りじんとなる。そこでみなさんは、ここで学んだことのほんのを使って大業を成すだろう。例えば論理学。鮮やかな弁舌で法廷を沸かす。あるいは算術。税の計算を支える神業だ。だが、みなさんが”本当に学んだもの”は省みられることはない」


 王は一言一言、床の絨毯を踏みしめていく。左に。右に。まるで全ての学生の顔を視線の舌でなめ回すかのように。


「この世界の成り立ち。神の存在証明。人間理性の構造。あるいは歴史の法則。全ては無意味だ。私も昔勉強したのでね。身を以て知っているよ」


 王が人文学を学んだなど聞いたこともない。

 それは陳腐で滑稽な虚勢。教授達の鼻白む姿は分かりやすかった。

 ただ一人、エリクス・ボルタ教授を除いて。


「我々の生きる世界は以上のものを全て必要としない。それは作物を産まず、金貨を産まず、勝利を産まない。残念だと思うだろうか。しかし皆、薄々感じているのではないか? あなた方が学んだことは、せいぜい貴族達の夜会で面白おかしく脚色して”大学者”の評判を得るための衣裳に過ぎないことを。うれしいことに、”大学者様”方に自身の夜会に来て欲しいと願う高貴な方々は多い。結構なことだ。そして諸君は内心に侮蔑を秘めながら、彼らを満足させる子供だましを続ける。——それがあなた方の栄達だ」


 言葉を切った。

 これほどに痛烈で、かつ攻撃的な事実の開陳は存在しないだろう。


「さて、その上で、私は改めて諸君を祝福したい。諸君は我が国の宝だと、声を大にして言う」


 ここからが本番と感じ取り両手を握りしめ身を乗り出す娘の姿を、隣に座る父ザヴィエは苦笑交じりに観察していた。

 この娘にとってグロワス王は本当に似合いの相手だ、と。


「なぜか。それを伝えよう。私はそのために来た。——それはつまり、あなた方が学び、研究した諸々は我々の未来そのものだからだ。あなた方が現在打ち立てた思想はゆっくりと、石に染みこむ水のように広がり、50年後、100年後には我が国の”常識”になる。それは素晴らしいことではないか? あなた方が作りあげる諸々の体系は未来永劫生き続け、我が国を、あるいは中央大陸をすら繁栄に導く。それは”偉大なこと”ではないか?」


 ジュールは唇を強く噛みしめる。

 出来ることならば同意を高らかに示したい。だが、持てる理性を総動員して青年は衝動を抑え込んだ。


「思想は時代を超える。それは素晴らしいことではないか? 我々ががんじがらめになっている社会そのものを超克する。乗り越える。我々人間オンに与えられた最上のものだ。それはおよそ人間オンになし得る最も偉大なことではないか? 諸君は誇られよ。残念ながら今生利益は得られないだろう。だが、あなた方の存在は歴史にその名を刻む。いや、違うな。あなた方は50年後のサンテネリを創始するのだ。我がルロワの始祖が、今日ご足労頂いたガイユール殿などと共にこの国を作りあげたように」


 息を飲む音が聞こえる。つばを飲み下す音がする。かすかなうめきすらも。それら全て、密やかな興奮に包まれながらブルノーは隣席の青年を見た。


 ジュール・レスパンは口をへの字に曲げ、何かを一心にこらえている。

 その瞳は王を捉えて放さない。


「つまり、諸君は思想の世界の王だ。王ならばこそ、50年後、100年後のサンテネリをよりよく導いて欲しい。現在の王として、諸君に伏して願う」


 抑揚はなかった。平坦な言葉は平坦に終わった。

 王はそのまま演台の後ろに戻った。


 幾ばくかの疲れが見える。

 だが、過剰に輝く両の翠眼が聴衆を睥睨していた。






 ◆






 第21期初頭、アングラン南部の農村で一つの古びた鞄が発見された。

 納屋にしまい込まれ埃をかぶった革張りの鞄。家を処分するために屋内をかたづけている最中、家主が発見したという。

 鍵が掛けられていたために解錠は力尽くのものとなった。


 鞄の中は巨大な書類の束だった。

 サンテネリ語で余白なく埋められた紙片の運命は二つ。

 暖炉にくべられるか、大学に持ち込まれるか。

 幸いなことに季節は夏だった。よって発見者の農夫はそれを大学に持ち込むことにした。


 当初、紙束の主は演劇関係者が想定された。恐らく19期後半から20期初頭のものであろうと。紙に書かれた内容からの推察である。

 しかし、紙の古めかしさと筆記塗料の退色具合から、より精密な年代鑑定がなされることとなる。


 結果その紙片の製作年代は17期から18期にかけてのものであることが判明する。

 紙片は文章の内容を鑑み、サンテネリの国立大学に委託された。

 筆跡鑑定が行われ、300枚以上に及ぶ紙束の筆跡の主が確定した。


 ジュール・レスパンである、と。


 学者の中には偽造を疑う者も少なからずいる。

 物質としての紙と筆記塗料は18期当時のものを使えばよい。筆跡も真似ることが可能だからだ。


 しかし傍証は真作を示唆する。

 ジュール・レスパンの手稿はほとんど現存しておらず、辛うじて残ったものも纏まった量が発見されたのは20期中葉。こちらは血縁者からのものであり由来がしっかりしている。博物館に展示されたことはなく、国立文書館の倉庫にしまい込まれていた。


 その手稿と新発見原稿は様々な点で極度の類似を見せた。

 筆跡そのものに加えて、白紙に書かれた文章列の傾きや訂正挿入の癖が一致している。

 そして新原稿発見の地であるアングラン南部は、時のレスパンが居を定めた地域であることも真作の根拠となった。


 かくして大多数の18期研究者たちが多かれ少なかれ自説の修正を余儀なくされることとなった。


 発見原稿に描かれていたのはレスパン本人が生前に幾度か言及している「片翼」そのものであった。


 ジュール・レスパンが大陸の思想界に名を記した最初の作品にして、後世に最大の影響を与えたものの一つが『悪について』と題された小冊子である。この作品はレスパンの学位請求論文の抄として王へ捧げられた献辞が元となっている。

 彼は自作についてこう言い残したと伝えられる。

は、別ちがたく結びつくもう片方の翼なくしては充足しえない」


 この”別ちがたく結びつくもう片方の翼”が何を指すのか、約2期に渡るレスパン研究最大の謎であった。


 その”片翼”がついに発見されたのである。


 それは王の言葉であった。

 レスパンは生前から広く知られたその驚異的な記憶力をもって、の演説を一言一句漏らさず書き留めた。


「献辞」が披露された1716年の学位授与式典において、まさに披露直前になされた王の演説こそが、もう一つの翼であった。



 レスパンは余白にこう走り書きを残している。


「偉大なこと! 偉大な人!」

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