悪について 1
8月のロワ河新市岸は独特の臭気に襲われる。汚水が熱にゆであげられて
その根源的な不快感から、新市の川辺は”貧者の王、富者の末”とあだ名された。旧市に住むほど落ちぶれてはいないが、新市の一等地など全く手が届かない。そんな中層下部の市民達が集う場所である。
『フロールの店』は、まさにその新市河岸にある。
近所の住民を相手に昼は軽食を、夜は酒を出す典型的な”たまり場”だ。
ジュール・レスパンはこの店を好んだ。
彼が住む旧市からグロワス9世校まではかなり距離がある。
通学路のちょうど中間点に位置するこの店は、昼前に軽く食事をするのにうってつけ、かつ、夕には一杯酒を引っかけるのにちょうどよい存在であった。
「ジュー、そろそろだろう。原稿の具合はどうだい」
小柄で膨よかな体つきをした青年が彼に気安く声を掛ける。手には麦酒の入った木杯を掲げている。
「本稿は大体。今先生に見てもらっている。あとは献辞をやって完成だ」
レスパン青年は素っ気なく返すと、赤らんだ目元もそのままに目の前を流れるロワ河をじっと眺めていた。街灯の光は弱く水面はほとんど見えない。それは闇を見つめるのと同義である。
「大丈夫なんだろうな。きみが例の首切り台に引きずられていくのはまぁ仕方がないが、ぼくたちまで巻き添えは困る。なぁ、ドローテ!」
そう広くはない店内は人が10人も入れば立錐の余地がないほど。ただし、この日は運良く客は彼ら二人しかいない。
「ほんとうよ。ブルーが一緒に解体されるのまではいいけど、うちのお店にまでとばっちりはやめてよね、ジュー」
店の奥から顔を出した若い女が二人に、とりわけ振り向きもしないジュールに声を掛ける。
「それは大丈夫だ。首がなくなるのは俺とブルーまでだろう。流石に店まで手は伸びない」
ブルーと呼ばれた青年は、その丸い人の良さそうな瞳に若干のおびえを乗せてジュールの横顔を伺う。
「冗談だよね、ジュー。ぼくはその…困るよ?」
「ああ、ああ、冗談だよ。ブルーもドローテも薄情だな。俺をなんだと思ってる。時と場所を弁えることくらいできる」
「そうだよな。信じよう! 我が友を。驚くほど短気で、驚くほど賢いこの男を。ねえドローテ、もう一本、頼むよ。友を疑ったお詫びに、一本献上しようじゃないか!」
ブルノー・ボスカルはシュトロワで食料品の卸売業を営むブルノー商会の3男である。
父と兄たちの商才ゆえ、商会は近年衣料品の製造や国内の銀行業にまで手を広げている。シュトロワで最も勢いのある商会の一つだ。
富裕な商人の常として三兄弟の上二人は父と同じ実業の道に、そして三男の彼は違う道——法学の——に進んだ。
財産権という概念がいささか曖昧なサンテネリにおいて、商人の立場は上も下も不安定だ。富裕になればなるほど政治の影響を受け、零細に向かえば景気の変動に引きずられる。
ボスカル商会は比較的新興とはいえ、明らかに「上」の領域に入る。つまり、政治や法とうまくやる必要があり、政治家や判事達ともまたうまくやることが求められる。
実家を”外”から支えることを使命として与えられたブルノーだが、頭脳の面で秀でたものがあるとはとても言いがたかった。富裕な平民の常として、グロワス9世校に在籍しているのは明らかに実家の力であり、卒業し法学士の資格を取れるのもその同じ力ゆえである。だから彼の美質は、知性などという陳腐なものではない。
彼は人を知る勇気を持っていた。
誰彼構わず話しかけ、その穏やかな笑顔と適度な軽口で懐に入り込む。
恐ろしい美貌と才知に加えて、周囲皆敵と野犬の如き剣呑さを誇ったジュールを手懐けたことからも、その才能の一端が見いだせる。
敢えて旧市に住み、”先生”以外の人間とは口を利くこともせず、講座以外は全て興味の外、といった体の彼を強引に捕まえて食事に誘ったのも彼なら、ジュールの平常の仕草がもたらす周囲との軋轢を不可視の手練手管で収めたのもこの青年だった。
そして、彼らのたまり場たる「フロールの店」もまた、彼が見つけてきた。ブルノーの身代を考えれば明らかに「場末」といってもよい、労務者用の店だ。だが、友の懐事情は分かっていたし、友の強烈な自尊心も理解していたがゆえに、彼は自身の交友関係をたどりに辿ってこの店を見つけた。
ブルノーにとって、その苦労はある一点に於いて報われたといってもよいだろう。手狭でうらぶれた店にはふさわしくない美しい女と知り合えたのだから。
ドローテ・フロール
フロールの店を両親と切り盛りする、いわば看板娘である。
くすんだ金髪に包まれた丸顔には愛嬌があった。張りのある声と、この世の全てを笑い飛ばさんとする押しの強い笑顔。そして男好きのする身体。
ブルノーは彼女を”気に入った”。
ジュールとブルノー。二人の男を新たに常連に迎えたドローテは、意外なことにブルノーに靡いた。容姿と身分だけを見ればジュールを選ぶのが普通。
ジュール・エン・レスパンは何よりも美しく、剣呑で、強烈な意志を隠そうともしない。その上貴族だ。
だが、酒場の女を18年もやっていれば、そのような男の危うさも分かっている。
ジュールは眺めるにはもってこい。距離を縮めれば話し相手としても面白い。だが、彼が彼女と向き合うことはない。彼は常により遠くを見ている。そして恐らく、女にさほど興味がない。
分かってしまえば割り切れた。ジュールはいわば高貴な毛並みの”狼”だ。遠巻きに眺めるだけでいい。
一方で、ブルノーはその十人並みの容姿に比して”人間”として優れている。
優しく気が利いて話も面白い。”友人の友人の話”としていつも愉快な小話を持ち込んでくる。そして何より金持ちである。
ドローテとてブルノーとの正妻となることはあまり考えなかった。妥当なところでは、愛人か側妻をやりつつ店を援助してもらう。そんなところだ。
「はい。どうぞ」
「栓を抜いてくれないのかい? 僕が苦手なのを知っていて、ひどいな」
「あらあら、法学士様ともあろうお方が、葡萄酒の栓までか弱い場末の女に頼むなんて」
「法学士様は筆記具より重いものは持てないんだよ。なぁ、ジュー」
ブルノーが頼んだ葡萄酒の栓抜き。それを肴にじゃれ合う二人を横目で見ながら、ジュールは薄く口の端を上げた。
「それはおまえだけだろう。俺は例の”雪の王”の間、毎日薪やら木炭やらせっせと運んだぞ」
「ほら見なさい。シュトロワの判事様になられる方は肉体も頑強でいらっしゃるのよ」
ドローテは慣れた手つきで栓を抜き去り、男達が座る木卓の上に静かに置いた。
「そうだぞ、ジュー。僕の、
「分かっている。おれの首もおまえの首も飛ばないように上手くやるから。それにな、
新しい杯にドローテが葡萄酒を注いでいく。
”いつもの”話が始まった。そんな表情を隠そうともせず。
「その話はもう何度聞いたことか。僕は聞く度に感動する。人は奥深いね。嫌いなのに好き。そんな矛盾が成り立つんだから」
「別におれは好きじゃない。王は不正の象徴だ。だが、人としては別だ」
「それは分けられるのかい? ジューの言葉はつまり、ドローテの手は嫌いだが本人は好き、そう言っているのと同じだ。別ちがたいだろう。——ねえドローテ。僕のあげた薬膏、ちゃんと使っているかい? あかぎれが治まると評判の」
給仕を終えて戻ろうとする女の背中にブルノーが声を掛ける。
「ええ、ブルノー。いい感じよ」
「おいおい、そこは感謝の徴に口づけがあってしかるべきところじゃないかな」
「そうなの? 私たちの仲はそんなに他人行儀なものでしたかしら? ボスカル法学士様?」
「そう言われると弱るな」
ブルノーは杯を掲げ小さく笑った。
「それはさておき、ジューの恋い焦がれるグロワス陛下にお会いできると思うと9月が楽しみだ。君が”穏当な”
「まぁ見ていろ。おまえにも分かるはずだ。あの人の偉大さが」
「何度も言うが、外で”あの人”は止めてくれよ。冗談では済まない」
「不思議な話だ。おれが知性の上で対等と認めるのはこの世には二人しかいない。先生と”あの人”だ。それこそ最大の賛辞じゃないか」
ジュールとて自身の発言の滑稽さは理解していた。
しかし偽らざる本音でもある。
彼が書き上げた学位請求論文『悪について ー人倫の起源としての”魔力”概念の欠如態仮説における社会構造の創建についてー』が意味するところを明瞭に、疑いなく理解してくれる相手はこの世界にそう多くはない。そして、確実に王はその一人だ。
「…だが、罪人でもある」
手の中の杯を傾け、うっすら苦みの残る葡萄酒を一息に飲み込んだ。
◆
”雪の王”の猛攻は彼の周囲から幾人もの知人を奪った。旧市の被害は甚大だ。
自身の世話をしてくれるドリー夫人も体調を崩している。
歳のせいもあるだろうが、春にひいた風邪を切っ掛けに彼女は日に日に痩せ細っていく。ブルノーを頼り、何とか一度医者を寄越してもらったが、しごくあっさりと見放された。
「”物語”は人には変えられませんよ。レスパン殿」
そんな言葉を残して医者は去っていった。
汚らしい旧市になどもはや一秒たりとも居たくない。足早に去る後ろ姿はそう言っているように見えた。
寝床から起き上がるのも厳しくなった侍女を看病しながら、彼は論文を書き続けた。
自分は恵まれている。屋根のある家に住み、三食食える。
ドリー夫人も恵まれている。屋根のある家に住み、死期を看取ってもらえる。
レスパンは痛感した。
俺は恵まれている。
だが、なぜこの世界には恵まれている者といない者が存在するのか。それは偶然なのか? 偶然であれば仕方がない。それは不条理であり理性の範疇を超える。
だが、理由があるのであれば、それは検証されねばならない。その理由が正当なものであるかどうか、綿密に、正確に。
そして、理由に筋が通らないものがあるとすれば、それは
不正は糺されなければならない。
不正。
この概念は理解されづらい。
まだ酔いの残る頭で、レスパンは先刻までの友との時間を回想する。
昔この話題を持ちかけたときブルノーはこう言った。
「不正があったとしても、結果として皆が幸福に暮らせるならばそれでいいじゃないか。正義があったとして、そこで皆が不幸になっては意味がない」
その考えは理解できる。
いかに現状が理に反するものであろうと、皆が”食える”ならばそれでいい。
ならば、人は”食う”ために存在するのか?
生を維持することが人の究極の目的なのか?
つまり「存在」こそが到達点なのか?
ならば全てが空しい。
彼はすり切れるほど読み、ほぼ全て暗記してしまったユニウスの『随想』を想起する。『随想』にはこの空しい、無目的で無意味な存在としての人間が描かれている。
”意味はない。それは人に仕掛けられた最も残酷な罠である。我々はただ在る。だから
全てが平等に無意味であるならば、この差はなんなのか。この身分の差は。
不正を認める唯一の道は、それが「人々の幸福」の役に立つことの証明だ。そして「幸福」が究極的に「生きること」を指すのであれば、それは人の「物化」である。
「物化」を肯定するのであれば、そこに優劣は付けられない。
にもかかわらず「不正」が存在する。
これは
レスパンの脳内を満たす観念の長大な連なりは、未だ整理されずに絡まり合っている。それは青年生来の
だが、彼はブルノーと付き合うなかで、新しい視座を手に入れつつあった。
自身よりも3つ年上のあの男。丸い短軀の男。深い茶の髪をいつも丁寧に
素直であるがゆえに真実を直視する。
穀物を扱う食品問屋の息子として、ブルノーは彼に枢密院の”雪の王”対策がどのようなものかを教えてくれた。
彼はそれを「悪くない。より正直に言えば、良い」と評した。
施策は素早く概ね適切だった。それはつまりこれまでのような物資の強制挑発や価格統制に頼らず、自然の動きを活用したものだったからだ。
彼はそれを「川をせき止めるのではなく、支流を作って受け流す」と称した。
壊滅的な被害を被り需要が供給を大きく上回る北部では穀物価格は値上がりする。輸送に掛かる障壁を取り払ってさえやれば、地方の商人達は自発的に北部に穀物を売りに来る。その方が儲かるからだ。
理論的には確立していたものの、現実問題として関所と領主や教会の徴税権を凍結することはそう簡単ではない。簡単ではないどころかほぼ不可能事である。にもかかわらず、今回それは行われた。
誰が成したのか。
枢密院である。
不平を言い募る領主や教会を抑え込む強大な権力こそがそれを成した。
つまり”不正”の果実こそが多くの人々を救った。
これは一つの道だ。
”力”には意味がある。人々を救うという。
しかし不正だ。
では、不正ではない”力”はあり得るだろうか。
そして、どうすればその”清浄な力”をもたらしうるだろうか。
自分はそれを生み出せるだろうか。
まず論理がある。理論が存在する。
だが、それだけではよろしくない。
この世界にそれを成り立たしめねばならない。
ブルノーの丸く、よく動く瞳を思い浮かべながら、レスパンは考える。
彼らは正直だ、と。
矛盾はない。
利益こそが善だ。
ついていけば利益があると予感される”力”に彼らは着いていく。だから今は王と枢密院についていく。嫌なことは多々あれど、グロワス13世とその臣下達は彼らから問答無用で身代を引き剥がすような真似はしなかったし、彼らの儲けに配慮を示したからだ。
だが、よりよいものを提供する”力”があれば、彼らはそちらにも靡くだろう。
そこまで考えたところで、レスパンは机に置かれた紙片に向き直る。
取りあえず、今すべきことは自身を示すことだ。この世界に、自身の存在と、その有用性を。
彼は筆記具を取り上げ、その先を紙に落とす。
「”正教の守護者たる地上唯一の王国”における至尊の主、悠久の光輝なる血統の上に類い希なる慈悲を民に注がれる、我ら国民の父にして王グロワス13世陛下に、臣ジュール・レスパンが王朝の恩寵を頂き研鑽に励んだ成果を言上いたします。それを以て、我ら民の深謝と畏れを表したく存じ上げます。
さて、この度私が捧呈いたしました『悪について ー人倫の起源としての”魔力”概念の欠如態仮説における社会構造の創建についてー』について、恐れながら、この場にて簡潔な要旨説明をいたしますことお許しください。
拙作『悪について』は、グロワス13世陛下の君臨とその御代が絶対なる”善”であることを論証するために記されたものでございます。
偉大なる国王陛下の存在を善の結晶体と証明するために、その真逆の存在、つまり”悪”の存在を定義しました上で、その不在を以て善と成す形態を考案いたしました。
よって拙作の主題は”悪”であります。
”悪”とはどのようなものでしょうか」
ここまで一気に書き上げて、一度手を止めた。
机の両脇に立てた二本のろうそくが放射線状に光の膜を作っている。
彼は眼を閉じ、かつて語り合った王の姿を脳裏に蘇らせる。
——あの人は気づいてくれるだろう。必ず。
そこには一種の強烈な思いがあった。
人はその感情を指して「信頼」と呼ぶ。
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