王妃の証 2
「ブラーグ殿、楽になされよ。突然の来訪をお願いして申し訳なかった」
王の応接室、来客用扉の付近で両膝を付く壮年の男。小柄な体格ながら、その張り出した額と大きな瞳が独特の存在感をもたらしている。
グロワス13世は執務室に通じる扉から部屋に入るなり、事もなげにそう言い放った。男もまた気にした風もなく速やかに立ち上がる。
「陛下のお呼びとあらば、このアブラム、何をさておいても駆けつけて参ります」
「何をおっしゃる。この間など『まだ寒いから』といって断られたではないか」
「あれは、そうですな。私は年寄りゆえ」
「では今度はこちらが伺おう。一度あなたの作業場を見たいと思っていたのだ」
「たとえ陛下といえども、我が秘密の工房、簡単にはお見せできませんぞ」
王と時計師ブラーグは止めどなく軽口を叩き合う。
その様を、王の傍らに立つ、さる高貴な女性は唖然として眺めていた。いかに希代の時計師とはいえ男は一介の平民に過ぎない。王の招集に対して寒さを理由に断るなど到底許されることではないはず。しかし王は一向に気にした感もなく、平民の小男と旧交を温める会話を続けていた。
「ああ、そうだ。ブラーグ殿、こちらは我が妻だ」
ひとしきり近況を伝え合ったところで、グロワス王はごく自然に、直裁に、傍らに立つ女を紹介する。
それは気の置けぬ友人に家族を紹介するときの軽やかさ。
しかし、王の言葉を受けたブラーグはそれまで王に見せた気安さと打って変わって、即座に再び跪礼し、深く
「サンテネリ王国正妃様のご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ上げます。シュトロワで時計を製作しております、アブラム・ブラーグと申します」
それは平民の本来あるべき姿のはずだが、直前まで王と交わした軽口からのあまりの落差に、ひどく大げさなものに見えた。
「サンテネリのみならず、その天才を広く大陸に知られる大時計師ブラーグ殿、丁寧なご挨拶痛み入りましてございます。今後ともよしなにお付き合い下さいませ」
王妃アナリゼは幼い頃からすり込まれた挨拶を半ば自動的に返す。
「ブラーグ殿、楽にされよ。それにしてもあなたは外面がよいな。私にはぞんざいなのに」
「とんでもございません。私はいつも陛下を尊崇奉っておりますよ。しかし、正妃様のあまりの気品とご威光には叶いませぬ」
つまり、アナリゼの存在は王の権威に勝るという。ここが公的な場であれば相応の罪となってもおかしくない暴言だが、王は全く意に介した様子がない。むしろ笑いをこらえている。
アナリゼは夫がこのように心から楽しげに振る舞う姿を初めて見た。
「ああ、アナリゼ殿。驚かせてしまったようだ。申し訳ない。ブラーグ殿とはもう長い付き合いになる。だから互いに気安い。だが、あなたの美貌にはさしもの天才時計師も気圧されたようだ」
「ありがとうございます、でよいのでしょうか」
「ああ、私とブラーグ殿、二人の男があなたの魅力を讃えているのだから。——さて、諸君、座ろう」
王の言葉を合図に三人がそれぞれ長椅子に腰掛ける。
グロワス王とアナリゼ妃が並んで座り、対面に一人ブラーグが座す。
「さて、予めお伝えした通り、今日は妻の時計の相談だ、ブラーグ殿」
「承知しております。本日は正妃様のお好みを拝聴いたしまして、大まかな方向性を定めてまいります。ご婦人向けの見本もいくつか持参いたしました」
仕事の話が始まるとブラーグの巨大な瞳は急に焦点を結ぶ。それはまるで巨大な猛禽類の眼光だ。
アナリゼは男の雰囲気の変化に感心していた。
「正妃様、いかがいたしましょう。懐中は各種取りそろえております。我が工房は機械のみならず、国王陛下にお納めするにふさわしい一級品の宝石も用意がございますので、まさに正妃様のお心のまま、お望みのものをお作りすることが可能です」
ブラーグは努めて柔和に、友人の妻に語りかける。しかし芯に通った生真面目さは隠しきれない。
「私は、懐中時計は望みません」
帝国語を彷彿とさせる硬質な言い回しで、アナリゼは自身の意志を告げた。
「では、グロワス陛下と同じものをご所望でいらっしゃいますな」
彼はかつてゾフィ妃から同様の注文を受けている。
そして最近も幾人かの年若い貴婦人たちから似たような注文を受けていた。明らかにゾフィ妃の影響だろう。
だが、アナリゼの反応はブラーグの想像をあっさり裏切った。
「いいえ。腕時計を欲しますが、陛下のものと同じではありません」
「そうなのか。私はてっきり、これと同じものをお望みかと思っていたが」
グロワスもまた意外だったのだろう、アナリゼの横顔をじっと見つめた。
「同じものは嫌です」
「ああ、なるほど。ゾフィ殿も持っているから…」
「そうではありません。——私と陛下は違います。ですから、時計も違うものでなければなりません」
自身に向き直るアナリゼの真剣な面持ちに若干気圧されて、グロワス王はそれ以上聞くのを止めた。あるいは彼は気づいたのかもしれない。自身と同様、アナリゼもまた時計に何らかの「意味」を重ねているのだと。
「ということのようだ、ブラーグ殿」
「承知しました。では、陛下のものとは意匠が異なる腕時計をお望みですな」
「はい」
「では正妃様、どのような形がお好みでいらっしゃいますか?」
「一つ聞きたいことがあります。機械の大きさは陛下がお持ちのものが最小ですか? もし一回り小さいものができるのであれば、そちらのほうが好ましいです。それでは精度を保てぬでしょうか?」
——機械の大きさとは!
ブラーグの巨大な眼球は今や眼窩を飛び出しそうなまでに見開かれている。
彼はゆっくりと友に視線を向ける。
「あんたの奥さん、妙に詳しいぞ?」とでも言いたげに。
「アナリゼ殿は勉強熱心な方なのだ。機械の構造に関する本を何冊か取り寄せて読まれている」
「はい。サンテネリと帝国から取り寄せました。全て理解することはできませんでした。ただ、機械を小さくすると部品も小さくしなければならず、その精度を保つことが難しいことは分かりました」
「まさに。左様でございます。機械を小さくするのは一見簡単に思われますが、実は非常に難しいことなのです。同様のものの寸法を小さくしただけでは上手くいきません。部品一つ一つ、その強度や特性が元の大きさで最大の力を発揮するように拵えます。ですから、小さくしようと思えば設計自体を根本から変えてやる必要があるのです」
ブラーグの返答に過剰な賞賛はない。分かっているもの同士の淡々とした会話だ。
「では、不可能でしょうか」
「不可能…。不可能ではありません。ただし、少々時間が掛かります」
「どれほどでしょうか」
ブラーグはしばし黙考し、やがて口を開いた。
「1年、いただきたく。今日からすぐに設計を始めます」
「ブラーグ殿、私の時は懐中機械の流用を勧めたではないか。妻のものは特注とは、それは少しずるいな」
王の冗談めかした抗議に、しかしブラーグは真剣そのものの眼差しを返した。
「恐れながら陛下、正妃様は時計を時計としてご理解くださいました。そう。時計とは本来宝石の台座などではないのです。我ら時計師は機械にこそ自身の全てを注ぎ込みます。正確さと頑丈さと美しさを追求します。そのような我らの努力を知ってくださる貴婦人がいらっしゃる! ならば全力を以てお答えするのが私の物語と言えるでしょう」
時計の仕組みを解説する初等教本に目を通したアナリゼは、確かにその機構の精妙さに魅了されていた。しかしその奥に宿る職人の精神にまで思いを馳せたことはない。ただ彼女自身の細腕に溶け込む小ぶりなものを欲しただけだ。そして、王が信頼する凄腕の時計師ならば、自身の理想をかなえてくれるのではないかと考えた。
よってブラーグの言葉に込められた熱情は予想外のものだった。
だが、嫌ではない。
しょげたような、すねたような風体で「私もそれは分かっているのに…アナリゼ殿は贔屓されているようだ…」と呟いている夫の姿を見て、アナリゼはゾフィが時々口にする言葉を少し理解した。
”陛下は時々子犬さんみたいになりますよ。それは可愛らしいんです!”
◆
「アナリゼ殿はとても勉強熱心な方だ。好奇心ゆえなのだろうが、ゾフィ殿とはまた違う」
「正妃様にとってそれが日常なのですわ。私が女官長を拝命したその日から毎日サンテネリ語の勉強を欠かされることなく。口語表現を纏めた冊子をご自身でお作りになって」
アナリゼを正妃居室に送った王は、帰りがけに正妃女官長フェリシアと軽い立ち話を始める。
「最近は時計の本も読んでいると聞いた。女官長殿がご手配を?」
「左様です。フロイスブル出入りの商人に声を掛けまして、一通り。やはり陛下からのお話を頂戴してのことでしたのね」
「いや、私は何も言っていないが、彼女は機械の仕組みに興味があるようだ。そのうちブラーグ殿に弟子入りされるかもしれん」
王は穏やかな笑みを浮かべてアナリゼがいる正妃寝所の方を眺める。落ち着いた男の佇まいだ。
フェリシアはこの若い王、まだ三十にも届かない青年が纏う雰囲気を興味深げに観察していた。
彼女が正妃女官長を拝命し宮廷での生活を始めてからもうすぐ1年が経つ。
元はフロイスブル侯爵に嫁いだ正妻の侍女、男爵家の娘である。宮廷の習わしには疎い。だからグロワス13世の治世において、宮廷に関わる女性達の中に中心が不在であったのは幸いであろう。本来であれば母后マリエンヌが陰に陽に影響力を持つところを、意外にも王母の宮廷への関わりはとても控えめなものだった。
結果として宮中は、ルロワ家の家政全般を取り仕切る家宰とその部下たる侍従長を中心に動くことになる。
その家宰は彼女の夫である。
さらに、娘ブラウネは王の側妃である。
この状況は、うっかり山出しの仕草を見せても誰も嘲弄することができない無言の権力を彼女にもたらした。
それでも当然のごとく生活の節々に小さな軋轢はある。
だが、そもそもフェリシアの職務は正妃の生活の世話ではなく、主に政治的なものである。
正妃アナリゼを優雅に母国から切り離すこと。同時に、サンテネリ国内の様々な悪意から彼女を断固として守ること。
それは一個の壁である。
フェリシアにとって職務はそれほど難しいものではなかった。
そもそもアナリゼ本人が母国との繋がりに固執していなかった。非常に微かな痕跡ではあるが、それを厭う素振りすら見える。
一方、宮殿に集う貴族達の視線は彼女がアナリゼの隣に存在するだけである程度抑えられた。アナリゼとエストビルグから来た女官達だけであれば気づかないであろう巧言令色に隠された揶揄や嘲弄を、当然のことながらフェリシアは見抜くことができる。そして、それを相手も分かっているのだ。敢えて愚かな行動に出るものはいない。
何よりも、アナリゼ本人のおとなしさが、周囲の者たちに攻撃する動機を失わしめていた。
だから、実のところ最も危険性が高かったのは他の妃たちの動向である。
彼女達はやろうと思えばアナリゼを排斥することができる立場だ。王との関係性もアナリゼに比べて格段に濃い。その側妃達が好意的な態度を示さなければ、問題は非常にやっかいなものとなっただろう。
そんな中で誠に幸運なことに側妃の一人は自身の娘。
たとえ状況がやっかいな方向に向かったとしても、フェリシアは娘ブラウネを通じてそこにくさびを打ち込み、誤解を解くことが可能なのだ。
フェリシアはあらためて王の人事の妙を感じた。
正妃が初日に見せた行動から、慌てて手近なところで対策を施したとも見える。側妃の母を正妃の女官に据えるなど普通ならばありえないこと。にもかかわらず、それを為しても問題ないと思うほどに、王は夫マルセルと娘ブラウネの心性を信頼していたのだ。
つまりフェリシアの奉職はフロイスブル家への信認の証であった。
この無理を通したことで、アナリゼの身辺は確実に穏やかなものとなった。
同時に、ぶつかる可能性が最も高かったゾフィ妃が意外にもアナリゼと友好的に接したことで趨勢は決した。ブラウネやメアリに比して年少の二人がその若さゆえに近しくなり、さらにゾフィが年長の二人との関係を保つことで、アナリゼを既に出来上がった輪の中に引き入れた。
この状態が比較的稀なものであることをフェリシアはよく分かっている。
貴族の娘は幼い頃から”他の妻”と協調するよう教育を受けるが、実態としてそう簡単に割り切れるものではない。
性格の不一致は当然として妬みや嫉妬も必ず存在する。彼女自身は仕えた正妻が亡くなった後、マルセルの唯一の妻であったために経験していないが、他家の妻達との交流の中でその複雑さを嫌というほど聞き知っていた。
——この方は、こうみえて意外と凄い方なのでは?
グロワス13世の政治家としての力量は彼女には分からない。分かるのは、夫マルセルが忠誠を捧げ、かつ微量の恐れを抱いていることくらいである。
だからフェリシアの視点は為政者ではなく男としての王に向かう。
大人しく、落ち着いている。
常に丁寧な物腰と言葉遣いで相手を尊重する。
そんな男だ。
だが、一方で酷いもろさを見せることもあった。
精神の不安定さは周囲の女達を戸惑わせた。
過度の飲酒に不眠。手の震え。
鬱屈した感情が粗暴な振る舞いに発露しなかったのは、彼の心根の善良さではなく臆病さのゆえだろう。王の怯えを孕んだ瞳を間近で見たことがあるフェリシアはそう推察する。
にも関わらず、王は”なんとかやっている”。
それは彼が、最も重要なところで耐え、踏みとどまったことへの報償である。
娘から伝え聞いた王の直截な言葉はサンテネリの女ならば誰しもが望むものであった。
一人格として尊重され、求められること。
貴族の娘に産まれた以上、手に入れることが難しいもの。
一度その味を知った彼女達は王から離れなかった。
「なんとも、私の周囲の皆さんはどんどん職人になっていくな。ブラウネ殿は菓子職人、メアリ殿はぬいぐるみ職人、そしてアナリゼ殿は時計職人。残るはゾフィ殿だが、彼女も最近は服作りに興味津々だ」
「まぁ、陛下は果報者でいらっしゃいますわね。妻手製の品々で日々を過ごすなど、どこの殿方にもなし得ぬ幸福ですもの」
それが一般的な幸福ではないことをフェリシアは十分理解している。普通それは困窮と貧苦の表れだ。女性が”趣味”として行うのはメアリの小物作りくらい。他は、特に娘ブラウネの行動などは良家の子女にとって明確な恥である。
だが彼女達は王と王妃である。だからこそ、それを敢えて為すことには大きな意味がある。
娘から「菓子を作りたい」と相談されたとき、彼女はまさに目を回した。
だが、王の嗜好と考え方を婉曲に説かれ、自らもまた彼に
つまり王は娘を究極の内輪な存在——個人対個人の関係——にしたいのだ、と。
貴族家を構成する夫と妻はそれぞれの家を代表する政治的存在であるが、フェリシア自身はその関係性を夫との間に持たなかった。彼女がマルセルの妻になったのは偶然の業であり、マルセルがフロイスブル家を継いだのもまた偶然。つまり、本来的に二人は個対個の付き合いから始まったのだ。だからこそ、フェリシアにはその関係が持つ強さと、それがもたらす喜びが分かる。娘がそれを手に入れることができれば、その生涯は幸福に満ちたものになるだろう。
フェリシアは娘とともに夫を説得した。
我々夫婦と同じではないか、と。ある種の政治的利点も併せて。
”ブラウネの献身を受けて、陛下のご寵愛は揺るぎないものとなりますわね”
夫はしぶしぶ首を縦に振った。
「この流行りに乗り遅れぬよう私も何か作るべきかな。皆からもらうばかりでは申し訳ない」
王は”申し訳ない”という語をよく使う。夫によると、
フェリシアは一歩踏み込んでみた。
「それは名案ですわ。陛下。——女が最も望むものをお作りくださいませ」
女官長の言にグロワス王はばつが悪そうに薄い笑みを浮かべる。
「ああ、ああ。ご心配をおかけしているな。よく理解しているよ」
「お分かりのことと存じますが、陛下、えこひいきはよろしくありませんわ。アナリゼ様にも是非、お与えくださいませね」
彼女は正妃女官長として王の部下である。同時に義母でもあるのだ。その立場を十全に生かしフェリシアは釘を刺す。
「当然だ。アナリゼ殿とも関係を深めていきたいと思っている。——ああ、そういえば、宮廷大臣殿のご不在の昨今、何か不便なことはあるかな?」
王の少々不自然な話題転換に彼女は少し笑みを浮かべた。
そして思いを馳せる。
——マルセル様、慣れぬ異国でお風邪を召してらっしゃらないかしら。
宮廷大臣フロイスブル侯爵が王と枢密院の全権を委任されエストビルグに旅立ってから、既に1週間が経過しようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます