王妃の証 1

「陛下、私、”王妃の証”をです」

「王妃の証?」

「はい。私だけ得ていません」


 光の大回廊は正妃アナリゼお気に入りの場所である。

 巨大な硝子を通して室内に達する陽光の奔流を、壁全面に張られた幾多の鏡がはじき返す。光の波が寄せては返す波止場のごとき回廊は、まさに一個の異世界であった。


 数年前、サンテネリに嫁いだアナリゼが、著名な光の宮殿パール・ルミエする中でまさに心を奪われたのがここだった。

 その光は少女がエストビルグで塗りつけられた様々な思いを、溶かし、流す。身につけた衣服さえも、その肌さえも、溶解させてしまう。それが心地よかった。


 公務のない日、昼食後に夫を連れ出して大回廊に佇むのがアナリゼの定番だ。


 回廊脇に設えられた豪奢な白塗りの椅子。

 いつもの席に腰掛けた彼女は、側に立つ王に語りかけた。

 上目遣いで。


「…それはまた急な話だ。アナリゼ殿、理解はしている。だが、昼時になさるのはあまりよろしくないだろう」


 困ったような、驚いたような、なんとも言えぬ表情を張り付かせたまま、グロワス王は言葉を返す。

 回廊は音を反響し、増幅する。

 先ほどのアナリゼの願いもまた、想像以上の音量となって響き渡った。


 王は念のため辺りを見渡すが、幸い人影はない。

 アナリゼ妃が回廊での夫との逢瀬を大切にしていることを、側仕えの者達はみな理解していた。

 互いの公務ゆえ、二人きりになることが難しい夫婦。この瞬間だけは邪魔をせぬよう、自分たちが立ち入らないのは当然として、回廊入口で侵入者を防ぐ番までこなしていた。

 王妃様のための通行止めである。


「なぜですか? 王妃の証とお昼の間にはどんな関係があるのですか?」

「ああ、その、特に関係はないが…不都合な点も」

「不都合?」


 アナリゼは軽く首をかしげ、その鳶色の瞳に疑問の色を浮かべている。深茶の睫毛まつげが光の粒に晒されて、目映い点滅を繰り返す。


「アナリゼ殿、夜に。夜に話をしよう。ここは少々る」

「夜はよくないです。王妃の証が見えづらくなります」

「……」


 事ここに至り、王は自身の想像するものと妻の指し示すものが恐らく異なるであろうことに気づいた。閨事ねやごとは政治の一部ではあるが、殊更に公開するものでもない。”帝国一の淑女”がそれを知らぬはずもないのだ。


「ああ、アナリゼ殿が指しているのは、これのことかな?」


 王は自身の左手を掲げ、金の腕時計を示す。

 数ヶ月前、痩せ細ったときは革帯に空けた穴が合わず一つ内側に追加穴を空けていたが、肉が戻り始めたこの頃では、元の穴位置に尾錠のツク棒を戻すことができるようになった。


「はい。それです。私だけが。他の皆さんは入手しています」


 アナリゼのサンテネリ語にはまだうっすらとぎこちなさが残っている。硬い表現を選ぶ癖がなかなか抜けないのだ。


「王の証か。確かに昔そんなことをお話ししたな。あれはアナリゼ殿がこちらにいらして二日目の晩だったか…」


 王は自身の腕に巻き付いたそれを感慨深げに眺め、再び妻に視線を戻す。


「なんといえばよいだろうか。嘘ではないのだが、少しその場の思いつきでもあり…」

「ゾフィさんにお聞きしました。陛下はときどきよくない嘘をつかれます」


 事情は分かっているとアナリゼは即座に切り返すが、その口調は柔らかく、咎める意図は感じられない。


「ゾフィ殿も手厳しいな。確かに私はごく適当なことを口走るかもしれない」

「頻度は比較的高いとブラウネ姉様エネ・ブラウネに聞きました」


 もはやじゃれ合いに近い会話だ。

 邪気のないアナリゼの口ぶりを受けて、グロワス王は思わず破顔する。

 それはよい兆候であるからだ。


 もし妃達の仲に不都合があるならば、この会話の意味は途端に陰惨な色を帯びたものとなる。つまり競争相手の告げ口である。

 しかし彼が見るところ、アナリゼにその意図はない。王自身の小さな瑕瑾が彼女達のお喋りの肴になっている。彼女達が仲良く笑ってくれるのならば幾らでも話題にしてほしい。グロワスの偽らざる思いだった。


「分かったよ、王妃アナリゼロワイユ・アナリゼ。降参しよう。私は頻繁に悪い嘘をつくな。それで、あなたも時計を?」

「はい。手に入れようと思います」

「それはいい。素晴らしいことだ。だが、なぜ突然そのような?」

「いつもゾフィさんが私に自慢します。私は羨みます」


 その光景を想像して王は再び笑った。


「なるほど、それはまた。ゾフィ殿は私の同志なのだ。趣味を持つと人に語りたくなるものだから、彼女のことを許してやってほしい」

「はい。私はゾフィさんから色々なことを教えてもらいました。そして時計に興味を持ちました」


 王の目が徐々に真剣な色を帯び始める。

 王の時計趣味を宮中で知らぬものはない。そのため会話の切っ掛けに時計の話題を持ち出す貴族も少なくはない。だが大抵の場合、彼は至極あっさりとそれを受け流してしまう。

 趣味人として、相手の言葉が興味ゆえか追従ゆえか見抜く目は持っているのだ。


「アナリゼ殿は時計のどの辺りに興味を持たれた? 確かゾフィ殿は宝石をふんだんにあしらった豪奢な懐中を持っていたね。私も見せてもらったが、あれは綺麗だった」


 普段王とおそろいの腕時計を愛用するゾフィだが、ガイユール大公から贈られた小ぶりな懐中も持っている。薄造りの筐体の蓋に様々な色の宝石がガイユール紋を模して敷き詰められたそれは、まさに富貴で知られたガイユール大公女の面目躍如、第一級の宝飾品である。

 首飾りや指輪と変わらぬ装飾品として、アナリゼが興味を示したとしてもおかしくはない。

 しかし、年若い妻の答えは彼の予想を大きく裏切った。


「歯車です。歯車が重なって回る姿を私は愛します」

「……歯車。そうか」


 恐らくゾフィの腕時計の裏を見せてもらったのだろう。自身のものと同様、裏蓋を硝子仕上げにしてあるため中の機械を眺めることができる。この仕様は王が時計師ブラーグに無理を言って仕上げさせたものだ。


 当初時計師は難色を示した。

 硝子は割れやすい。表面であれば割れても被害は少ないが、腕に直接当たる部分がもし割れた場合、怪我をする可能性がある。

 つまり、王の神聖な身体に傷が付く。

 場合によっては制作者のが問われてもおかしくはない。

 控えめな、だが執拗な王の懇願を受けて希代の時計師は頭を悩ませ、そしてひらめいた。ことは単純で、懐中と同様、硝子面の上に金の裏蓋を付け、手で開けられるように細工を施せばよい。

 こうしてブラーグ氏は腹裂きの刑に処される可能性を回避したのである。


「アナリゼ殿はなかなか方だ。勘所をよくわきまえておられる。これは私も本腰を入れなければならないな!」


 アナリゼは彼の力強い言葉を驚きを以て迎え入れた。

 通常、王はこのような物言いを滅多にしない。だが今、彼女の夫は、未熟だが才能の片鱗を見せる弟子の存在を喜ぶ師のごとく、腕組みをして彼女を見下ろしていた。


「時計の構造は奥が深い。——不肖この時計師グロワスが、サンテネリ王国正妃様にご進講差し上げたく存じます」


 大仰に片膝をつき、椅子に腰掛けた自身に頭を垂れる夫の姿を、アナリゼは笑顔で見守った。


「ええ、楽しみにいたしましょう。進講を許します。時計師グロワス殿」


 王は立ち上がり、アナリゼの手を取った。

 二人の笑いは声になり、回廊を満たした。

 アナリゼは思い出す。勉強だけが楽しみだったエストビルグの日々を。それ以外の全てが嫌いだった日々を。


 大きな手のひらに自身の手を丸まる包み込まれながら、彼女は王に伝えた。小さな声で。


「陛下、私は勉強が好きです」

「それはよかった。教え甲斐がある」






 ◆





 いつも何かに怯えている。

 サンテネリに嫁いで以来、日々暮らす中で夫グロワス13世に対してアナリゼが抱いた印象はそれだった。

 至って温厚で物静かな男だ。しかし、一挙手一投足の全てが自然体ではない。


 彼女が身近に知る王はエストビルグ王——彼女の父ゲルギュ5世である。

 親密な関係とはとてもいえない父ではあったが、遠くからであっても、王の存在がどのようなものであるかを、彼女は父を通して理解することはできた。


 つまるところ、王で在るとは「正統性」による。

 王たちの個性は多種多様だが、その根源には必ず、国の正統な”持ち主”であるという自己認識がある。

 王でなくてもそれは変わらない。アナリゼは帝国皇女にしてエストビルグ王女という自身の身分を当たり前のものとして受け入れている。皇帝たる父と正妃たる母から生まれたのだ。だから彼女は正統な皇女であり、そこに付随する様々な権利を行使する性を持っている。一方で、その立場を占めるがゆえに果たさねばならぬ義務も心得ている。両者は表裏一体だ。


 だが、グロワス王にはそれがない。

 王は自身が持つな実権を使用することを極力避けようとする。使用人達に声をかけ、いちいち謝意を伝えるのは、高貴なものの美徳たるを周囲に印象づけるための演技ではない。

 アナリゼは他者の高貴を装う態度に敏感であった。彼女自身が長い年月をかけてそれを仕込まれてきたのだから当然だろう。

 だからこそ彼女は比較的早い段階から見抜いていた。

 王の態度は、本来受け取るべきではない過大な奉仕を受けたことへの心からの感謝なのだ。


 それがアナリゼを悩ませる。

 グロワス王の出自には疑義を挟む余地が全くない。グロワス12世と正妃マリエンヌの間に生まれた一人子であり、面影も父母のそれを強く受け継いでいる。当然、幼時から”次代の王”として育てられてきたはずだ。

 にもかかわらず、王は常にしている。

 傍目には極めて洗練された貴種の振る舞いにしか映らない一連の行動だが、アナリゼには不自然に見えた。


 あるいは、権利と一体に課せられた義務を厭うがゆえか。

 最初想像したのはそれだった。一向に自身と交わらぬその姿勢も想像を後押ししたが、これは明白な政治的意図から来るものであることも分かる。

 では、王は義務を厭い、そこから逃げただろうか。


 むしろ逆だ。

 王は日々の政治日程を遵守する。体調不良の際も無理をおして幾多の会議に出席、あるいは主催する。

 だが、その中で何が行われているのかは知りようがない。

 彼女が王の執務姿をその目で見る機会は多くはない。だから当初は形式を整えることに終始しているだけかと考えていた。


 その推測を塗り替えたのは重臣達の王に対する姿勢である。

 彼らは明確に王を”尊重”している。それは儀礼上のものではなく、実力者に対するものだ。


 彼女の女官長の夫はサンテネリの事実上の宰相たる家宰フロイスブル侯爵である。帝国とサンテネリの同盟を主唱した経緯から、彼はサンテネリにおけるアナリゼの「後ろ盾」ともいえる存在であった。

 彼とはその立場ゆえ、女官長を交えて三人で話す機会が多い。

 その際にフロイスブル侯爵が口にする「陛下のご意向」「陛下のご決断」という言葉から感じ取れる響きは、明らかに実権を伴った上位者に対するものであり、建前上の存在に対するものではない。


 行幸随伴の折も、配下の者達の意識は常に王に向かっている。

 ”勇者の宮殿”に赴いたときもそれは変わらなかった。内政の実務責任者たる内務卿からして、常に「陛下のご意向」を注視している。


 そして、兵達の前でなした演説。

 体調不良を全く感じさせない堂々たるものだ。自信と威厳に溢れ、人々を強く鼓舞する王の声は、アナリゼに強い自覚をもたらした。

 ——私は、このの妻、サンテネリ王妃なのだ。

 と。


 つまるところ、王は与えられた義務を果たしている。

 その成果がどれほどのものかアナリゼは図る術を持たないが、果たそうとしていることだけは確かだ。

 にもかかわらず、彼は正当な権利を行使することに後ろめたさを覚えている。

 とにかく不可思議な姿だった。


 一方で、喜ばしいこともあった。

 王はアナリゼを帝国皇女として扱いつつ、分かちがたく存在するアナリゼ個人に目を向けようとした。

 一人の人間、生物として見られている。それは彼女にとってひどく新鮮な感覚である。本来であれば最も心安らぐべき実家で得られなかったものを、はるか異国の王宮で全く見知らぬ他者から受けている。

 それは内奥を省みる視座を彼女に与えた。

 王が触れようとする”アナリゼ”とはどのような人間なのか。

 そして彼女は気づく。

 個人として、女としてのアナリゼが驚くほどに希薄な存在であるということに。


 他の妃達と交流を深めるにつけ、その思いは深まった。

 フロイスブル侯爵令嬢ブラウネ、バロワ伯爵令嬢メアリ、ガイユール大公女ゾフィ。

 いずれもサンテネリ王国における強大な権力者の娘である。自身とさして変わらぬ立場だ。しかし、彼女達はいずれも「個」を持ち、その喜びを享受している。王との間に。


 王妃達の世界といえば母の在り方しか知らない彼女にとって、グロワス13世を取り巻く妃達の関係性はまさに驚異のものといえた。時に繊細な政治的配慮を求められることもあるが、少なくとも憎しみあってはいない。妬み嫉みも


 自身の育った世界と何が違うのか。

 おそらくは妃達が「個」の世界において満たされているからなのだろう。冠でも家名でもなく、一個人として王と関係を持っている。その自信が、妃達を過度の摩擦から遠ざけていた。そして、しまいには異物たるアナリゼを仲間に引き込もうとすらする。それは彼女が育った宮廷ではまさにあり得ないことだった。


 結局のところ、彼女の生活は王の「不自然さ」に端を発している。

 王位にあることを自明と考えない王は、それゆえ常に微量のおびえを抱いていた。それは配下の貴族達や他国の王に対するものではない。

「分不相応」な立場を占めているとの”思い込み”ゆえに、そして、立場に付随する「分不相応」な義務を果たさねばならぬがゆえに、彼は恐れている。

 それはまさにアナリゼの存在と正反対の姿。写し絵といえた。

 彼女は皇女で在ることだけを目的に”作り込まれた”存在だったのだから。


 貴族会の演説以来、王は変わった。

「不自然さ」が消えつつある。

 恐らく彼は、自身が王であると自己認識したのだろう。

 それは王国にとって喜ばしいことだが、一方で、アナリゼ個人にとっては不安もあった。生身のアナリゼを見る視線が、皇女にしてサンテネリ王国正妃を見るものに取って代わられてしまうのではないか。


 だからだろう。

 ”王妃の証”と言いながら、アナリゼはそれと正反対のもの、王との関係を求めた。

 そして受け入れられた。


 グロワス13世は普段見せない前のめりな姿勢で少し早口に時計の仕組みを語る。


「アナリゼ殿、この振り子のように動く輪を見てほしい。ここが均等な振幅を繰り返すことで等時性が生まれる。それがほら、この小さな爪のようなもので…」

「この歯車の列、見えるだろうか。巻き上げたぜんまいの力を調整して、ここ、ここで1分で一回りするようになっている」


 あまりに微細な部品ゆえ、王の太い指が「それ」「これ」と指しても判別が難しい。だが、よく分からないながらに彼女は真剣に話を聞いた。


 つまり、時計とは「理想的な世界」が詰め込まれた小宇宙だ。

 動因となる活力があり、それを各歯車と調速機構が協働しながら調整することで、時間という一つの概念的秩序を作り出す。


 王は一通り熱弁を振るった後、彼女に告げた。


「本当のことを言おう。アナリゼ殿。——私にとって時計は”王の証”などではない。これはね。これは”観念”が実体化した姿なんだ。我々の世界は”生のもの”に満ちている。粘ついた、醜悪なものがたくさんある。だが、この小さな筐体の中には存在しない。全てが秩序だった”観念”そのものだ。私はそれに癒やされる」


 分かりづらい言葉だった。

 アナリゼは考える。

 ゾフィに時計を見せられたとき、なぜ自分は歯車に惹かれたのか。

 せわしなく回る天輪振り子、ゆっくりと進む歯車の対比。等時性を保つために同じ動きを永遠に繰り返す機械から目が離せなかったのはなぜか。


 王によって言語化されて気づいた。

 つまり、それは自分自身だ。


 一方で新たな不安が生まれる。

 王は「生身のもの」を見たくないのか、と。

 自身に例えれば、生身の女性としてのアナリゼとサンテネリ王妃として観念化されたアナリゼがいる。王は後者を好むのだろうか。

 だからそう問いかけてみた。


「ああ、それは違う。現実は現実だ。だから受け入れるべきだ。そのことに気づかずに私は散々苦しんだよ。だが、今、私は受け入れた。——アナリゼ殿の本質は一個の女性だと思う。決して王妃の冠ではない。私は本質を見たい。生身のあなたと触れあいたいと願うよ」


 ここに至ってアナリゼは、グロワス王に抱いた違和感の原因に触れた。

 彼は「王」の観念である自分と生身の自分のずれに苦しんできたのだ。そして最終的に生身の方をとった。人として生きることを。


 彼の姿は自身の”将来”そのものでもある。

 根拠はないがアナリゼの勘はそう告げる。


「皇女」という観念の存在でしかなかった自分。

 しかし、これから、この男の元で生身の自分を得るのだ、と。


 アナリゼはこれまでの短い人生の中で何かを欲した経験がない。

 必要なものは全て揃えられていたし、必要でないものはその存在を知らされることすらなかった。

 同年代の少女が望む豪奢な衣服も宝石も、彼女にとっては皇女を飾るために”必要なもの”に過ぎなかった。


 だから、この時覚えた感情はある種の刻印を彼女に施した。


「私は、”王妃の証”を。心から」

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