妃たち 3
エストビルグにおいて王の妃達が一同に会する機会は稀だ。公式の行事を除けばほぼ無いといってもよい。
だからだろうか、アナリース王女がサンテネリに嫁ぎ最も驚いたのは妃同士の気安い関係性だった。
夫グロワス13世には三人の側妃がいる。
フロイスブル侯爵令嬢ブラウネ。バロワ伯爵令嬢メアリ。そしてガイユール大公女ゾフィである。
母国であらかじめ学んだサンテネリの貴族系譜を思い出す限り、ブラウネとメアリはルロワ家直下諸侯の娘。ゾフィは帝国であれば王号を帯びてもおかしくはない大公国の娘。王家と関係が深く、王個人とも付き合いが長いブラウネとメアリに対し、ゾフィは少し距離がある。
自身も外部からやってきたアナリースは自然ゾフィと距離を縮めた。
年長のブラウネやメアリが王の補佐役として忙しくしている一方で、無役のゾフィとアナリースは暇つぶしを兼ねて共に過ごすことが多かったのも一因だろう。
ゾフィはアナリースよりも二つ年少の明るい少女だ。
奔放に喜怒哀楽を表現する彼女は、アナリースが「獣欲」として常に戒められてきた姿を体現したかのような存在だった。
だから当初の違和感は大きかった。グロワス王の腕にしがみついて甘える仕草を目撃したときなどは、鍛え抜かれた無表情の裏で目をむいたものだ。
好奇心が強く、自身が体験したことを誰かに報告したがる傾向を持つゾフィは、アナリースの薄い反応にも臆することなく話しかけてきた。
それは皇女が体験した人生初の「おしゃべり」だった。
臣下でも召使いでもない、”対等な友人”との。
ガイユール家はルロワ家と並ぶ中央大陸の名門貴族であり、家格の上ではエストビルグを凌駕する。権勢の点でもガイユールはサンテネリ王国の柱石として引けを取らない。帝国と比べれば規模は劣るが、エストビルグ王国単体とであればそこまでの差は無いのだ。
それをゾフィは分かっている。
会話を重ねる中で、アナリースはゾフィの天真爛漫さの底に潜む思慮を感じ取った。その気安さは互いの立場を分からぬがゆえの無礼ではなく、状況を全て理解した上でのものなのだ。
繰り返されるゾフィとの対話の中で、彼女は自身の無知を知った。
着物や髪型の流行、面白い恋愛本、シュトロワの名所。矢継ぎ早に自身の嗜好を話した後、ゾフィはアナリースに尋ねる。
「私ばっかり話してしまいました…。次はアナリゼさんの番です!」
そして自分には”好きなもの”が「無い」ことを知った。服も髪型も、全て母から与えられたものだった。物心ついたときから選択肢は存在しなかった。
「好きなもの…ですか。——分かりません」
「うーん、じゃあ、作りましょう! まずは服から!」
ゾフィはアナリースの手を引いて自身の居室に誘い込むと、衣裳部屋にずらりと並ぶ色とりどりの着物を見せて尋ねる。
「アナリゼさんはかわいいほうがいいですか? それとも大人っぽい方がお好きですか?」
「…分かりません。私はどちらが似合うでしょうか?」
「そうですね…大人っぽい方がいいと思います。年長の皆さんに比べると、私たちはどうしても大人っぽさが足りません! グロワス様だって時々私を子ども扱いなさるんですよ! これはゆゆしき事態です!」
憤慨するゾフィの姿を眺めながら、アナリースはこれまで厳しく課せられてきた閾値を超える笑顔を作った。この小柄な少女は確かにかわいい。王がそう思うのも分からないでもない。
そんなことを話ながら二人は大きな姿見の前に並ぶ。
茶色の髪に黒系統の瞳色を持つ彼女たちの姿は「姉妹」といわれて違和感が無いほどに似ている。
大人しく背の高い姉と活発で小柄な妹。
一人子として生きてきたアナリースにとって、それは新鮮な感情だった。
——自分も
たわいもない会話を楽しみ、日々心の赴くままに暮らせるだろうか。少女はその短い生において初めて何かを望んだ。
ある種憧れとも言えるほのかな感情を抱いてガイユール大公女を眺めると、ふと左手首に付いた物体に目が行く。細い手首をすっぽり覆い尽くす大きな丸い金の板。それは婚姻の日の翌日、グロワスから見せられた時計だった。
「ゾフィさん、それは?」
「こちらですか? これ、実はグロワス様とおそろいなんです! 全く同じものを同じ職人さんに作ってもらいました」
そう言って自慢げに腕を差し出してくる。それは確かにあの日、王がその腕に巻いていたものと同じ形をしている。
「王の証、ですね?」
「王の証?」
「はい。陛下はおっしゃっていました。自分の中には召使いの自分と王の自分がともに存在するのだと。王の自分が”獣欲”に負けそうになると、召使いの自分がそれを抑えてくれるんだそうです」
アナリースの説明をいまいち理解できないゾフィは少し首をかしげ、自身の腕に着けた時計を眺める。
「時計とどんな関係があるのでしょう」
「私は陛下に時計を腕に巻いていらっしゃる理由をお尋ねしたのです。すると陛下は”便利だから”とおっしゃるので、私は…その…”召使いになりたいのですか?”とさらにお聞きしてしまいました」
貴人が自ら時間を管理する必要はない。サンテネリにおいても帝国においても、それは召使いの仕事である。ある種の飾りとして懐中時計を持ちはするが、目立たぬよう上着の懐に忍ばせるのが習いだ。それを敢えて人目に付く手首に巻くのは明らかに当代の常識に逆らう行為だった。
「召使いですか! だからグロワス様は”召使いの自分”と」
「ええ。でも、最近分かってきました。あれは言い訳なのですね」
数ヶ月を共に過ごす中で流石に彼女も気づいていた。グロワス王はただ時計が好きなだけなのだ、と。
「言い訳ですね! グロワス様は時々そういう良くない嘘をつかれますから、気をつけなければいけません」
年少であるにもかかわらず、ゾフィの口調は少し保護者めいた雰囲気を漂わせていた。ただし、くすりと笑いながらではあるが。
「はい。覚えておきましょう。陛下は嘘つきでいらっしゃいます」
アナリースもつられて笑う。
ひとしきり笑みを交わした後、ふと次の疑問が湧いてきた。
「でもゾフィさん、その…時計を腕に巻くのは、少々…奇抜ではありませんか? とても目立ちますし」
「はい! でもそれがいいんです。だってグロワス様もされているんですから。妻の私が真似をしても、誰もそれを咎めることはできません」
社会の規範に対して殊更に攻撃を加えようとは思わない。だが、自身の行動を咎めることも許さない。
ゾフィは自覚的に行動していた。彼女は王の側妃でありガイユール大公女なのだ。人倫にもとる行為であればともかく、誰に迷惑を掛けることもない自身の好みは押し通す。それをすることが可能な力を少女は持っている。
「私たちは常識の
左腕を翳しながら発せられたゾフィの堂々たる宣言に、アナリースは心底驚いた。
常識を作る。
常に服従を求められてきた彼女にとって、それは一種の啓示だったのかもしれない。
人形から人になるための。
◆
「
王の執務室の隣には広大な茶室が備わっている。
特に公務が無い暇な時間、妃達はそこに集まることが多い。しきたりも強制もない。いつのまにか自然と出来上がったある種の”たまり場”である。
ゾフィが長椅子の横に腰掛けたメアリに尋ねる。
「エネ」は本来”年長の”を意味する付号であるが、転じて家の当主を表す称号ともなっている。この場合は元の意味そのままに「年上のメアリ」である。
妃達が互いに敬称を略すようになったあたりからゾフィが戯れにそう呼び始めた。
「
血のつながりにかかわらず年長の相手に呼びかけるごく普通の言い方ではあるが、彼女たちの政治的立場を考えれば、それはかなり危険性の高い行為だ。
それぞれの立后前、まだ関係性が十分深まっていない段階でゾフィがそう呼びかけたとすれば、ブラウネとメアリは非常に気分を害したことだろう。それは要するに「年寄り」との揶揄であり「子を産むのが難しい女」という侮蔑にすらなり得るからだ。
しかし、現在の彼女たちには既に4年以上の付き合いがある。互いの心根も十分理解していた。
ゾフィは性格的にそこまで嫌みな当てこすりをする少女ではない。彼女は気に入らないことがあればより直截に事を運ぶ。さらに、個人と家の立場が流動的だった昔ならばいざ知らず、それぞれが王妃としての公的な地位を持ち、家としても枢密院制稼働に向けて融和を図るこの時期に、ブラウネやメアリを明確に敵に回す愚を分からぬ少女ではない。
最初こそ驚いたものの、ブラウネとメアリはゾフィの愛称を「親しみの表れ」として受け入れた。そして一種の流行りとなった。ブラウネまでもが二つ年長のメアリに「
流行りはさらに伝播する。ブラウネもまた、極めて個人的な場では「
「ほら、もうすぐ出来上がりますよ。このしっぽを付けたらおしまいです」
メアリは自身の手元に広げた毛糸のぬいぐるみを少女に見せた。金色の毛並みを持つ垂れ耳の犬をかたどったそれは、彼女の両手にすっぽり収まる大きさだ。
メアリの手芸趣味は今では妃達皆に知れ渡っている。
最初に作ったのはバロワ家の象徴たる黒犬を象ったものだ。完成直後の達成感から皆に自慢したところ、即座に食いついてきたのがゾフィだった。自分も犬のぬいぐるみが欲しいと熱心に頼み込んでくる。
金色の毛並みのものがほしいと追加の注文さえ受けた。
ぬいぐるみ製作はそう簡単なものではない。時間も手間も掛かる。だが、自身の趣味と技量を評価されるのはメアリにとっても満更ではない。”妹の頼みだから仕方ない”といった
それがようやく完成間近のところまできている。
アナリースが対面で繰り広げられるゾフィとメアリのやりとりを眺めていると、不意に横から声が掛かる。
「アナリゼさん、今日のお菓子はお口に合いますかしら?」
「ええ…はい。美味しいです。この
サンテネリにやってきてアナリースが驚いたことの一つに繊細な食がある。
帝国では菓子と言えば小麦粉を練って固く焼き上げた物が主体。この
「まぁ、それはよかった! 次もご期待くださいね。今度はもう少し大物に挑戦しますから」
「フロイスブル家はとても優秀な菓子職人を抱えているのですね。この味はきっと帝国でも大人気になります」
「ふふ、では陛下にお願いして、その”菓子職人”をヴェノンに派遣していただきましょうか」
「是非お願いします。私からも陛下にお願いします」
「まあ!」
自身の冗談が案外真剣に受け止められていることに気づいたブラウネはどう答えたものか思案顔。そこにメアリが茶々を入れる。
「ブラウネさん、皇女殿下がヴェノンにご招待くださるようですよ? お留守の際はこの私が陛下のお世話をいたしますから、ご心配なさらずに」
「もう! 陛下はそんなことはお許しになりません。ブラウネは陛下専属ですから」
二人の”姉様”の会話を聞くも意味がよく分からないアナリースにゾフィが助け船を出す。
「そのお菓子、
「…手作り? ブラウネさんが?」
本当に意味が分からない。ブラウネは王妃だ。それが菓子を作る?
突然現出した異常な状況にアナリースの常識は混乱を極めた。
「だいぶ上達してきましたわ。陛下も最近は本心から褒めて下さいます」
胸を張るブラウネの姿がまた謎を呼ぶ。
グロワス王のブラウネに対する寵愛は傍から見てもすぐに分かる。その距離の近さは完全に愛し合う夫婦のそれだ。にもかかわらず、自身の大切な妃を下女のようにあつかっている?
予想外の展開に戸惑いながらも、アナリースは恐る恐る質問を投げかけた。
「ブラウネさんは…その…お辛くはないのですか?」
ブラウネはどうみてもうれしそうだ。
だが、ひょっとしたら、そうあるように強制されているのかもしれない。自分がされてきたように。
アナリースの脳裏には、自身が受けてきた様々な”教育”が去来する。
「ええ、ブラウネは陛下の
「しかし、その行いはブラウネさんの名誉を傷つけます。まるで下女です。私が陛下に申し上げて…」
「アナリゼさん、ブラウネを心配して下さいますのね。ありがとうございます。でも、ブラウネは心から嬉しいのです」
「ではブラウネさんは…下女になりたいのですか?」
同じような台詞を昔グロワス王に投げかけたことを少女は思い出した。
あのとき王は上手く理屈を付けて彼女を煙に巻いた。その後
だが、今回のブラウネの奇矯な行いはそれでは済まない。
貴婦人の尊厳を著しく傷つける行為といえる。
「下女。そうですね。ブラウネは陛下の下女になりたいのです。何の問題もありません」
アナリースがこれまで見てきたブラウネは優しげな雰囲気を纏わせた大人の女性だった。優雅で落ち着いた淑女。そう見えた。
だが、今、真剣な面持ちで自身を見つめる女は、柔らかい肉質の中から鋼の骨格がのぞかせている。
それは意志だ。
「ブラウネを卑しいと蔑むものもおりましょう。ですが、何を気にすることがございますか? 陛下がこの国の新生を望まれ、政務に励まれるのと変わりありません。わたくしたちが変えるのです」
「変えるとは、何をでしょう」
「常識や規範。わたくしたちを縛ってきたものです。陛下はブラウネのお菓子作りを大層喜ばれましたが、それはブラウネを貶める倒錯した感性故ではありません。グロワス様にとって、ブラウネも下働きの下女も本質的に同等の女なのです。——そしてそれはご自身も例外ではありません。同等の女が同等の男に好意の印を贈ったことを陛下は喜んで下さいました」
皇女がこれまで教え込まれてきた全てが、ここサンテネリにおいては真逆に展開している。ブラウネの言は正教の教えの否定に等しい。そして彼女の述べることが真実ならば、グロワス13世も同様の思想を抱いている。
「しかし、ブラウネさんと下女は違います。”魔力”が違うのですから」
「魔力——ええ、そうかもしれません。ですが陛下は仰いました。魔力の量が多いことは、ただ数量の問題に過ぎない、と。例えばそこにある砂糖壷。その中からひとすくい匙でとり、砂糖を分けましょう。アナリゼさんはどう思われますか? 砂糖壷に残った大量の砂糖と匙に載った少量の砂糖では、どちらが偉いのでしょうか」
ブラウネはここで、自身が王から説明されたのと同様の例を用いてアナリゼに説いた。
少女は答えられない。
それは多いか少ないかの問題であり、偉さは関係ないのだから。
正教の教えでは、魔力量を「社会における有用性」の問題と捉える。砂糖の例でいえば、砂糖壷に入った方がより多くの甘味を人々に与えられるという有用性だ。
しかし、それは「偉さ」とは関係ない。
「突然のことで驚かせてしまいましたね。アナリゼさん。何も陛下は過激な涜神思想をお持ちなわけではないのです。ただ、皆が尊敬し合い、協力し合える社会を望まれているだけです。ゆっくりと時間をかけて」
依然アナリースは無言だった。消化するには時間の掛かる難題だ。
ブラウネの言を継いだのはゾフィだった。
「サンテネリは”世界の中心”。ここシュトロワで生まれたものが中央大陸の新しい常識として広まっていくんです。だから私たち妃も作りましょう。——女の流行は私たちから始まります!」
それは決して驕りではない。
事実、ゾフィがガイユール館の前で見せた近衛軍の装いは貴族平民を問わず若い子女の憧れになりつつある。
女性的な衣裳に男物の軍衣を模した上着を合わせるその斬新さはシュトロワの少女達を虜にした。
いつしか「ガイユール様式」と呼ばれるようになったその組み合わせに大人達は眉を顰めるが、当の少女達は気にしなかった。
新聞に掲載された挿絵は彼女たちの理想をまさしく塗り替えたのだ。
煌びやかな室内、宝石で飾り立てた女性が豪奢な椅子に座り、これまた派手に着飾った男性に傅かれる構図はもはや古くさい、過去のものとなった。
近衛軍装を纏う若き王に馬上で
それはささやかな、だが新しい「理想」の顕現だった。
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