妃たち 2

 アナリース・ヴォー・エストビルグはエストビルグ国王ゲルギュ5世とローテン=リンゲン大公女にして正妃アウグステの長女として生を受けた。


 当時ゲルギュ5世は側妃との間に男児を二名もうけていたが、正妃アウグステとの間には長らくその気配が無かった。だからだろうか、アウグステは妊娠に狂喜した。

 帝国の王位継承法において、継承権は子の年齢ではなく母の地位に依存する。側妃の子に比べて年少であろうとも、自身の産んだ子こそがエストビルグを継ぐ。実家ローテン=リンゲン大公家は息子を通して今後もエストビルグ家と縁を繋ぐ。さらに息子は順当にいけば帝国の冠を戴くことになるだろう。


 そしてアナリースが生まれた。

 母となったアウグステが初子の性別を知ったとき、何を感じたかは想像に難くない。ただ、彼女はまだ若い。子を産む能力があることは、たとえ娘であれ実際に生まれたのだから証明済み。

 次は男児を。

 至って健康に腹から這い出てきた娘を抱きながら、彼女はそう願った。


 父ゲルギュもまた同様の想いを抱えていた。側妃腹という自身の出自に強い負い目を感じることはなかったが、できることならば次代の男児は正妃から欲しい。自身の領国たるエストビルグはいざ知らず、こと帝国の帝位となると少し話がややこしくなるからだ。今や建前上のものに堕したとて、帝国は本来選挙による帝位選抜を制度として持つ。経歴についた傷はどれほど些細なものであれ、多かれ少なかれ交渉材料にされるのだ。

 次は男児を。


 両親の、かくも祝福の元に少女は生まれた。

 首府ヴェノンには皇女の誕生を祝う花火が上がる。街角の至る所で市民達は皇女の誕生を言祝いだ。

「次は皇子様だな」

「違いない。来るべき皇子様に栄光あれ! そして皇女様に栄光あれ!」


 赤子はアナリースと名付けられ、すぐに乳母に引き渡された。

 貴種の出産の常である。母体の回復を最優先しに備える。産褥期の母子死亡率を考えれば当然のことだった。


 アナリースにとって幸い、あるいは不幸だったのは、物心つく年頃には母が妊娠を諦めていたことだろう。父母の間にはもう子は生まれなかった。アナリースは一人子であった。





 ◆





 アナリースは正妃の一人娘として、溢れんばかりのを一身に受けて成長した。週に一度の母子顔合わせでは、課された習い事の進捗を徹底的に検査された。

 最も重視されたのは礼儀作法である。貴婦人にふさわしい立ち居振る舞いと舞踊。洗練された食事作法。母と共に一日を過ごし、一挙手一投足を確認される。


「アナリース様は将来帝国に勝るとも劣らぬ大国の正妃になられるのです。あなたの振る舞いはまさに帝国の威信なのですよ」


 何度言われたか分からない母の台詞は、今も少女の耳にこだまする。


 学問的な教育は選び抜かれた正統派の正教僧によって為された。文字の読み書きや簡易的な算術。そして正教典の読解。

 神の奇跡たる世界創造。大陸の創建。そして正教の誕生。正教を守護する偉大なる帝国。帝国を支配する権利を神より下されたエストビルグ家の栄光の歴史。

 教典暗唱と初歩的な解釈問答は少女の生活に素晴らしいをもたらした。失敗すれば食事やお菓子が取り上げられるという。


 怠け心は「獣欲」の現れであり、それを抑える魔力の不足を意味する。皇女を委ねられた教育係たちは熱心に、全身全霊をもって少女の魔力を育てようと努力した。

 大きな感情は獣欲である。過ぎた笑みも涙もそれは獣欲である。他者と触れあうこともまた獣欲を喚起する。


 まだ10歳にもならぬある日、食卓で配膳を待つアナリースは不意に部屋の隅に立つ召使いを見た。二人きりになるとちょっとしたおどけた仕草で少女を笑わせてくれるその召使いが彼女は好きだった。

 召使いと目が合った刹那、アナリースは食卓の下から右手を少し出して、に手を振った。


 食事が終わると教育係の女官が彼女の行為を咎めた。

「王女殿下はその汚らわしい獣欲を抑えることがまだお出来にならぬようです」


 少女は自室の隅にある小さな物置に連れられ、備え付けの椅子に座るよう促される。そして重い扉が閉められた。

 暗がりの中で反省しなければならない。自身のうちに潜む獣欲を打ち倒さなければならない。

 何も見えず何も聞こえない闇の中で、少女は声が枯れるまで泣きながら謝罪の言葉を発し続けた。

 許しは与えられなかった。


 翌日から、を見かけることはなくなった。二度と。





 ◆





 世俗知識の教育は主に家系図の暗記と語学が中心である。

 複雑極まる帝国諸侯の系図を辿り、身分の上下を学ぶ。同時に、将来彼女が嫁ぐ可能性が高い国の言葉を学ぶ。

 少女に課題として与えられた言語はアングラン語である。実際のところ帝国の第一皇女の嫁ぎ先として適当な格を持ちうる家は非常に限られる。プロザンのような帝国内の王国か、あるいはアングラン王国。

 国内諸侯が相手であれば意思疎通は帝国語で済むため、一から学ばなければならないのはアングラン語だけだ。

 中央大陸の外交共用語たるサンテネリ語については基礎文法と初歩単語のみ。当時の国家関係から、彼女がサンテネリに嫁ぐことはと考えられていたためである。


 少女は勉強が好きだった。より正確に表現するならば、生活の他の部分全てが嫌いだった。


 12歳を過ぎ、初潮を迎えた彼女は徐々に社交の場にも顔を出すようになる。

 母アウグステに伴われ王家主催の晩餐会や、より小規模な夜会に出席した。周りを見渡しても同年代のものは少ない。たまに出会うことがあっても言葉を交わす機会などほとんどなかった。


 一言一句違わぬ挨拶の言葉を繰り返す人形。

 母譲りの愛らしい容姿はヴェノンの宮廷に話題をもたらした。異母兄たちと顔を合わせることもあったが、それすらも定型句の交換に過ぎなかった。

 少女は据え付けられた貴賓席を動くことが許されていなかった。周囲の者達はあるいは忘れていたのかもしれない。彼女が自身の意志で歩き回ることができる「人間」であることを。


 14歳になると、将来の夫候補たちと顔を合わせることも増えた。

 シュトゥビルグ王国の王子は中でも有力な一人だった。少女よりも1歳下の内気な少年。父王に伴われ挨拶に訪れる彼を少女は無感動に迎える。

 小太りの優しそうな少年。皇女との対面に気後れしているのか、少し硬質な、か細い声で挨拶を投げかけてくる。

 アナリースの微笑みは見事だった。完璧に調整されただ。控えめに、穏やかに、かつ情感の欠片もなく。これまでの短い人生の中で培ってきた数少ない彼女の特技である。


「正妃様、発言してもよろしゅうございますか」


 少女は隣に座る母に許可を求め、その軽い頷きを確認した上で少年に言葉を返す。


「帝国西の守り、その高貴な歴史を大陸中に謳われるシュトゥビルグ王太子様。丁寧なご挨拶痛み入りましてございます。今後ともよしなにお付き合い下さいませ」


 相対する貴族家を象徴する決まり文句を冒頭に置き、その後役職名を付け加える。個人名を呼ぶことはない。その後は完全な定型句である。

 一連の決まった台詞を言い終えて彼女は微笑む。軽くへの字に湾曲させた唇と和らいだ目尻は、台詞同様に寸分違わぬ完成度だった。


 少年が父王とともに眼前を辞去した後、母が小声で問いかけてきた。


「シュトゥビルグ王太子殿下はお優しそうな方ですわね」

「はい。正妃様」


 母の柔らかい口調の向こうに潜む微量の苛立ちを少女は鋭敏に感じ取る。

 ——正妃様はご満足ではない様子。

 これもまた少女の特技の一つである。他者の顔色を、そして声色を伺うこと。

 卑屈と蔑むのはあまりにも酷であろう。生き延びるために必死で磨かざるを得なかった技なのだから。


 実際のところ、母アウグステは娘にを与えたいと心から願っていた。

 幸せとはつまり、最上の夫である。


 現在でこそ帝国至尊の座を独占するエストビルグ家だが、貴族家としての歴史はそう古くはない。先刻挨拶に訪れたシュトゥビルグ家など、「諸民族のうねり」直後から歴史に名を残す旧家とは比べものにならない。その観点でいえば、権勢においてはエストビルグと比較にならぬ弱小とはいえ、シュトゥビルグ家に嫁がせるのも悪くはない。アウグステはそう考えていた。だが、それが「最上」かと問われれば疑問符が残る。


 従順で貞淑、正教の教えに帰依し、類い希な美貌の萌芽を兆す我が娘アナリースの相手足るか。


 アウグステはごく標準的な貴族の女性だ。

 つまり、立派な夫と立派な子どもを持つことこそが幸せと信じて疑わないの夫人である。残念なことに立派な息子を産むことは叶わなかった。ならば次善のもので満足せねばならない。

 彼女は皇帝正妃なのだ。あとは娘アナリースが嫁ぐ家の格こそが彼女を幸せにしてくれるだろう。そして娘も幸せであるに違いない。そう考えていた。





 ◆





 シュトゥビルグ王太子との顔合わせから一年が過ぎ、アナリースを取り巻く環境は激変した。

 が現れたのだ。


「正教の守護者たる地上唯一の王国」国王グロワス13世である。

 サンテネリ王家たるルロワ家は家格としてもエストビルグのはるかに上をゆく。シュトゥビルグと並ぶ歴史を持つ大陸屈指の旧家である。

 そして、エストビルグ王国単体ではなく帝国そのものとさえ規模において肩を並べることができる唯一の大国、その主でもある。


 ルロワ家とエストビルグ家、因縁の両家を結ぶ工作は先代グロワス12世の御代より水面下で進められていた。サンテネリ側には軍縮、帝国側にはプロザン対策という明確な動因もあり、両宮廷の実力者が積極的に動いたのも大きい。サンテネリにおいては宰相フロイスブル侯爵、帝国はバダン宮中伯である。


 問題は、婿と目されるグロワス王太子の性質にあった。

 この青年の過激な性格はうっすらとではあるが国外にも広まりつつあった。戦好みの先々代、先代に続き、大陸に覇を唱えようと意気衝天の若者。プロザン国王フライシュ3世の信奉者。

 短く刈り込んだ金髪に翆の瞳を備えた精悍な顔つきは強い活力を誇示している。今後数十年にわたって中央大陸をかき回す可能性の高い青年である。


 その彼がグロワス13世として即位し、一年が経ち、状況は急激に動いた。

 シュトロワとヴェノンには頻繁に両国の使者が行き交い、婚姻の話は現実味を帯びていく。

 サンテネリ側には王の心変わりという決定打が、帝国側には正妃アウグステの強い後押しが、急な展開に拍車をかけた。


 帝国正妃アウグステにとって、グロワス13世はまさに理想の婿だった。サンテネリ国王は歴史的にも政治的にも皇帝と同格の存在である。つまり、側妃の産んだ皇子が皇帝となるのならば、自身の産んだ皇女はその皇帝と同格のサンテネリ王正妃となるのだ。

 これ以上の婿は存在しない。


「王都シュトロワは”世界の中心”と渾名される都。その主でいらっしゃるお方の正妃とは、アナリース様はなんと幸せな姫でしょう」


 顔を合わせる度に母はサンテネリを褒めそやす。


「聞くところによればグロワス13世陛下は近年まれに見る英君でいらっしゃるとのことですわ。御年20。アナリース様は今年16歳になられますから、本当にちょうど良い年の差ですこと」

「はい。とても嬉しく思います。正妃様」


 少女はいつものように控えめな同意を繰り返した。どうやら母は自分にグロワス13世と結婚してほしいらしい。ならばそれが自分の将来なのだろうと想像した。

 自身の希望は特になかった。


「グロワス13世陛下は”大陸一の騎士”の称号をお持ちでいらっしゃいます。なんともその名の通りのお姿ですね。雄々しさを湛えた翆の瞳に透き通るような金の髪。逞しいお身体をなさっていらっしゃるご様子。帝国の令嬢誰もが婚姻を望む美男子と聞きましたよ」


 贈られてきたグロワス13世の肖像を娘に見せながら、アウグステは未来の夫を褒めそやした。

 アナリースは特に感慨を持たなかった。感情を持つことは「獣欲」である。「獣欲」は戒められねばならない。


「はい。とても頼もしい殿方とお見受けいたします。正妃様」


 婚姻は二年後。

 アングラン語の授業はにわかに打ち切られ、新たにサンテネリ語の授業が始まった。同時にサンテネリの宮中作法や地理、貴族系図の指導も行われた。


 少女は勉強が嫌いではなかった。





 ◆





 婚約の二年は飛ぶように過ぎた。

 少女は18になった。

 あと数日でヴェノンの宮殿を出立する。


 ——自分は恐らく、もうこの館には戻らない。二度と。

 幼時から住み続けた部屋を眺めながら少女はぼんやりと考えていた。自分でも驚くほどの無感動だ。愛着と呼べる何かがここにはない。ここは贅を尽くして飾り立てられた一個の檻だった。美しく快適だが、檻の本質は変わらない。


 父や母、そして兄弟たち。女官達。

 彼らに対する情は確かにある。多分「愛」という言葉で指し示してもよい感情だろう。しかし、その愛はとても空疎なものだ。なぜならそこには血が通っていなかった。まるで正教の聖句典に描かれた物語のように感じられる。紙面に記された観念としての愛。

 アナリースは人と触れあった経験がない。文字通り、肉体的な接触は皆無だった。王や王妃はおろか、身の回りの世話をする女官達でさえ皇女の肌に触れぬよう細心の注意を払っていた。


 ——グロワス陛下は私に触れて下さるでしょうか。

 一通りねやの教育は受けている。子をもうける際の行為も理解している。それはつまり身体が触れあうことだ。

 最も近しい肉親たる母にすら手を触れられた経験など数えるほどしかない。そんな彼女が顔も見たことがない異国の男と身体を重ねるのだ。

 恐怖と好奇心があった。


 ——グロワス陛下は私を大切にしてくださるでしょうか。

 彼女はアナリースという名の肉体を持った女性であると同時に、帝国皇女という観念の結晶体だ。そうあるように幼時から躾けられてきた。

 獣欲を抑え、慎み深く、微笑を絶やさず、従順にあるように。つまり男が好む最高の人形である。だからこの人形を、グロワスは丁寧に扱ってくれるだろうか。それが関心事だった。


 少女の鳶色の瞳が部屋の片隅を捉える。

 まだ幼い頃、彼女が「獣欲」に負ける度に懲罰として閉じ込められた物置の一角。歩み寄り、扉を開けてみる。

 あの頃は地獄の入口のように感じられた引き戸も、成長した彼女の身体にはごく普通の扉にしか思われない。

 戯れに中に入ってみる。

 当時置かれていた椅子はもうない。衣裳が数着吊るされているのみ。

 仕方なく少女は床に直に腰を下ろし、物置の中から外を眺めた。いつもと変わらぬ文机や寝台が見える。


 右手を軽く掲げ、左右に小さく振ってみた。

 もう顔も忘れてしまった侍女が、小さく手を振り返してくれる。そんな幻を見た。

 それは幻だ。


 ——グロワス陛下は私がこうして手を振ってもお叱りにならないでしょうか。


 抱え込んだ膝が震えて止まない。鼻の奥から湧き上がる何かが、少女の鳶色の瞳からこぼれて止まない。少女は泣いていた。悲しいわけでも嬉しいわけでもない。

 その感情に名を付けるならばそれは恐怖だろう。自分はこのまま一人で暮らし一人で死ぬのか。豪奢な檻の中に一人で生きて、誰とも触れあわず死ぬのか。に手を振ることすら許されずに。


 内なる声が告げる。それは獣欲だ、と。少女が抑えてきたもの。少女の周囲が抑えるようものだと。

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