妃たち 1
フィナンシェってお菓子あるでしょ。外はカリッとしていて中はしっとりした焼き菓子。
昔日本に生きていた頃はお菓子なんてほとんど食べることはなかった。
時計を買ったら時々ノベルティで付いてくる有名パティスリーのやつですら放置しているうちに存在を忘れて賞味期限切れ、みたいなのを繰り返してたね。捨てる前に好奇心から検索してみたら五千円とかする。オマケのお菓子に五千円か…。もったいないから次こそは必ず、と心に誓うんだけど、まぁ結局何度も同じ結末を辿った。
正直オマケならワインの方がうれしい。ワインはね、即日飲むよ。
別にお菓子が嫌いなわけではない。単純に興味が無かったんだ。
でもこのサンテネリに来て開眼した。
恐らく元のグロワス君の好みを身体が覚えていたんだろう。なんか妙においしい。
加えてほら、うちはお茶会やるでしょ。お茶会という名の簡易的な謁見なんだけど、名前がお茶会なので当然お茶とお菓子が出てくる。
お茶は紅茶みたいなやつね。何の葉かはしらないけど、多分地球のそれと似たような経緯を辿って誕生してる。まぁ、イケそうな葉を見つけたら取りあえず煮てみるというのは人類の
ちなみにコーヒーはないです。
で、出てくるお菓子がまた美味しいんだ。
名前は”
話を戻そう。
その
絶妙のカリふわ感。
それがある日、ちょっとアレなやつが出てきた。
普段は均一な黄金色の表面には結構むらがあって、カリ感が足りない。いや、まぁ普通においしいんだけど、いつものやつと違う。
職人さんが新境地を切り開こうと果敢な挑戦をしたのだろうか。
こういうとき、思いを顔に出すのは良くない。美味しい場合はいいんだ。適度に褒めればいい。あくまでも適度に。下手に絶賛するとそればっかり出てくるようになるからね。
適度大切。
で、口に合わない場合は平静を保つ。味覚的に完全に無理な場合は婉曲に「今日は私の舌が少しおかしいのかもしれない」みたいに言う。でも、ちょっと微妙くらいなら何も言わない。色々面倒なことが起こるので。
その日はブラウネさんとお茶を飲んでたんだ。
まだ結婚前、彼女が王様係をやっていたころ。
もう係になって結構経つから給仕は大体彼女がやってくれていた。お茶を入れ終わり、ぼくはお礼を言って出されたお菓子を食べ始める。
口に入れてすぐに、いつものやつとの違いは分かったよ。でも鍛え上げた王様スキルはこの程度余裕。もう一度言うけど、別に不味くないし。普通に美味しい。
ただ味が違うのは事実だからね。
ブラウネさんに「今日の
顔を上げてすぐ気づいた。
凄まじい勢いで観察されてる。いつもの柔らかい笑顔なんだけどね。なんといえばいいんだろう。ブラウネさんの青い目の芯の部分がぼくの表情から手先から、すべてをスキャンしてる。
そこで何となく異変を察しました。
「今日の
「まぁ、そうなのですか! ブラウネは気づきませんでした。——陛下はお気に召しまして?」
ぼくが王様スキルを磨いてきたように、ブラウネさんも侯爵令嬢スキルをお持ちなので、表情は一切変わらない。
「ああ、私は好きだよ。普段のものもいいが、このような塩梅も魅力的だ。これは時折食べたいな」
「はい。承知しました。ではブラウネが後で職人に伝えておきますね」
このときは、彼女が自分好みの味を職人さんに作らせたのかと思っていたんだ。でも後で冷静になって考えてみれば、王の口に入るものを勝手に変えるなんてそうできることではない。何かあれば色々な人々の責任問題に発展するからだ。
そこに思い至ったとき、本当に驚いたよ。
新しい
あれはブラウネさん手製の可能性が高いという。
彼女が彼氏にお菓子を作るなんて普通のこと。日本ならね。
でもここはサンテネリなんだ。
お菓子を作るのは菓子職人の仕事。そして菓子職人には男性しかなれない。これは料理も同様だね。
じゃあ職人が作らない食べ物は一体誰が作っているのかというと、下女なんだ。貴族は当然として、ある程度の収入がある平民の家でさえ主婦が食事を作ることはまずない。貴族や富裕な平民ならば専門の料理人や菓子職人を雇う。そこまで富裕でない家であれば下女が作る。
つまり、女が菓子作りをするということは、その女が下女であることと同義だ。
それはサンテネリの常識に照らして言えば明らかに普通ではない。
だから後日ブラウネさんに真相を尋ねたときも、その聞き方には本当に頭を使ったよ。
「君が作ってくれたのかな? 最高においしかったよ」って台詞は、彼女が作ったのが事実なら問題ないんだけど、もし事実でなかったら、「君を下女と見なしている」と述べるに等しい。
「今日の
結局、建前通り”職人”を呼んでほしいと伝えることにした。ぼくの深読みに過ぎないならばブラウネさんはすぐに職人を呼びに使いをやるだろう。あ、彼女が直接呼びに行くことはありえません。彼女は侯爵令嬢なので。
逆に、作ったのがブラウネさんだとしたら職人を呼ばれると困るはず。辻褄が合わなくなるからね。彼女が言い出しやすいように色々言葉を付け加えておいたから、白状する心理的障壁は低いはず。
しかしぼくの予想に反して、彼女はこの状況に全く以て動揺しなかった。
ごく自然に
「その”職人”は今陛下の御前におりますわ」
とね。
言葉の後ろには「分かっているくせに」という台詞が省略されているっぽいね。
「やはりか。では私は家宰令嬢お手製の類い希な菓子をごちそうになっていたわけだ。これほどうれしいことはない。大変だっただろう。ありがとう、ブラウネ殿」
「ブラウネが陛下の”
そう言いながら、ぼくはブラウネさんの満面の笑みを見た。
◆
さて、これはのろけ話の類いでは全くない。
ブラウネさんの凄さ、あるいは恐ろしさを物語る象徴的な挿話なんだ。
彼女はぼくを本当によく観察している。
ぼくがちょっとした”親密な”世話をされることを好む傾向があることを読み取っているからこそ、お茶を入れ、お菓子を作り、服を整えてくれる。どれも貴族の子女として模範的な行動とは言いがたいにもかかわらず。
ぼくはだいぶ気を遣っていたはずだ。
生活に直結する”世話”はしばしば卑しいものと見なされていることを知ってからは一層。だって、そういうのをぼくが望んでいることを知られたら、サンテネリの常識の中で育った彼女たちにいらぬ苦痛を強いることになるから。
でも、ぼくの擬態をブラウネさんはきっちり見破った。
言い訳をさせてもらえば、ぼくはそういう「生活に直結する”世話”」が親愛の証であるような世界で生まれ育ったんだ。自分のためにお菓子を作ってくれる彼女を不快に思う彼氏がどこにいる。味なんかどうでもいい。ただその感情と近しさがうれしいでしょ。
より踏み込むならば、ぼくはそんな「女性」性に飢えていたんだろう。不幸極まりないことに「神聖にして不可侵な」身体を持った孤高の存在になってしまったから。
ブラウネさんがまだ他人だった頃は明確に一線を引いていた。上司と部下の関係において変な男女の感情は業務に悪影響を与えることが多い。
でも、結婚間近のカップルという関係性に変われば隙も生まれる。その隙を彼女はじっと観察していた。
ぼくはこの「葉っぱ」の一件のあと、彼女と寝た。
もう抑えが利かなかった。
彼女の行為は完璧に計算ずくだ。ぼくが彼女を好きになるように最適の行動を計画的に実行した。
不純に見えるかな?
ぼくはそうは思わない。それだけぼくのことを理解し、心を掴もうと努力してくれたことは、ブラウネさんの真情そのものだ。
後日メアリさんが教えてくれたんだけど、一緒に出席したどこかのサロンで、さる高位のご夫人にブラウネさんが煽られたらしい。
”下女のまねごとは淑女の品位を落とす”って。
人の口に戸は立てられないからね。ブラウネさんのお菓子作りは結構な話題になっていたみたいだ。隠すつもりもなかったんだろうね。
秘密裏に作る方法はいくらでもある。彼女の住む貴賓室は室といいながら実質家なので、簡易的な厨房部屋も備わっている。そこにフロイスブル家お抱えの職人を呼んで作り方を指導させることもできる。さらに安全を期すなら実家でやればいい。にも関わらず噂になるということは、恐らく宮殿の厨房を使ったんだろう。あえて。
で、ブラウネさんの返答が凄かった。
「わたくしは陛下の侍女として、今後ずっと陛下の”
虫も殺さぬ穏やかな雰囲気をまといつつ、あれでかなり気が強い。
彼女は誰の目にも明らかな側妃候補だ。その上で”お世話”と”下女”を組み合わせることで、ぼくと肉体関係にあることを明言してる。つまりもう候補ではなく、将来ぼくの子ども、つまり王子か王女の母となる存在であると告げたんだ。
自己顕示欲もあるだろう。
サンテネリは女性が「自力」で自身の価値を証明できる世界ではない。これは男も似たようなものだけど、男はまだ職業があるだけまし。
女の人は特に身分が高くなると就ける職業が存在しないので、どうしても自身と夫の家柄が重要になる。夫の家柄の頂点は王。それ以上は存在しない。だからその妻たる王妃の肩書きは女性が達しうる最上のものだ。しかもそれが大陸屈指の大国のものであればいうことはない。
ブラウネさんは自身が宰相の娘だから、そこまで強烈に権勢を欲しているわけではないだろう。でも全くないなんてあり得ない。人間だからね。
ぼくだって当たり前にあるよ、自己顕示欲。だいぶねじくれ曲がったやつが。
ブラウネさんとメアリさんが何かとじゃれあいつつも平和にやってるのは、たぶんメアリさんには「職」があるからなんだろうね。彼女は「王妃」であるよりもぼくの「近衛隊長」である方がうれしいようなんだ。だからお互い狙うものが微妙にずれてる。
ブラウネさんは「王妃」であることの意味をしっかり理解している。そして王妃たちのとりまとめ役に近い立ち回りをしてくれる。姑との仲も良好。暇なときはよくお茶してるらしい。
だからこそ、彼女に頼みたいことがあるんだ。
◆
ベッドに寝転がりながら彼女の髪をすく。撫でる。
普段大きく編んでいる赤み強い金髪は今だけは解き放たれて、白い布の上に広がっている。
「ブラウネ、一つ頼みがある」
「はい陛下。ブラウネは陛下のお願いは何でもかなえて差し上げます」
冗談めかした返事だ。たぶんぼくがしょうもないことを言い出すと想像しているんだろう。でも、申し訳ないけど結構重たい話なんだ。
「アナリゼ殿を、頼む」
アナリゼさんをその観察眼で隅から隅まで分析して”仲間”に引き込んでほしい。彼女がぼくに対してしたように。
現代日本の感性ではありえない頼みだ。でもサンテネリにおいてはそれも仕事。
ブラウネさんは愛人ではない。歴とした王の側妃だ。配偶者であると同時にビジネスパートナーとしての立場も持つ。
「では、どうなさるかお決めになられたのですか?」
突飛な話題に少し驚いたのか、彼女は肘をついて半身を軽く持ち上げるとぼくの顔をのぞき込んできた。乱れた髪の一房が汗で頬に張り付いている。
生々しい、女の質感がある。
「エストビルグとプロザンを仲介する。アナリゼ殿には働いてもらわねば」
「帝国とのご縁を使って?」
「そうなるね。皇帝に直接働きかける手段の一つになってもらう。父は娘に弱いものだろう」
「それはどうでしょうか」
ブラウネさんはくすりと笑った。自身と父フロイスブル侯爵の関係を思いだしたのかもしれない。
「だから、アナリゼ殿を受け入れてやってほしい」
「あら、心外ですわ。ブラウネはいつもアナリゼさんと仲良くしております」
「分かっているよ。分かっている」
ぼくは彼女の髪を撫でる。時々一房指に絡ませて巻いてみる。そしてほどく。ブラウネさんはその悪戯な指を動くがままにさせておいた。
サンテネリ出身の側妃達がアナリゼさんを拒絶していたわけではない。皆ごく友好的な関係を保っている。
ただどこかに見えない壁が存在するのも事実だ。そしてそれは彼女たちが国策を理解しているがゆえでもある。国の方針次第では、アナリゼさんは「一時の客」に終わる可能性もあるからだ。
ブラウネさんの場合、エストビルグ王女がもし国に帰ったところで自身が正妃の座につくことはない。序列ではゾフィさんが上にいる。だから彼女にとって敢えてアナリゼさんを排斥する理由はない。
子どもができたら気が変わる可能性はあるけど、間近でぼくを見てきた彼女はサンテネリの王冠がそれほど素晴らしいものではないことを理解している。ぼくが全力で隠そうと頑張っている不安や恐怖、重圧を、ブラウネさんは確実に見抜いているはずだ。
意識が途絶えるまで酒を飲まないと眠ることさえままならず、昼間は手の微細な震えが止まらないような、そんな生活を子どもに与えたいと思う親がいるだろうか。唯一の報酬たる国王大権すらもうすぐ手放してしまうのだ。
「ブラウネ。頼む、ぼくを助けてくれ」
彼女と身体を重ねている瞬間、ぼくは色々なことを忘れられる。
彼女はぼくを包んでくれる。その柔らかい身体で。
とても心地よくて、いつまでも続いてほしいと願う時間だ。ぼくは彼女に女を求めている。強く求めている。
「ブラウネにお任せ下さいね。大丈夫です、グロワス様」
波打つ豊かな髪の隙間から真っ白な首筋が見える。ぼくは右手を伸ばしてその細い筒に触れた。片掌で七割方覆えてしまう程に、か細い首。
ぼくはいい。首を落とされても構わないよ。斬首でもいいし銃殺でもいい。ぼくの行いの帰結がそれならば不満は言わない。まぁ滅多にお目にかかれない「臨死体験者」でもある。
慣れてる。
ただし、赤く燃える金糸に包まれたこの白磁の首。ブラウネさんの首。これはだめだ。
この首は、絶対に落とさせない。
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