敵 1
「ジュール君。陛下はどんなご様子だった?」
シュトロワ新市街の古びた屋敷。グロワス11世様式の無骨な二階建て住居だ。ささやかな中庭の長椅子に腰掛けた小柄な男が、息せき切って走り込んできた年若い青年に冷静な調子で声を掛けた。
「先生、あれは…あれは傑物です…」
女性と見まごうばかりの薄く繊細な口元。官能的に通った鼻筋。そして細く長い手足。まだ幼さを残す茶色の瞳には、先刻見たばかりの光景が残り香となって漂っている。
この青年、ジュール・エン・レスパンはその名が示すとおり、アキアヌ公領内に領地を持つ子爵家の四男として生を受けた。貴族らしからぬ学問の道に足を踏み入れ、どれほど粗野を気取ろうとも、幼時からたたき込まれたちょっとした仕草が周囲にその出自を暴露してしまう。例えば上着の裾を直すといったほんの些細な動きの滑らかさに、憎むべき育ちが出るのだ。
先生。
そう語りかけられた初老の男は、まず美青年と言って差し支えないジュールとまさに対称的な容姿を持っていた。
短い枯れ木の枝のような短軀ゆえ、その上に乗った頭蓋が殊更に大きく見える。豊かに蓄えた頬髭も、彼の病弱じみた雰囲気を打ち消すことはできない。
「そうだろう。陛下は傑出した知性をお持ちだ。あれほど私が言ったのに、きみは信じなかったが」
「でも先生、俺が驚いたのは頭のよさじゃない。——あの王には度胸がある」
「私が拝謁した際には至極柔和な物腰でいらっしゃったが。きみの感想とは開きがあるね。何かあったのかい?」
ジュール青年のぶっきらぼうな口調に比してに先生のそれは柔らかく穏やかだった。
冴えない小男と長身の美青年。
何も知らぬ者が二人を見れば、貴族の若殿と初老の下男の組み合わせにすら見えたかもしれない。しかし、それは無知故の臆見に過ぎない。
先生はまさに先生なのだ。
彼の名はエリクス・ポルタ。
名乗りに”エン”付号を持たないことから分かるように純然たる平民である。
南部の地主の三男として生まれたエリクスは、幼時からその抜群の言語能力と記憶力が地元で評判を得ていた。貧相な肉体に鋭敏な頭脳。ならば”良い方”を生かすしかない。
父親はその才能を認め、農家の三男が進むには少々贅沢な将来を息子に用意した。彼を公証人か弁護士にするべくレムル半島へ送り出したのだ。そこには大陸最高峰の法学部が設置されたビズ大学がある。
エリクス少年はビズ大学の法学部常設講座に登録し、一人で下宿生活を始める。
地元の期待を背負い学びながらも、二年もするとこの若き天才は次第に物足りなさを感じるようになる。法とはつまり現実社会の具体的な規則の集合体だ。彼はさらに根源を求めた。社会を構成する人間そのものの法則を探求したいと欲したのだ。
法学士号を無事手にしても、彼は故郷に帰らなかった。レムル半島の諸都市に設置された人文学常設講座を巡回する旅に出たのである。
旅は5年以上に及んだ。その中で積上げた各地の学者達、そして時には正教僧との対話を糧として、処女作『道徳の起源について』を書き上げる。もう青年とは言いがたい歳に近づきつつあった。
ビズ大学の講座請求論文として提出された『道徳の起源について』は評判を呼び、彼は職業として学問の世界に足を踏み入れる。その後は常設講座の教授として活動する傍ら、いくつか小論考を著したものの、まだその名声はごく小さな専門家の領域に止まっていた。
彼を一躍大陸規模の有名人へと押し上げたのは、45歳の時に発表した大著『人文学の基礎としての理性の探究』においてである。
かねてからの野望通り、人間の世界認識における理性の構造を理論づけることを試みた本作は中央大陸全土の思想界を文字通り席巻した。
”魔力”の観念を完全に棚上げした上で、人間存在一般が持つ理性の普遍的様式とその限界を論証したその研究は、18期における思想研究が向かうべき方向性を決定づけるものとして評価されたのである。
そして彼は故国に凱旋する。
サンテネリ最高の権威を誇るグロワス9世校。その常設人文学講座を担当する教授として。
彼の主著たる『人文学の基礎としての理性の探究』は純然たる学術論文である。専門的な訓練を受けぬ人間が読んで理解できるものではない。しかし、長年ビズ大学で学生達を指導した経験から、彼は自身の思想を魅力的に——つまり不正確な例えをもって——人々に解説する術を心得ていた。
そして彼はサンテネリ社交界の人気者になった。
貴族達の夜会に招待されれば、専門的な知識を持たぬ主催者や賓客達の顔を潰さずに楽しませる術を心得ていた。恵まれているとは言いがたい容姿にもかかわらず、彼の機知溢れる会話術と柔らかな物腰、そして巨大な名声は貴婦人達を虜にした。
身分の上下を問わず、彼と”お友達”になりたがる女性は多かった。しかし彼はそれらの申し出を全て、優雅に、しかし誤解を許さぬ口ぶりで謝絶した。
彼の周囲には一切、女の影がなかった。
サンテネリを代表する教養人の一人としてその評判を不動のものとしたエリクスの元に、最も栄誉ある誘いが舞い込んでくるのも時間の問題だった。
サンテネリ国王グロワス13世から、茶会への招待である。
エリクス・ポルタ教授はいくつもの”楽しいたとえ話”を用意して
通された部屋は王の執務室に隣接する応接の間。
10分ほど部屋の隅に控えていると、不意に巨大な扉が開き、王が現れた。
エリクスはすかさず跪礼する。
「遅れてしまって申し訳ない。ポルタ殿。楽にしてほしい」
招待を受けた幾多の夜会で彼は様々な貴族との出会いを経験した。貴族達は程度の差はあれ皆一様に彼を丁寧に扱った。平民ではあるが偉大な思想家として。
貴種が優秀な平民を対等に扱う「素振り」。
例えば今回のような場合ならば、敢えて彼の元に走り寄って肩を抱き立たせ、芝居がかった素振りでこう語りかけられる。
「おお! なんと、サンテネリが誇る頭脳ポルタ師をお待たせするなど!」
だからだろうか、その対極に位置するグロワス13世の素っ気ない対応はエリクスに強い印象を与えた。
王は自身が上座に位置することを分かっている。しかしそれはあくまでも職位の上での上下でしかないと捉えている節がある。だから社会的規則の要請する儀礼を終わらせてしまえば、あとは単純に個人対個人の関係になる。
”楽にしてほしい”の一言は、初対面で他者の緊張を和らげるための非常に実務的な響きを帯びていた。
王はごく自然に椅子に腰掛け、彼もまたそれに倣った。
「ポルタ殿の『人文学の基礎としての理性の探究』、とても興味深く読ませてもらった」
「光栄にございます。陛下」
”とても興味深く読んだ”。この台詞を何度聞いたことだろう。心内エリクスは嘆息する。
——読んでなどいないだろう。文字を目で追っただけだ——。
結局のところ、話題になったはいいものの内容は至極専門的な思想書なのだ。適切な訓練を受けていなければ大意を理解することすらできない。象徴的な一文を卑近な自身の経験に照らして曲解するのが関の山。そのような的外れの感想を嫌というほどぶつけられてきた。だからエリクスは相手の誇りを傷つけぬよう、見当外れの賞賛を軽やかに受け流す術を体得せざるを得なかった。
——陛下のご慧眼、まことに感服いたします!——
心にもない台詞を喉元まで準備していたエリクスを、しかしグロワス13世は大きく裏切った。
「貴殿の説の通り、我らの理性には届かぬ領域がある。神の存在もこの世の始まりも我々の理性は感得し得ぬところだ。なるほど。私もそう思う。だが、一つ疑問があるのだ。——ポルタ殿は”事物の存在”自体をどう証明される? 貴殿の考えでは、我らの体験するこの世界は我らの感性を理性が加工した、いわば脳内の構築物——幻に過ぎない。ではその感性を刺激する”事物そのもの”をなぜ所与のものと見なせるのだろう。事物そのものの存在証明を貴殿がどうお考えか、それを知りたいのだ」
あまりにも核心を突いた一言に、エリクスは喉元を締め付けられる思いがした。
まさに王の指摘通り、彼は人間が世界を理解する術を説明する理論を作りあげた。しかし、その理論の発端たる「物自体」の確実性についてはあえて取り上げなかった。それは世界の始まりや神の存在同様、人間の理性が捉えることが理論的に不可能なものだからだ。
しかし、それを証明できなければ、彼の理論の大前提が崩壊してしまう。
「陛下…それは、まさに…それを疑うことは正教を否定することと同義でございます」
「正教のことは取りあえずおいておこう。確かに私は”正教の守護者”の称号を帯びてはいるが、もはやそのような時代でもあるまい。私はただ知りたいのだ。当代随一の碩学と名高い貴殿がどのようにお考えなのかを」
グロワス13世は22歳。50を過ぎた彼からすれば息子といっても何らおかしくない年齢の若者である。同年代の学生を日々講座で指導しているのだ。
その彼が、専門的な思想教育を受けたとは考えづらい貴種の若者を相手に答えに窮している。
何が起こっているのか。
取り巻きの学者たちから聞きかじったにしては口ぶりが堂々としている。
長く若者を指導してきた経験から、グロワス王の語り口が他人の知恵を理解もせずに繰り返しているわけではないことがすぐ分かった。
——この王は自分の思想を理解している——
「仰るとおり、”事物の存在自体”を人が証明することは不可能事であろうと思われます」
「では”信じる”しかないか? この世界が何者かが見ている夢ではないと。貴殿は笑われるかもしれぬが、私にとっては深刻な問題なのだ。”この世界は本当に存在するのか”と、いつも頭を悩ませている。——ただ、これは秘密にしてほしいな。他の者に知れると気狂い扱いされかねん」
王の苦笑はとても二十代の青年のものには見えない。少し疲れた、淀んだ笑みだ。
「陛下のご下問にお答えすること叶いませぬ。私は”事物そのものの存在”証明が不可能であることを間接的に証明いたしました」
「そのようだ。ただ、もしかしたらまだ書物に著されていない何らかの考え方をお持ちかもしれぬと思い尋ねてみた。しかし、やはり辛いものだ。人は結局”理屈では説明できないもの”の上に立って生きていることを認めるのは」
「ですから、我らがなすべきことは、説明できぬものに注ぐ労力を、他のものに振り分けることでしょう」
結局のところ、エリクスの主張はそこに終着する。語り得ぬものを語る形而上学ではなく、この世をよりよくするための方策を考えるべきなのだ。
この不公正で不寛容な世界を変えるために。
「エリクス殿の意見には同意せざるを得ない。私個人はおそらく、あなたと近しい考えを持っていると思う。例えば私は人の価値や意味を信じない。人は無意味な存在だ」
「——!」
話は非常に危険な領域に進みつつある。今グロワス13世が口にした台詞は、王がユニウスの思想を知り、理解していることを示している。そして、それをエリクスに伝えることで、言外にある言葉を伝えていた。
——おまえがユニウス思想の信奉者であることは知っているぞ——
そう囁かれている。この国の至尊の主に。
エリクスは背筋が凍り付く感覚を味わった。命のやりとりとはほど遠い人生を送ってきた彼にとって、それは生まれて初めての恐怖だった。
「ああ、エリクス殿の懸念は分かっている。貴殿を罰したりなどしない。私はただ語り合いたいのだ。貴殿は不思議には思わないか? ”例の思想”がなぜ第9期に突如現れてきたのか。思想家であればその不自然さは理解できよう。私が知らぬ先行思想などがあるのだろうか」
「強いて挙げるならば”諸民族のうねり”よりも遙かに昔、レムル半島の古代思想にその一端はございます。しかし、レムルの帝国における自由は”自由民”に限定されたものでしかありません。精緻な理論はあれど、それはあくまで対象が限定されたものです」
本来ならば”例の思想など知りもしないし興味もない”としらを切るべきところだが、生憎エリクスは学者だった。興味を引く議論には抗えない。
さらに、自身がユニウス思想に惹かれる原因となった社会の抑圧の象徴的存在たる王に対して、なんとか一矢報いたいという向こう見ずな気持ちが湧いてきたのだろう。
「私もそこで悩んでいる。自由民限定のそれと”全ての人間の自由・平等”は似て非なるものだ。本来思想は社会の状況と連動するはずだ。貴殿の理論が、もはや使い物にならなくなった正教思想の代替品として社会に要請された諸々の集大成であるように」
「まさに。第9期において、ユニウスの思想が立ち現れる必然性は全く存在しません。9期といえば正教の世界観が人々の需要にしっかりと応えていた時代ですので」
グロワス王は腕組みをして長椅子の背に深く身体を預ける。何かを考え込んでいる。エリクスは王の返答を辛抱強く待った。相手が王だからではない。対等な議論ができる相手が長考するならば、その先に出てくる知見はきっと価値あるものになる。数々の討論を経て、彼はそれを知っていた。
逡巡の素振りを二度、三度見せた後、王は口を開いた。
「エリクス殿にお聞きしたい。今のサンテネリには、ユニウス思想を要請する社会的条件が揃っているかな」
◆
数ヶ月前になされた王との会見をエリクスは一時も忘れることができない。
あれは一体なんだったのかと心底不思議に思う。
グロワス13世は知性の面で明らかに英邁であり、先進の思想をよく理解している。いや、理解というよりも”それが当たり前”と思っている節すら見受けられた。
にもかかわらず実際の政策は極端な過激に振れることはない。思慮の足りない”利口者”は王をさして「軽い王冠」などと言うが、それはとんでもない誤解だ。あの王を操り人形にできる人間などいない。もし傀儡になっているとすれば、王が”そうあろう”としているからにすぎない。
思考の海に沈みかけたエリクスをジュール青年の興奮した言が引きずり出した。
「館の前に詰めかけた民衆にグロワス王は演説をぶったんです。あんなこと…この目で見た今でも信じがたい。群衆にその身をさらして、俺たちに語りかけてきた。王が、ですよ!? 民の血を吸って肥え太る蛭の親玉が…」
興奮のあまり紅潮した頬をジュール青年は両手でこすり合わせる。落ち着かないのか、先生の前を行ったり来たり、せわしなく動き回っていた。
「まぁ座りなさい。ほらここに」
ポルタ教授は身をよけて長椅子に空間を作り、青年に勧めた。
「先生の言うとおり、王は少なくとも暗愚ではありません。人を動かす術を心得ています」
エリクスは会見の終盤、グロワス13世から投げかけられた問いを思い出す。
”今のサンテネリには、ユニウス思想を要請する社会的条件が揃っているかな”
彼は「揃いつつある」と正直に答えた。
人間社会の構造はまず侵しがたい現実によって導かれる。賢い者と愚かな者、強い者と弱い者。その差は原初の状態においてすら存在する「個体差」だ。そして、差は思想によって固定され、歴史によって補強される。賢い者、強い者、狡猾な者は王と貴族になった。その地位は正教によって公認され、積み重ねた時間によって常識化した。
しかし、「魔力」観念の形骸化を発端として、身分制度を裏書きする思想の真実性は揺らぎ続けている。人々は感情で正教の神を奉じるが、理性はその理屈を嘲笑う。
なぜ王がいるのか。なぜ貴族がいるのか。その問いに対する答えを宗教も思想も提供できない時代が到来しつつある。
あの時、エリクスの言を受けた王は碧玉の瞳を瞼で隠した。目を閉じたまま上を向き、何かをこらえるようにじっと佇んでいた。
そして小さく呟く。
”そうあるべきだ”、と。
「だから言ったろう。グロワス陛下は賢いお方だと。不敬な話だが、もし陛下が私の講座に学生としていらっしゃったら、私は彼を徹底的に虐めただろうね。競争相手は潰しておかねば」
「先生はそんなことしない! 先生は公明正大であることを何よりも重んじる。この糞みたいな時代に希有の人です。俺のようなはみ出し者まで受け止めてくれる」
折角腰を下ろしたかと思えばまた勢いよく立ち上がって、ジュールは敬愛する師の自虐を打ち消しに掛かった。
「まぁ、君が私をそう見てくれるのはうれしいよ。——話を戻すがね、これで君も分かっただろう。現状の我が国が戴くにはグロワス13世陛下は最上の王だと。最も欲しいものが手に入らないならば、次善のものの中から最良を選び取るのが理性的というものだ」
再び腰を下ろした青年の存在感を身体の端に感じながら、エリクスは思う。
エリクス・ボルタは講座の教え子たるジュール・エン・レスパンをかわいがった。目を掛けてきた。彼を好ましく思っていたし、青年もまた自身を好ましく感じていることが分かる。
名家といえる貴族の家に生まれながら軍ではみ出し者となり、シュトロワに流れ着いて彼の講座の門を叩いた青年。先進のユニウス思想に魅了され、溢れる若さと勇敢さをその実現のために使おうとする熱情。
若さ。若さだ。
エリクスが失ってしまったものが全て、この青年の優美な体内に充満している。
この教え子はグロワス13世と同年代だ。片や自身の出自を憎み、不条理なこの世界を変革することを夢見ている。そしてもう一方は、不条理なこの世界の象徴的存在として、この
今のところ、ジュールがグロワス13世に比肩しうるものは何もない。地位や名誉は当然として、知的能力においても政治能力においてもとても相手にならないだろう。
ジュールは同年代の学生の中ではかなり優秀な方だ。エリクス教授の難解な理論の筋を追い続ける忍耐力と論理能力を持っている。短慮に走ることがなければ、彼もまた歴史に残る思想を生み出す可能性がある。だから異常なのは明らかにグロワス王の方だ。
「確かに先生の言うとおり、あの王は少し毛色が違う。でも先生、王は王であること自体が”不正”でしょう。『随想』にある通り、我々は”故なくして分かたれた”。今日もここに来る最中ルー・サントルを通りましたよ。肥え太った豚のようなやつらが意気揚々と闊歩している。あいつらが店で落とす金の百分の一でもあれば、旧市街の人々は一年生きていける。くだらん髪飾りの値段と人の命が等価なんだ。それは”不正”でしょう。それを正当化する理論は存在しません」
熱の籠もった長広舌には異議を挟むべきところをいくつも見つけられる。だが、エリクスは黙って聞いた。つまるところ、”条件が整いつつある”今、物事を動かすのは小理屈ではない。輪郭すら定まらぬ炎。熱だ。
晩秋の日は短い。夕方の最終章。濃い橙色の陽光が、教授の隣に座る男の横顔を陰影豊かに浮かび上がらせていた。
「ジュール君、君に一つ考えてほしいことがある。社会によって否応なくその生きる位置を定められたものに罪はあるか?」
「それはないでしょう。彼らは何の意味もなく最低の生活を強いられているんだ。彼らが食い物を盗んだとて、それを誰が非難できます。そうしなければ彼らは死ぬんだ!」
「そうだね。では、王はどうだろう。彼もまた、たまたまルロワの長子に生まれたに過ぎない存在だよ」
「王には罪がある。その一言で多くの人々が殺される。グロワスが戦を煽れば戦うのは民だ。グロワスが飲む葡萄酒も、むさぼる食事も、ふかふかの寝床も、すべて民から奪い取ったもの。何の権利もないのに」
「なるほど。だが、そうしなければ周りが許さない。そうしなければ王は死ぬ。それが王の立場だ。民と変わらないのではないかな」
ジュールは師の顔をまじまじと見つめた。彼の言いたいことを理解できないほど青年は愚かではない。王も民も”そうあるように”この世界に拘束されている。
「程度の問題です。旧市街の市民たちができることはせいぜい食い物を盗むくらいだ。それも一夜を生き抜くためのわずかな。しかし王はその命のために大量の他者を犠牲にします。それは不正でしょう」
いい答えだ。エリクス教授は教え子の答えを確かな満足をもって受け止めた。
——程度の問題。
「この世界の”不正”は正されなければならない。これは私と君で一致するところだね。では、是正のために流される犠牲の血はどうか。君は程度の問題といった。私が生きている間に王なきサンテネリ共和国を見ることはできないだろう。だから若い君が覚えておいてくれ。——王の流す血と君の流す血、その総量を比べることの大切さを」
言ってエリクスはゆっくりと立ち上がる。
日が落ちた。
これから、外は冷えるだろう。
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